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いざこれからというタイミングで、ヌが初めてだと君に苦労をかけると思って、先に専門業者で済ませてきたと言い放つヌ
「初めてだと君に苦労をかけると思い、先日事前に済ませてきた」
「は?」
水の国フォンテーヌには、そのイメージとは裏腹に意外と高い山々が存在する。ベリル山地、エスス山麓、エリナス山脊など地区ごとに著名な山脈があり頂上まで登ればさぞ絶景が見られるという反面、ところどころに人工物も見られるが、忽然と姿を消したイプシシマスの塔・四散して宙に浮かぶフォンテーヌ運動エネルギー工学科学研究院地区など。とはいえ人間が生活を営むという観点で考慮すれば、やはりここパレ・メルモニア以上の高層はないであろう。かつては水神フリーナが御座していた最上階のスイートルームこそ空室となってしまったものの、上層の一室にて、一つの逢瀬が繰り広げられていた。
いわゆる恋仲になっても、リオセスリとヌヴィレットの間の進展は亀のような遅さであった。そんな中、ようやくすべての状況をお膳立てして迎えたはずの初夜。
いざこれからというタイミングで、開口一番にリオセスリはヌヴィレットに冷や水を浴びせられた言葉があった。そうして直ぐには理解し難いその文脈に上手く反応できずにいると、続けてヌヴィレットは畳みかけてくれた。
「私も同衾の経験を得たから、これで君に不便をかけずに済む」
「……待ってくれ。色々と聞きたいことがあるんだが」
「ふむ、何だろうか?」
リオセスリの微かな動揺を知ってか知らずか、それでもヌヴィレットは堂々と慇懃を通じた事を隠さない様子で、首を軽く傾げる様子を見せた。今まで房事に関しては、もじもじとしている仕草さえ見られたというのに、何という事であろうか。やはり彼は変わってしまったのだろうか。そもそもリオセスリが積極性をはき違えず和合に慎重を期していたのは、経験がないであろうヌヴィレットのペースに合わせてゆっくり歩み寄ってきたのだ。性行為の知識がないとか、面倒をかけてしまうとか、それは事前に申告されていたし、そんなこともひっくるめて全てを凌駕するつもりであった。それが……
「いつ?どこで?誰と?何を?」
捲し立てた自覚はなかったが腹の底から響く音程で、リオセスリは口供書のように素早く回答を求めることとなった。余裕がないからこそ、頭痛を抑えるそぶりさえできない。
「ああ、実は……」
臆せずもせず、ヌヴィレットは淡々とその顛末を離し始めた。
いわく、専門の業者に頼んで一夜を明かしたと。エスコートエージェンシーによる男性出張エスコート。搾取的行為の斡旋組織のことは、もちろんリオセスリとて知りえている。そういった輩を経由して、水の下に足を運ぶこととなった者も多いとはいえ、今回ヌヴィレットが頼ったのはそれこそ爵位持ちのごく一部の立場しか知りえない限られた相手専用のアテンダーらしい。そのへんのハスラーではなく、きちんとしたレントボーイが相手だったらしいが。別にマッサージパーラーやタントリックヒーリングの話を聞きたいわけじゃない。
フォンテーヌには、「性的なサービスの代価に金銭を受け取る」こと自体は合法であるという判例がある。売春はあらゆる社会的地位の男性にとって便利であり、多くの貧しい女性にとっては経済的に必要であり、社会に容認されていたと主張する。これは、逆もまたしかりである。
しかしながら、ベッドの上で淡々と2000年分の判例を聞きたい気分ではない。何より頭の整理がつかずあまりに眩暈がしたのでリオセスリは結局ヌヴィレットとの初夜を完遂せずに、その日は終わった。
意外と自分が処女信仰をしていたことが、一番納得いかなかったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
翌日、ヌヴィレットが依頼したという専門の斡旋業者を四方八方の手を尽くしてリオセスリは突き止めた。基から合法非合法問わず手段を厭わないことに全く抵抗はないが、今回は最後の決め手として公爵という自らの地位が役立った相手だった。こればかりは、過分と一度は贈り主から断ったこともあったが、利用できるものはどんなものでも利用する、それが今であった。
無論のこと、この国の最高審判官を上客にしたなどという天変地異を守秘義務の塊でもある彼らが明かすはずもない。リオセスリとて、そこを知りえるまで拷問をするために来たわけでもなかった。しかしながら、目的の為に手段は選ばない。どんなに口が堅かろうが、こちらは最高審判官ご本人からある程度の顛末を苦々しくも聞き得ているのだ。それらを推察するのに、部外秘としか口にしない相手をしている時間よりは、より確実を選んだだけだ。平たく言えば彼らは合法であるからこそ真面目過ぎるのが唯一の難点なのである。まあつまり、雇用主である彼らは従業員であるレントボーイの身元もきちんと掴んでいる。方法はほんの少し力任せとなった部分もあったが、そのレントボーイの情報の記載のあるファイルが収納されている書棚の鍵をぶち破り、当日の状況やヌヴィレットから聞き及んだ本人の容姿などから消去法で、その人物をリオセスリは吊るしあげたのだった。
「さざ波に鱗キラリ〜♪波音に魚跳ねて唄うおやすみララバイ〜♪恋しさに砂を掬い〜♪貝殻と涙だけのひとりホームカミング〜♪〜♪」
ヴァザーリ回廊の真正面に鎮座するのは、廷地区アクアロード・ターミナル。街の麓として、その入り口にはあらゆる水の頂点に立つ国を象徴して、白霧と泉の庭を示す大きな噴水がある。噴水広場は、フォンテーヌ廷一の市民の憩いの場である。観光スポットでもあるので写真撮影をするフリーカメラマンや新聞売りの子供など、家族連れやお年寄りまで幅広い年齢層が立ち寄る。もちろんパトロールをする警備隊員や警備ロボも定期的に立ち寄るので、安心安全な場所な筈であった。
そんな明るい場所に少々不釣り合いな自覚はあったもののリオセスリは、噴水脇で楽器片手に歌を奏でる一人の男を凝視していた。適度に通行人が気になる程度には足を止める、そんな程度の声量というのが概ねの印象であろう。噴水広場には他にもスメール伝統楽器を携えた音楽家などもおり、歌を奏でる人間がいても別段珍しいというわけではなかった。
一曲だけ、件の男の歌を腕を組みリオセスリは遠目で眺めた。たまに親子連れが見ていたり、駆け巡る女の子も足を止めたりすることもあったが、最終的に周囲にほかの人間が立ち寄っていないことを確認してから、歩み寄った。
「少しいいかい?」
「こんにちは〜♪ラブリープリティーゴージャスな人〜♪」
「話を聞きたいんだが、時間はあるかい?」
「ふむ、構わない。僕は、ポディエ〜♪多種多様な才能を持ち、できぬことなどない路上パフォーマーさ〜♪」
「ほお……他にはどんなことができる?」
「演劇、オペラ、楽器……それにマジックもできるよ〜♪芸術家たるもの、時代と共に進まないとね。どんなスキルも多少は身につけておかなくちゃ〜♪」
「それは随分と感心だな。そんなあんたは最終的にどうなりたいんだ?」
「いつか〜♪あのエピクレシス歌劇場で、みんなのためにショーが出来るといいと思ってるよ〜♪」
「……なるほど、歌劇場ね。確かにあそこのショーは有名だな。さて、じゃああんたは、あそこで行われる『審判』に興味はないかい?」
「♪!」
リオセスリと会話している間もずっと弾き語りをやめていなかったポディエの手が、初めて止まった。小刻みに身体を揺らし取っていたとリズムも、移り変わり瞬く間に直立不動となる。
「突然、どうした?」
「いや……あの、その……」
「ん?よく見ると、あんた眼鏡を外すとなかなかの男前じゃないか」
「いや、そん……なことは」
「そういえば、あんた昼間はこの噴水広場でよく見かけるが、夜は姿を見せないそうじゃないか」
「ぼ、僕に……一体何の用なんだ!?」
「最初に言っただろ?少し話が聞きたいって。さて、こんな明るいお天道様の下で話せる話題じゃないことは、あんたも理解できるはずだ。移動しようか」
一気に畳みかけて男の置かれた状況を理解させたところで、リオセスリはポディエの退路を断ちつつ、目下のアクアロード・ターミナルの建物へ導いた。
一階セントラルポートホールは、ナヴィア線・クレメンタイン線への水路を経由する人はもちろん、最上階のパレ・メルモニアへ向かうエレベーターホールとして役目もあるため水路インフォメーションも待合室もそれなりに人が混み待っていた。そんな中、水路検修員の横を通り何気ないようにリオセスリはポディエを連れ立ち水路点検用の小部屋に入って、鍵を閉めた。明らかに堅気ではないリオセスリ相手に、それは借りてきた猫以下の順応さであった。
「さて、想像はついていると思うが、俺は先日のあんたの夜の仕事について少々問いただしたい」
ここにきて、遠慮せずにリオセスリは件の男に詰め寄った。どこまで伊達だかは知らないが、眼鏡は強制的に外させた。そうして改めてポディエの頭の先からつま先までを明りの少ない部屋でじっくりと観察するのだ。ふーん、コイツが、ヌヴィレットさんを組み敷いた男ね、という品定めの物差しで。無論、忌々しくはあるか双方の合意の上であるからして男に全面的な責任はないことは理解しているが、ヌヴィットのハジメテを得た奴を確認して起きたかったのだ。正直、少しはリオセスリに似たタイプの男が現れるのかと思っていたのだが、少々対局にも近い。ただ、貴族などの上客を相手にするエスコートエージェンシーの選択からすると、こういうタイプの男の方が色々と都合が良いのかもしれない。
「僕は……」
「あ?」
「……ぼ、ぼ…僕は、どんな大罪になるのでしょうか?」
「は?」
「知らなかったんです!本当です!信じてください!身分は明かせないけど、高貴な客だって。でもそんなのいつもの事だから。お貴族様なんて誰が来たって僕みたいな市民は知らないから、いつも通りの仕事だって思って。それなのに!!!」
「さすがに、あの人の顔は知ってたって事か」
「最高審判官様が来るなんて知ってたら、受けてなかった!!!」
狭い部屋だというのに遠慮せずポディエは盛大に叫んだので、反響するように高い音の余韻は残った。深い腕組みをして見定めるが、恐らく本心だろう。いくら上客相手にする商売とはいえ、限度がある。その最上位がヌヴィレットというわけだ。とはいっても、リオセスリはまるで同情するつもりはない。罪状を決める事が仕事ではないが、それでもなにかしらの……
やはり簡単に怒りは収まらず、思わず男を問い詰めてしまう。
そうして、怒気をはらんだリオセスリの凄みがヤバ過ぎて、ポディエは勝手にペラペラとヌヴィレットとの一夜を喋り出したのだった…………
◇ ◇ ◇
「どうしたんだい、ヌヴィレットさん。浮かない顔をして」
「リオセスリ殿……私は」
互いに多忙な要塞管理者と最高審判官の邂逅はそう容易な事ではない。それでも、恋仲だからこそ時間を縫ってでも見繕う。そんな一夜。
ベッドサイドのヌヴィレットはいつもより口数少なく、元気がないように見えた。無論、世間一般からすればヌヴィレットといえば、無駄な饒舌を口にはせず真面目という印象であろうが、恋人であるリオセスリからすればそんな些細な一面でさえ気が付くのは容易であった。それでも、一応ヌヴィレット自身から言い出すのを待っては見たが、何とか目線は合うがその言葉は続かずという繰り返しで、とうとう後押しの言葉をかけるに至ったのであった。
「先日、私と話した後の君が少々怒っているように感じて……」
「確かに俺も、それは隠しきれていなかったな」
「最初は何を怒らせたのか、私も理解が出来なかったのだが。改めて考えたら……もしかしたら私はとんでもないことをしてしまったのでは?と思い、その……やはり……私は、君と思いを遂げる前に、浮気をしてしまったのだろうか?」
ようやくヌヴィレットも、先日自分が行ったことが一般的ではないことの自覚が沸いてきたようであった。肩を竦ませて後悔の念を染み渡せた。歌劇場では到底見せない懺悔を口にしたヌヴィレットは、ぎゅっと拳を握りしめて叱咤を待つ。
そんなヌヴィレットを、リオセスリは大きな腕でふんわりと温かく抱擁して見せた。
「あー心配しなくていい、あれは浮気なんかじゃないから」
「しかし……一般的には」
ぽんぽんと優しく撫でるリオセスリの腕の中でそわそわと居心地悪そうに否定をするヌヴィレットに、改めて声をかけることとなる。
そう……あの日、ヌヴィレットがポディエという男と過ごした一夜の顛末を、だ。
曰く――依頼を受けて確かにヌヴィレットと同じベッドで過ごしはしたが、一切触れていない未遂だという事だ。仕事だから最低限の演技はしたが、ヌヴィレットが高貴過ぎてとてもじゃないが、結局指一本マトモに触れなかったとの事。ヌヴィレット自身は、寝ているうちに行為は終わったと勘違いしていたということだそうだ。
流石に都合の良いそんな証言を受けて、リオセスリは何度も疑って、少々水の下特有の拷問にも片手をかけそうになってしまったが、長年の生活で嘘をつく男がどういう人種かは判断できるようになっている。ポディエに、そのような兆候は一切見受けられなかった。何よりこの男、斡旋業者で確認した過去の履歴を鑑みるに、小心者でこの仕事にまるで向いていないことが露見している。そんな時に、言っていることが本心かよくわからない天然なヌヴィレットが現れたら、何か裏があるんじゃないかと危険を冒すような度胸があるとも思えなかった。ちなみに仕事で受け取ったモラを後生大事に懐に持っていて、リオセスリに押し付けるように返金しようとさえした。
つまり、シロだ……
「……なんと言うことだ。私は謀られていたのか?」
事の顛末を聞いたヌヴィレットは、契約不履行に謎のショックを受けているようだった。
結果的には、オーライだったが何もなかったのに、完遂したと思ってすやすやと眠ってしまっていたことを恥じたらしい。とんだ勘違いに焦って、謎に顔を赤らめている。ああこれは紛れもないはじめての反応。ちょっと前までの、私は経験者だが?という余裕がまるで吹き飛んでしまっていた。可愛い。
「さて、ヌヴィレットさん。今度こそは良い夜を、過ごそうか」
「待ってくれ、リオセスリ殿。その、わ…私はハジメテ……だから、お手柔らかに……」
ああ、このありのままのヌヴィレットの姿がやはり一番だ。そうして今は、わたわたしている。
少し前まで浮気者だからと冷たく突き放されるかもしれないと嘆いていていたのに、心の準備も出来ていないのに突然の落差についていけず、しかも未経験者だと突き詰められて、抱きしめられてもう一遍たりとも後ずさる場所もなかった。
「実践は、俺から学んでくれ。ハジメテだけじゃない。これからも含めて、全部のあんたが欲しいからな」
――――紛れもない二人の初夜は、結果としては順風満帆に過ぎた。
深く寝て起きてシーツから全く立つことが出来なく内股を伝う生々しさを理解したヌヴィレットは、しゅごい……これが本当の初夜なのだと理解したのだった。