attention!
全てが捏造。








「ようこそ、カフェ・リュテスへ」
「……ヌヴィレットさん、あんた何やってんだ?」

カフェに赴くには、あまりに遅すぎる宵闇の時間帯。
こんな時間まで営業しているのはヴァザーリ回廊で一番人気のカフェ・リュテスくらいと当たりを付けて、リオセスリは立ち寄ったのだ。予想通り、普段ならば街路に面して歩道にせり出しているテーブルや椅子が置かれているテラスには、無駄な哲学もどきの講釈を垂れるような職なしや、コーヒーで無理やり身体を動かすマレショーセ・ファントムがいるのだが。この時間帯では、至って閑静な店内だった。いつもならば、事前にアフタヌーンティーのテイクアウトを予約しておくのだが、今回は時間が少々読めなかった為、突発だ。だが馴染みに近い店主のアルエに声をかければ、ある程度の融通は利くだろうと見通してやってきたのだが。

「ごきげんよう、リオセスリ殿。注文を承ろう」
「俺の質問には答えてくれないのかい?」
「今は職務中だ」

いつもの服装、いつもの声のトーンで言葉を返してきたのは、やはり見間違いでもなんでもなくヌヴィレットであった。紛れもなく、この国の最高審判官様である。普段リオセスリも仕事上で対談することがあるが、それは専らパレ・メルモニアの執務室での出来事なので、偶発的に遭遇するのは初めてのことであった。

「わかった。じゃあ、メニューはあるかい?」
「今、注文できる品は……この中から選んで欲しい」

いつもなら注文する物をある程度決めているのだが、ヌヴィレット相手となるとアレンジは難しそうだと思えた。アン・カフェ・シルブプレと無難に珈琲を頼んでも良かったが、念のため一声かけるとムッシュとなったヌヴィレットは真新しいメニューボードをこちらに見せてくれた。

「……ヌヴィレットさん。この店は、主に珈琲や紅茶を取り扱うカフェだった筈なんだが、いつのまにウォータースタンドに様変わりしたんだ?」
「私のコレクションから厳選したものをリストにさせて貰った」

明徹コーヒー、濃縮コーヒー、スペシャルコーヒーなどの苦い珈琲。イル・フロッタント、晶螺マドレーヌ、クレームクレプシュゼットなどの甘いケーキが売りだったいつものラインナップは一様に様変わりし、約20種類のミネラルウォーターリストがそこには記載されていた。
仕事外のヌヴィレットとの歓談時にはお得意の水の話題が出る事もあり、そのリストに記されている名産地には確かにリオセスリも耳覚えはあった。それまでの認識では、水とは喉の渇きを癒すもので味わいに違いがあることなど見知りはしなかった。体のデトックスのため、含まれるミネラルや炭酸の強さなどそれぞれに非常に個性があり、味やシーンに合わせて選び飲むことが必要だと、ヌヴィレットから講釈を受けたこともある。しかしいざこうやって、採水地・pH・硬度・カリウム・マグネシウム・ナトリウム・カルシウムなどが表にして並べられても、全くピンと来なかった。

「この中で、オススメはあるかい?」
「ふむ。私が君の為に選ぶとしたら、いくつか質問させて貰う事になるが」
「ああ、どうぞ」
「まずは、基本だな。硬水と中軟水では、どちらに親しみがある?」
「普段飲んでいるのは、硬水だな」
「マグネシウム……苦みがあっても問題はないだろうか?」
「そうだな。今の気分だと、あまり苦みは求めていないな」
「食事とのペアリングの予定はあるだろうか?」
「いいや。そのまま飲むつもりだ」

いくつかの質問のやり取りをして、トントンと指でメニューボードを絞っていく。どうやって判別しているかはさっぱりだが、ヌヴィレットの頭の中の整理はついたようで、何度か頷いてから、とある一つの銘柄に絞ったようであった。

「うむ、これがいいだろう。リオセスリ殿は、テイクアウトを希望か?それとも、テラス席で飲む方がいいだろうか?」
「そうだな。あんたが嫌じゃなければ、このカウンターで飲みたいんだが」
「承知した。ピッチャーを持ってくるから、しばし待たれよ」

一物三価の為の値段確認も含めての声掛けだったが、リオセスリはわざとカウンターを選んだ。本来、この店主が居る注文カウンターはメニューにはないのだが、元々ヌヴィレットが示したメニューボードだって特注なのだ。少しぐらいこちらもルールを逸脱しても良いだろうと、立ち飲みをすることとなった。水だが。
それに、こんな時間帯に珈琲や紅茶ならともかく、わざわざ水を買いに来る客などいないだろうと見当をつけた。予想通り元々人通りの激しい時間帯でないせいか、ヌヴィレットが背を向けて奥で命の源である水の準備を終えて戻ってくるまで、誰一人として注文カウンターに近づく影はなかった。

「待たせてしまったな。これが、今のリオセスリ殿に相応しい水だ」
「……これは、白湯か?」
「君が何も知らずここに来たという事は、温かい飲み物の方が良いと思ってな」
「そりゃあ、あんがとさん」

確かに、本当はアフタヌーンティーと決め込んでいた腹だったので、この場で飲むつもりはなかったが。時間帯も夜に差し掛かっている。真昼間に清らかな真水を飲むよりは、どちらかというと喉を潤すのが主目的ではなかった。
カウンターに置かれたカップに注がれた白湯をありがたく頂戴し、飲む。どこか、ほっとした口あたりの中に甘さがあってさらりと飲み口が良かった。

「ん……ヌヴィレットさん、これはどこの水なんだ?やけに……、なんだか覚えがあるような」
「君の選んだ水の特徴からして、出身地の慣れ親しんだ水が良いだろうと判断した。これは君の幼少に住んでいた水源地に近い水だ」
「……そいつは、まあなんとも。よく俺自身でさえよく覚えていなかったのに、すごいな。あんた」
「水は、身体の60%前後を占める最重要構成物質だ。きっと、君の身体は覚えていると思ってな」

慣れ親しんだ水は、すっとリオセスリの心に澄み渡り浸透した。確かにどこか懐かしいような気がする。
豊かな水―――この国で一番の特産品と言っても過言ではない。その数多の恩恵をこの国で育ったリオセスリは、十代のとある日まで何の疑問も持たず取水していた。そうして瞬く間に落ちた水の下。そこでは、逆に水を得る為に生きる為に毎日模索しなくてはいけない場所だった。リオセスリのハングリー精神は、まさにそんな場所だったからこそ培われたと言っても過言ではない。決して忘れていたわけではない。だが、改めて故郷の水を味わって飲むという行為は身体が世転んでいる様にも感じた。

「ありがとな、ヌヴィレットさん。最高のチョイスだ」
「うむ。満足してくれたようで、私も選び甲斐があった」
「ところで……そろそろ話してくれてもいいんじゃないか。なんで、あんたはこんな場所にいるんだ?」

大分落ち着いたところで、最初に立ち戻りリオセスリは再び質問をする。そもそもカウンターを選んだのも、ヌヴィレットの動向が気になったからである。前提がまず可笑しい。

「ああ、休暇を取るようにと皆に言われてな。私は、少々仕事をし過ぎだそうだ」
「ははっ。そりゃあ、間違いない。あんたはフォンテーヌで一番の働き者だからな」

ぽつりぽつりと話し始めたヌヴィレットであったが、目に見なくともその様子は容易に想像が出来た。
仕事上の間柄とはいえ、リオセスリとてヌヴィレットがいつも完璧に公務執行する姿しか見たことが無い。それこそ昼夜問わずだ。ついつい水の下にいると日の光が届かないせいかうっかり昼夜逆転してこうやって今のように、夜になって水の上に上がってしまうなんて事があって、ちょいとパレ・メルモニアに足を延ばしても大抵ヌヴィレットは職務中で対応をしてくれるのだ。こちらからすると便利と言えば便利ではあったが、いつ休んでいるんだ?状態だった。しかしも、飲食に関しても水やスープなどといったモノを口にしたことはあるが、あまり固形物は好まないようでゆっくり食事をしている様子を見かけたこともないから、それに関する休憩なども習慣づいていないのだろう。水神フリーナが座を降りて、ますます忙しくなったヌヴィレットを周囲が心配して強制的に休みを取るように促されるのは当然だろう。

「そのように笑う事もないと思うが、ともかく。いざ休暇を取ったは良いものの、公務以外にこれと言ってやりたいことも思い浮かばなくてな。そんな時、フリーナが自分みたいに趣味を追及してみたらどうだ?とこの店を紹介してくれたんだ」
「ん?ヌヴィレットさんの趣味って……」
「強いて言えば、水のテイスティングだろうか。この店では、『フォカロルスのために』というケーキを取り扱いしている関係で、フリーナの顔が利くらしい」

一応無趣味ではなかったが、まさかの取り扱いの難しいヌヴィレットの趣味にフリーナは何とか付加価値を付けたらしい。少々強引ではあるが、フリーナらしい華々しい演出ではあろう。まさか、カフェがこのような様変わりをするとは思わなかったが。

「それで、あのメニューってことか」
「店主の好意によって、ありがたくこの場所を一日提供して貰うこととなった。最初は物珍しく市民が立ち寄ってくれたのだが……」

そこで、少々ヌヴィレットの歯切れが悪くなる。
フォンテーヌ一の人気者の座はフリーナに譲るとはいえ、ヌヴィレットと言えば超有名人である。公務と審判以外で不要に出歩くのも本人の意思で制限しているし、たとえメリュジーヌに声をかけるために外を歩いても周囲の市民は不用意に近づかないように遠巻きにされている姿を眺めたこともある。そんなヌヴィレットがフォンテーヌ一のカフェにしかもまさかの給仕のような真似事をすれば、相当な騒ぎになるだろうと予想は出来た。しかしながら、今は御覧の閑古鳥である。

「メリュジーヌや何人かの顔見知りは立ち寄ってくれたものの、メニューを見せてもあまり皆色よい反応をしてくれなくてな。これは個人的な事ゆえ取材なども断っていたら、皆の足取りは随分と遠のいでいたような気がする」
「うーん。まあ、そうだな。ちょっと……段階をすっ飛ばしすぎたかもな。俺だって、突然あんたをここで見た時は正直、警戒した」
「フリーナにも常々指摘されているのだ。私には親しみが足りないと」

リオセスリだって、ヌヴィレットには気取られないようにしたが、これは何か国家転覆を企てる何者かを欺く罠かと思い、店内を注意深く観察してしまった事を否定できない。本人はそのつもりはないかもしれないが、それほどこの国にとってヌヴィレットという存在は重くのしかかり、その一挙一動は皆の注目の的なのである。慣れてない市民からすると壮大な事項に不用意に巻き込まれる事を懸念して、非常に気になりはするもののスルーしたのだろう。どのような暗躍があったのかと、どうせいつか広報か新聞社にて結果はわかるだろうという算段であろうが、残念ながらその機会はないとも知らず。

「まあ、いい傾向なんじゃないか?何もやらないよりは、まずは一歩を踏み出したじゃないか。こうやって少しずつ進んで行けば良いと思う」
「そうだな。そう前向きに思う事とする。感謝する、リオセスリ殿」

どこか不安そうな表情をしていたヌヴィレットを肯定すると、頷いて少しの確信を得たようであった。
そんなヌヴィレットの横で飲む水は、水の違いがそれほどわからないリオセスリにもまた一段と相乗効果で良いと、思う事が出来たのだった。





◇ ◇ ◇




「ヌヴィレット様。そろそろ終了のお時間です」

リオセスリとヌヴィレットの歓談の最中、頃合いを見計らって現れたのはカフェ・リュテスの本来の店主であるアルエであった。
どうやら、本日の営業時間はこれで終いらしい。つまり、ヌヴィレットの一日カフェバイトもピリオドという事だ。二人の間で交わされる店の戸締りのやりとりをしばらく眺めていたものの、白湯だからこそ喉通りよくあっというまに用意されたポット三杯分を飲み切ってしまった。おかげさまで身体はポカポカである。忙しそうだし金払いをして退店しようと声をかけたものの、ちょっと待っていて欲しいとヌヴィレットに待機を命じられた。
その後、いくつかのやりとりをした後、ヌヴィレットは店内から外へ出て来た。

「待たせてすまない、リオセスリ殿」
「いや、俺は構わないが。そっちは大丈夫なのか?」
「ああ。それほど客入りもあったわけではないので、後日私の用意した在庫については配達を頼んである」
「それなら良いが……。ああ、そうだ。さっき俺が飲んだ代金を未だ払ってなかったな」

そもそも飲食を終えたので会計をしたくてヌヴィレットに声をかけたのだが、忙しそうだったのでタイミングを見失っていた。二人は話をしながら歩いていたので既に店から離れてヴァザーリ回廊からパレ・メルモニアへ向かう道中アクアロード・ターミナルへ差し掛かってしまっていたが、仕方ない。予め直ぐに渡せるようにと避けていたモラをポケットから出したリオセスリは、ヌヴィレットに手渡した。

「これは……些か金額が多いのでは?」
「あんた、メニューに水の原価分の金額しか記載してなかっただろう?余分はチップだ」
「私は公的な立場である身分ゆえ、いわゆる副業などで金銭を得るのは禁止されている。だから、あのような料金設定となったのだが」
「そういう堅苦しいのが、親しみが足りないって言われる原因じゃないか?俺はあの水をあんたに選んで貰った感謝を伝えたかったんだ。だから、受け取ってほしい」

いつの間にか両の手に乗せたモラをヌヴィレットはじっくりと眺めていた。左手には、水の原価価格であるモラ。これはヌヴィレットが仕入れた価格であるから、きっと±0であろう。しかし、右手には、チップとしてヌヴィレットの労働の対価として重みのあるモラがある。今まで公務しか向き合ってこなかったヌヴィレットだが、これが民間取引の商売である。
リオセスリとしては気持ちを受け取って欲しいから、わかりやすくこの国の慣例に倣ってチップという形にしたのだが、なかなかこの人相手では難しいなとも思った。

「私は、自分で稼いだモラというのはこれが初めてかもしれない」
「そうなのか?」
「すまない。こういう時にどうすれば良いかわからないのだ。やはり、大切にとっておくべきなのだろうか?」

ぎゅっと、右手のモラを握りしめたヌヴィレットは困惑していた。
最高審判官として、きっとヌヴィレットの給金はこの国でも随一であろう。使う暇などないだろうから、普段はそれほど頓着をせず、せいぜいそれこそ好物である水を取り寄せるくらいしか変な贅沢はしていないだろうけど。そんなヌヴィレットがたかが子供の駄賃程度のモラを片手に戸惑っている姿は、なかなかに見物であった。

「そうだな。一般的には初給料は、世話になった親や知り合いにプレゼントをするって言われているな」
「私には親に当たる存在がいない……だが、そうだな」

リオセスリとしても一般論を述べただけであって、それほど深い意味はないつもりだった。
少し自分の境遇を悩んだヌヴィレットは、右手の初めて金銭として得たモラを眺めてそうして思い立ったかのように握りしめて、示した。

「リオセスリ殿、買い物に付き合って欲しい」
「誰か渡す相手が思い立ったのか?」
「ああ。茶葉を君に……是非渡したい」
「俺か?」
「カフェ・リュテスで一日過ごして、最も楽しかった時間をくれた君に感謝したいからな。受け取って貰えるだろうか?」
「そいつは―――光栄だ。ありがたく受け取ろう。じゃあ、その茶葉でのティータイム。今度は俺からお誘いしたいが、どうかな?」

おどけて尋ねるリオセスリに、当然だとヌヴィレットは頷く。



リオセスリが手渡したモラは本当に少額で、それこそ満足な茶葉の銘柄が購入できるほどの金額ではなかった。それでも二人は揃って、一番安価でベーシックな茶葉を購入するために、雑貨店へ向かう。
リオセスリが選んだ茶葉に合う一番良い水を、ヌヴィレットが用意する―――
そうして二人で共有する時間は、何よりも良い思い出となったのだった。

















ヌ ヴ ィ レ ッ ト 、 カ フ ェ で バ イ ト す る 。