attention!
ヌヴィレット誕生日話。
「む、どうやってここに入ったんだ?まあ、いい。列の最後尾はこっちだ。早くしろ」
「は?いや、俺は」
いつものように水の上に向かうリフトを起動しエピクレシス歌劇場の裏手に到着したリオセスリは、通常ならば壮大な滝の水音のみに歓迎されるだけの筈であった。
しかしながら実情は、平素ならば無人である篝火と石畳の合間に目ざとく居た警察隊員に声をかけられる。一瞬で不審者と判断されたことは別に気にしていないが、それ以上に相手はもっとリオセスリ自身に興味はないらしく、ただただ作業的にあちらへ行けと道を指示したのだった。正直誰かに命令されるような覚えはなかったので、いつも通りの道でエピクレシス歌劇場の横を抜けようしたのだが、それは叶わなかった。危険表示バリケードテープが張り巡らされ、否が応でも警察隊員に示された道しか抜けられる様子がなかったのだ。
「……何の騒ぎだ、これは」
「はいはい、皆さん。こっちですよ。もう少し、もう一歩詰めて下さい」
「あれっ、そろそろ列が動くのかな?準備をしないと……」
「どうか焦らず、ゆっくり移動してくださいねー」
「そこの貴方?ぼーっと突っ立ってないで、早く前に進んでくださる?」
リオセスリの記憶にある限りかつてないほどの人が埋め尽くされたエピクレシス歌劇場の前にある広場は、本当に身動きが取れないほどであった。そうしてこんな状態では人の流れに逆らう事も出来ず、いつの間にやらその人混みの列に飲まれてしまった。季節は12月な事もあり、皆厚手の恰好をしているから誰かの背を押そうが引こうが罪悪感など皆無らしい。あっという間に群衆の一部と化したリオセスリは、何度か列を誘導している数多の警察隊員に声をかけたものの、それどころではないとあしらわれ、抜け駆けすることも難しくあった。
やがて後ろの人間に押されながらもようやくエピクレシス歌劇場の扉の前まで来るが、別にそこはリオセスリの目的地ではない。しかし、今更メロピデ要塞に戻る事も出来ず、流されるままにチケットも何も持っていないままエピクレシス歌劇場へ入ることになってしまった。
「そこのあんた。今日は、一体どんな催しがここで公演されるんだ?」
「もしかして何も知らないで、列に並んだんですか?今日は、ヌヴィレット様のお誕生日ですから、そのお祝い行事が行われるんですよ」
流れるままに特設記帳所で住所氏名を記載するように言われ、手荷物検査とセキュリティーチェックを受け持つ警察隊員にようやく話しかけることができ情報を把握したものの、それでもリオセスリはあまりピンと来ていなかった。そう説明をされても、この混雑具合との噛み合いがまるで連想できなくあったから。それに。
「ヌヴィレットさんの誕生日なんて公開されていなかった筈だが」
「ええ、以前はそうでした。しかしながら、今まで水神フリーナ様が国民に向けて年始の挨拶をする行事をヌヴィレット様が引き継ぐこととなり、併せてヌヴィレット様の誕生日にも同様の行事を行う事となったのです。今年から。あなた、本当にラッキーですよ。この回が、今日最後のお披露目の回なんですから」
つまりだ。今まで水神フリーナの誕生日が祝日であったが、そこにヌヴィレットも加わったというわけだ。フリーナは名目上、座を降りたので表舞台での公的行事には参加しなくなった。その代替行事がこの騒ぎということであろう。道理でリオセスリにはピンと来なかったわけだ。平素審判でヌヴィレットが席に座する場合、傍聴席の倍率はとんでもないと聞く。だから広く等しく民衆の前に姿を現すという機会はそう多くないからこそ、この騒ぎなのだろう。正直、そういう公的行事に今までご縁がとんとなく、フリーナ時代でさえリオセスリは足を運んだ事はなかったが、確か参賀希望者は完全入れ替え制だった筈だ。確かに今は時間帯も夕が迫っているので、遅いのだろう。
そうして、一旦入場したのならば今更ここから戻るという選択肢は存在しないと無碍に警察隊員から伝えられ、リオセスリはそのまま流れに沿い劇場内の席へと向かう事となった。
「ヌヴィレット様、お誕生日おめでとうございます!」
「いつも、私たちを導いて下って、感謝します!」
人数が人数な為、いざ劇場内に収納しても騒めきは収まらなかった。座席に着けた人間は幸運な部類で、通路の縁に立つことになる入場者がほとんどであった。リオセスリも積極的に席に座ろうとはしなかったため、二階席右手奥の本来ならば貴賓席に当たる5番ボックス席近くのバルコニーの後ろに軽く背を付けた。皆、前のめりで舞台を注視しているので、長身でガタいの良いリオセスリからするとその方が全体を見渡せて俯瞰出来るため、かえって良かったかもしれない。
高揚する劇場ではあったが時計はないとはいえ、その時間前後となれば、自然と不必要な騒めきは静かになった。そうして、大審判席の奥からゆっくりとヌヴィレットが登場すると、パチパチと張り切れんばかりの拍手が巻き起こった。大審判席の前まで移動したヌヴィレットへの拍手はしばらくは止まらなかったが、それでも右手で軽く宙を宥める動きを見せると、皆一斉に静まり返った。そうして。
「今日は、私の誕生日を祝うために、このように大勢がこの場に来てくれた事を嬉しく思う。これからも、皆が健やかであることを私は所望する」
決して張って出した声ではないだろうに、場慣れする音は劇場内全域に凛と響き渡る表明が示された。その後に、皆からもたらされた拍手はヌヴィレットが登場した時よりも格段に熱烈なものであった。
劇場の外にまで響くほどの興奮伝わる拍手は、ヌヴィレットが退席をした後もしばらく鳴り止まなかった。喝采を浴び続ける―――
「本日のヌヴィレット様のお出ましは、この回が最後となります。皆さま、お気をつけてお帰りください」
並んだ時間から比べれば、会場内の滞在時間事態は呆気ないものであった。完全入れ替え制という名残の為、早急な退席を求められた。劇場アナウンスが流れ警備の関係で閉じられていた内扉が開き、入場した時と同じく警察隊員が整理誘導をし始めた。
ひょんなことからこの場を訪れたリオセスリではあったが、早々にまたこの帰路への波に呑まれるというほど、火急な用があり水の上にやってきたわけではない。一先ず様子を見るかと、腕を組んだまま壁に着けた背はそのままで帰宅する者たちの様子を覗っていた時。
「そこの方。誘導をしますので、こちらに着いてきて下さい」
「いや、俺は急いでいないから、他の奴を優先してくれ」
「遠慮なさらずに、こちらへどうぞ」
皆が帰路である内扉へ視線を集中している中、微動だにしていなかったせいか、リオセスリに声をかけてきた警察隊員がいた。別に帰らないと言っているわけではないのだが、その短いやりとりの後に警察隊員はこちらの返事を気にもせず通用口と思われる扉を開けて、リオセスリを促した。去り際の混雑を嫌ってこの場に待機していたという面もあるので、この場はお言葉に甘えるかと考え、その後に続くこととした。
リオセスリはエピクレシス歌劇場に今まで何度か足を運んでいるがそのどれもが純粋に観客として席に着く事が多かったため、このような裏手にある通用口を歩いたことがなかった。それほど広い通路というわけでもなかったので、他の誰かとすれ違う事もなくただただ警察隊員に続いて、歩くのみであった。
「お待たせしました。私は入口の誘導に戻りますので、こちらの扉にお入りください」
道中、いくつかの扉はあったものの固く閉じられており、ようやく突き当りの外から見ても扉厚のありそうな重々しい扉は、御大層に柏でアーチ装飾がしてあった。出口にしては立派すぎるとは思ったが、案内されたのだからと無碍にも出来ず、リオセスリは扉を開けた。
そこは薄々は察していたが、やはり外へ出る扉ではなかったらしい。中の部屋は、エピクレシス歌劇場の一室に相応しい広く切り取られた窓といくつかの応接ソファとテーブル。そして意外な人物がいた。
「ヌヴィレットさん、あんたが俺を呼んだのかい?」
「君があのような場に居るのは珍しく思い、声をかけさせて貰った」
部屋の一角のテーブルに積み重なっている特設記帳に目を通していたヌヴィレットは、リオセスリの入室を認識して手元から視線をこちらへ向けてくれた。ワインレッドベルベットのクラシックな椅子から優雅に立ち上がる。
「ああ、悪いが偶然なんだ。しかし、よく俺がいるってわかったな」
「あまり公言はしていないが私もメリュジーヌほどではないとはいえ、視力は良い方だ」
「それでも見つけて貰って、声をかけてくれたとなれば、光栄だ。あれだけ皆から渇望されるあんたを今独り占め出来ているっていうのは、気分がいい」
ヌヴィレットがこの国に無くてはならない存在であることは今更ではないが、あまり式典などに参加する習慣のないリオセスリにとっては、公的な姿を見る事は滅多にない。
互いの立場上、パレ・メルモニアで二人きりでやり取りする機会があるので、少し忘れていた部分もある。こうやって、大衆の前で会った外野的視点で眺めたが故に、いざこうやって目の前で対峙すると興味深く感じた。
「本来ならばあのような場に出る役目は、水神が担っていたので、私には不釣り合いと感じている。君から見て、今日の私は上手く出来ていただろうか?」
「個人的感想だが、俺からするとこの国の最高審判官として威厳があって良かったと思ったぜ。大体、あんたとフリーナ様は別の存在なんだから、いくら仕事を引き継いだとはいえ全く同じように親しみやすい人気者にならなくてもいいんじゃないか?」
「そうか。私を気遣ってくれる言葉をくれて、感謝する。これからも、民衆の為に善処しよう」
たしかフリーナのこういった式典での演説は相当に長かったはずだ。翌日新聞に載るから、目を通している薄らとした記憶だが。
理想的なフォンテーヌの神であったフリーナを目標にするなど、いくらヌヴィレットが歩み寄ろうとしても、かなりの限界を感じる。ヌヴィレットはヌヴィレットだけが持つ良さがあるのだ。それを捨てて変化を求めるなんて、きっと民衆も望んでいないだろう。きっと寄り添おうという気持ちが伝われば、今の民衆は十分なのだ。だから、水神健在の時と同じように変わらぬ催しを行ってくれた事だけでも、これからの国の安寧を感じられただろう。
リオセスリの言葉を受けたヌヴィレットは少し頷き、劇場でありがたいお言葉を述べた時よりは、気持ち柔らかな表情をこちらへ見せてくれた。
「そういえば、今更だけど。誕生日おめでとう。正直ちゃんと知ってたら、花の一つでも持参したんだが」
「ありがとう。君に直接祝いの言葉を貰えて、嬉しく思う。この場に呼びつけたのは、そのような物を催促する為ではないので、気遣いは不要だ」
「そうは言ってもな……」
確かにエピクレシス歌劇場のエントランスやロビーにスタンド花が数多飾られていたし、この部屋にだっていくつもの贈答用の花束が折り重なって片隅に陳列されている。たとえリオセスリが花を所持して赴いても、いつかは有象無象の一つとなってしまうだろう。ヌヴィレットの生真面目さからすると、礼状くらいの返答はありそうだが。
本当に完全手ぶらなので差し出せるようなものなど一切持っていない。それに、この国の最高権力者であるヌヴィレットが欲しいものという物がイマイチピンと来ないのだ。茶葉はよく贈っているが、おすそ分けという意味合いも強く、どちらかと言えばリオセスリが好きだからという理由である。
きっと直接尋ねたとしても建設的な答えは返ってこないだろう。それでも何か……としばし思考を働かせ、ヌヴィレットの頭の先からつま先までぐるりと視線を巡らせた。
「リオセスリ殿。そのように、じっとこちらを観察するのは、如何なものだと感じるが」
「あんたは、人に見られるのは慣れてるだろ?今日だって、そうだった」
「立場故にそのような機会が多いだけで、得意というわけではない」
「そいつは、失礼した」
「私も君を部屋に招いて置きながら、立ちっぱなしを強要して申し訳ないと感じている。飲み物でも用意しよう」
「おっ、今日はどんな水を味わせてくれるんだ?」
たとえエピクレシス歌劇場だろうと、いつもの執務室で打ち合わせるように形態を整えてくれるらしい。
普段と同じようにヌヴィレットはその場から離れようとした。きっと、お気に入りの柄の精巧な美しい杯を持って来てくれるのだと思っていた。
「いや、茶葉を持って来ているので。紅茶を運んで来ようと思っている」
「ん?珍しいな。水はない、のか?」
「あるにはあるのだが……先日、いつもリオセスリ殿に提供しているように水を出したら、相手に少々困惑されてな。来客には、紅茶の方が相応しいと再認識した。今まで君にも不便を強いていた。申し訳なく思っている」
そうして少しヌヴィレットは、心持か寂しそうな音で謝罪の言葉を入れてきた。
確かに、初めて執務室で水というもてなしを受けた際は、本当は何か別の意味があるのではないかと、口には出さなかったが勘繰ったことは事実であった。リオセスリが知らないだけで水の上のルールでは、水を出された人間は早く退室しろという意味があったりしたのならばどうしようかと思い、わざわざ口コミを調べたくらいだった。しかし、何度かそのような応対が続いて本当に良いものを飲んでもらおうというヌヴィレットの純粋な気遣いだったと悟り、今ではこのもてなしを嬉しく感じていた。申し訳ないがそもそも今までリオセスリはまるで水の良しあしなんて気にしたことがなかったので未だに水の違いをヌヴィレットほどわかっているわけでもないし、到達できるともあまり思えない。それでも、好みの水を振舞うヌヴィレットの所作を眺めるのが魅力のある時間だった。
対して、リオセスリが主導でもてなしをする際は、茶葉を持参して振舞うのが恒例であった。それは今まで二人の仲の暗黙のルールのようなものであった。それが今、浸食された。
「ヌヴィレットさんが純粋に紅茶に興味があるのなら、俺も歓迎する。だが、気を使って変えるんだったら、俺もあんたの領分に立ち入っても良いか?」
「どういう意味だろうか」
「そうだな……ちょっと、ここに覚えはあるかい?」
すっと、リオセスリはポケットからメモとペンを取り出すと、さらさらと文字を書き連ねてヌヴィレットに見せて示した。
メモを受け取ったヌヴィレットは、不思議そうな表情でその文字を読んだ。
「この地名は……たしか君の公爵としての領地の一角だな」
「ああ、そうだ。俺が爵位を授かった時に、立場的に必ず土地を管理することが必要だと言われて、小さいが水の上で宛がわれた領地だ」
「そうだったな。しかし、すまない。それ以上はわからない」
ヌヴィレットの認識が薄いのも仕方のない事だった。
領地にさして興味がなかったリオセスリは、候補地としていくつか提示された際に首都であるフォンテーヌ廷地区や高架水路アクアロードの巡水船繋がるブロー地区・エリニュス山林地区に近い場所を選択しなかった。いくら公爵という爵位を得たとはいえ、他の領主とのいざこざを嫌い、なるべく離れた地をと選んだのは、国境近くの山々であった。畑が出来るような平地はほぼないので、領民がいるわけでもない。せいぜい、山のふもとに管理の為に建てられたそれほど華美ではない小さな屋敷があるくらいであった。
無論の事、リオセスリがそこで領主として滞在することは出来ないので、のんびり余生を過ごしたいと希望した元囚人の老人に普段の管理を任せている。リオセスリは、年に数回程確認の為に足を運ぶ程度なのだが。
「覚えがないなら、かえって助かる。実は、俺の領地の山の一角に、軟水の天然炭酸が含まれる湧水が沸いているんだ」
「軟水の天然炭酸水?それは、珍しい……」
珍しくはっきりとヌヴィレットは驚く声を出した。
水資源豊富なフォンテーヌは、ほとんどミネラルを含む硬水が占めている。天然炭酸も昔よりは減ったが湧き出ているところがないわけではない。しかし、軟水となれば話は別だ。恐らく地形の関係で、隣国との兼ね合いのせいでリオセスリの領地の水は軟水なのだろう。その中でも、天然炭酸というのは聞いたことがなかった。
「俺もそう思ってな。何度か水をくみ取って、飲料工場で調査してもらってボトリングもしたんだが。俺もそう頻繁に飲む方じゃないし、出来たらこの機会に誕生日プレゼントとして今後定期的にヌヴィレットさんに贈りたいと思ってる。受け取って貰えるだろうか?」
「そのような貴重な水を私に?」
「前々から渡したいと思っていたが、水は俺の領分じゃないから出しゃばるのは躊躇っていたんだ。でも、あんたが茶葉にも興味を持ってくれたし、今後はお互いにもう一歩踏み出しても良いだろうと思ってな」
かつて、メロピデ要塞にて水は生命を繋ぐための貴重品であった。良い水など手に入れることは滅多に出来ず、粗悪品を誤魔化すために無理やり何かしらの味をつけた。リオセスリが紅茶を嗜むようになったのも、元はと言えばそのままでは飲料に耐えられない質の悪い水を誤魔化すことから始まった。そんな始まりからヌヴィレットの水へのこだわりを知ったからこそ、誰も見向きもしなかった湧水が発見されたという経緯がある。周囲を緑豊かな山々に囲まれた源泉から湧き出る炭酸水は、長い年月をかけて水に馴染むため一粒一粒の泡がきめ細かくなめらかであった。雄大な自然が育んだ特別な味わいはきっとヌヴィレットも好んでくれるだろう。
ようやく歩み寄り、自身を持って伝えられるようになった関係性。この目出度い日に、偶然とはいえ直接誕生日を祝う幸運にも恵まれた。どれほどの比重があるかなんてわからないが、それでも大切な時間であることには違いないと思ったのだ。
「ああ、そうだな。ありがとう。私も……もっと君の事が知りたいと思う」
二人の交流の、新たな門出の一歩はそれほど急速なものではなかった。
だが、それでも着実にまるで水のように自然と育まれていくものだろう。
その繰り返しは、いつか交わる―――