attention!
全てが捏造。








「リオセスリ公爵。今日は、パレ・メルモニアから良い知らせが届きましたよ」

いつものように執務室に座り、ちょうど部下から続々と上がる書類の検算をしている最中、リオセスリの目の前のデスクにまた新たな書類が置かれた。
それは、メロピデ要塞受付係のモングラースが二区間の往復をする共律官のイメナから受け取ったと伝えた、メロピデ要塞参観滞在申請書であった。

「ん?久しぶりにこれを見たな。珍しい」
「そうですよね。予言の危機以降、水の上も余裕がなくなったのか、新しい看守の増員もなくこちらもやりくりが大変でしたから」

メロピデ要塞参観滞在申請書とは、罪なき水の上の人間が堂々と要塞に赴く為の事前申請書である。
もちろんの事、外部の人間を完全に遮断しているわけではなく、フォンタ社などの物品販売など民間から要請があれば、熟考の上リオセスリは立ち入りを許可している。しかしこれが公の書類となるとその大体が、主にパレ・メルモニアから派遣される看守などの人員が、試しに要塞を見学する為という事が多い。行政機関としては、定期人事異動が7月10日に設定されている為、一年ごとの入れ替わりは大抵はそこで成される。しかしながら、看守の仕事は楽ではなく待遇に関しても水の上より良いとは言いにくい。怪我や病気などの健康上の問題などを理由として、水の上に帰る者も存在する。その場合の補充に関してはほぼ無いに等しいので、このように人事異動以外の時期で参観滞在申請を受けるのは極めて貴重であった。
また、先ほどモングラースが口にした通り、フォンテーヌは予言の危機を脱したばかりで、一度は水没した水の上の混乱は収まったとはいえ、完全に平時に戻ったとはいいがたい状況であった。メロピデ要塞は元々水の下にあったが故、そこまでの影響はなかったが、水の上の未曽有の危機の影響を受けて物資の調達などにある程度の制限がかけられた。その中で一番苦労したのが人員補充であろう。元々、水の上で生活していた看守たちが戻りたいと希望を出せば、リオセスリとしても引き留めるのも相応の理由が必要であった。そんな最中、新しい看守の見学者がやってくるかもしれないという希望的な申請書を見れば、モングラースが色めく声を出すのも当然と思えた。が。

「残念だが、この申請書はいつものような新しい看守の見学じゃないみたいだ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。通常ルートじゃなくて、集中護送ルートから入ってくるのを希望してる」
「それは…いつも私がいる受付ではなく、裏から入ってくる方法でしたっけ?」
「そうだ。水の上の入口の鍵は、最高審判官が。対して、メロピデ要塞側の鍵の管理は、俺がしてる」
「確か、元々は受付から入ってくると目立つから、マスメディアや他の囚人を刺激しないようにと設けられたんですよね。主に、重大事件の囚人用の」
「俺も先日、ファデュイの執行官を受け入れた時くらいしか久しく使ってないな」
「ということは、それ程の重要人物がやってくる?と」
「さあな。ここのところの審判内容で、そのレベルがあったとは聞いていないが」

普段であれば、メロピデ要塞参観滞在申請書は無条件で承認しているが、今回の申請書は本来ならば記入すべき氏名や滞在期間などにところどころ抜けがある。そうして、タイプライターである枢律の宮殿の掌記の記載以外の欄外には、ヌヴィレットの直筆で「詳細は後に」とさらりと書かれている。
治安維持の為に、水の下と同様にリオセスリは水の上の情報も絶え間なく収集している。予言の危機後は、皆復興に力を入れて一丸となっているおかげで、平素より犯罪率は下がっていると体感したが、やはり水の上ではトラブルが治まらないらしい。ともかく何かしらの人物が、ここに来たがっているようだ。
つまり、申請書とは名ばかりで、こちらが承認しなくとも確定事項ということであった。





「……急な申し出であったのに、出迎えに感謝する」

集中護送ルート水の上側の入口である留置施設の開門時間に合わせて、リオセスリがこちら側の鍵を開く。ここの通路は他の看守さえもこの鍵がなければ入ることが出来ない場所だ。普通の囚人ならば、特別許可券を与える見返りとして他の囚人を案内の迎え役として置くが、集中護送ルートから入ってくる相手にはそうはいかない。しかも、詳細も伏せられていたため、念のためリオセスリは一人で対峙することとなった。

「ヌヴィレットさん……あんたが来るなら、予め教えておいて欲しかったんだが」
「少々事情があり、必要に迫られて来訪することとなった」

扉から現れたのは、いつもの装いをしたこの国の最高審判官であった。
水神フリーナがフォンテーヌ最大の危機である予言を打ち破った後、職務を果たしたと言い神座を降りた。その後、枢律院から次代である三代目の水神は宣しられていないし、その素振りも見えない。その為、実質的に業務を引き継いだヌヴィレットは名実ともにフォンテーヌの象徴と規定される地位に就いている。

「来るのは構わないが、あの参観滞在申請書はなんだ?」
「こちらに赴く為のワークフローの中にある申請書で、一番相応しいと思ったのが参観滞在申請書だった」
「あんたほどの人物が来る為の専用書類なんてないが、全く…… あんたは今この国で一番のお偉いさんなんだから、鶴の一声とかでいいじゃないか。思わず余計な詮索をしちまったぜ」
「しかし、それでは規則に反する。だが、私の行動で君に迷惑をかけたのなら、謝罪しよう」

そういえばヌヴィレットは先の旅人も、規則に則ってこちらに送り込んできた。罪状を鑑みれば、45日という刑期の長さは違和感があったが、水神相手と考えれば誰もが納得する内容であっただろう。
元々、滅多にメロピデ要塞に足を運ばないヌヴィレットが合法に入るのは手段が限られている。最終防衛ラインが突破した時は緊急時だった為、リオセスリが呼びつけたという体裁があった。だからあの時は、一人で赴いたヌヴィレットはすんなり入ってこられたという経緯があるのだ。メリュジーヌへ対する脅迫状が送られた事件に関しても、そういえばお茶さえ飲まずに必要に迫られた時間のみの滞在であった。

「で、わざわざメロピデ要塞に何の用だ?年に一度の視察の時期じゃあないはずだが、それとも新たに強制査察でも導入するのか?」
「今回の訪問は、対外的には私用と言っても差し支えがないだろう」
「そいつは珍しい。ようやく、切り捨てられまくってる有休を消化する気になったのか?」
「休暇申請を提出する相手はいなくなったとはいえ、私はなるべく管理業務を優先したいと思っている」
「そんなあんたの私用ってことは、地獄の番犬に用ってことか。わかった、案内しよう」

ここまで来ても行き先を鑑みれば私用とは言い切れないとリオセスリは思ったが、必要以外で堂々とメロピデ要塞に赴くのは芳しくないとヌヴィレットは考えているのだろう。お望み通り、まずは自身の執務室へ人目を忍んで案内した。本来ならばケルベロスにはパンを与える必要があるが、リオセスリからすればとっくに懐柔されている相手だ。淀みなく、真ん中の円盤へ二人そろって立つと、目的地である禁域への直行ルートだ。
奥まって隠した三つの扉を開くための重厚なスイッチの操作要件は、ヌヴィレットでさえ知らない。次々と開かれる扉だが、ヌヴィレットが封印して以来リオセスリもそこまで高頻度に立ち寄らなくはなったので、久しぶりだ。一応定期的にこの目で見ているから知ってはいるが、いつものようにそこに巨大なゲートは開いて鎮座していた。相変わらず、下の水をせき止める役目を何百年もの間、果たしているが、今はそれはヌヴィレットの封印に成り代わっている。
一時期は危険水域へと達し、原始胎海の濃度を測るメーターの色も赤となっていたが、今は落ち着いたものであった。海水の変化に応じたメーターは回り始めていない。

「あんたが、わざわざ見にくるくらいだから、何か変化があるのかと内心ひやひやさせて貰ったが」
「変わらず異常は見られないようで、私も安堵した」
「そんな予想通りを確認するために、足を運んだのか?」
「いや、先の申請書通り。しばらくここに滞在をさせて貰おうと思っている」
「滞在って、ずっとここで監視でもするつもりなのか?」
「―――以後、君が視界に入れたものは、全て内密として欲しい」

しばらく開かれたゲートの水を見つめていたヌヴィレットは、利き手をゲートに向けて明らかに水元素に干渉する力をまざまざと見せつけた。この人が戦っている時の勢いを見たことがないわけではないが、そんな小手先をも凌駕する力が明らかに加えられている。
ヌヴィレットの正体の憶測に関しては推測の域を出ないし、本人が進んで明かしているわけでもないので、それこそ封印の時は、わざと場を退席したのだが。今回ばかりは直ぐ始まってしまったので、見届けるしかない。立ち騒ぐ曝がゲート上の水へ降り注ぎ、やがて三つの大きな源水の雫が具現化した。慣れぬ圧倒的な水圧の一部がリオセスリにも滴り落ちるほどであった。

「こいつは……封印を解いたのか?」
「私の干渉を一時的に外した。少なくとも現時点では、あのような危機が再び訪れる事はないだろう」
「そいつはありがたい予言だが、あのままじゃ駄目だったのか?」
「封印をしたままだと、これから私が行う事項に差しさわりがある」

それだけ告げると、片足のブーツのヒールに一度だけ力を入れたヌヴィレットは、あっという間にゲートの先の水へ飛び込んだ。
まさかの事態にリオセスリが留める隙もなかった。一瞬だけ虚空を舞ったヌヴィレットの姿は見事ではあったが、その行き先がかつてこの国で最も危険な水域への侵入となれば話は別だ。

「おい、ヌヴィレットさん!」
「しばし……この場所を自由に使わせて貰う。リオセスリ殿は通常通りの業務に戻って欲しい。何か、必要があると判断したら声をかけさせて貰う」

飛び込んで一度だけ海面に顔を上げたヌヴィレットは、それだけこちら伝えてあっという間に水中へと潜ってしまった。海底だけあって透明度が高いが、太陽の光などまるで届かぬ奈落でもある。
あっという間に、水中の様子も上から覗う事は出来なくなってしまった。





執務室でリオセスリはチラリとメーターを確認する。これは、禁域のメーターと完全に連動している小型機であった。以前は件の濃度を調べるだけではあったが、少々改良を加えてあの水域で何かしらの異常が発生した際に動作するようにしてあった。今までの習慣だと、一日に三度と決めていたその確認作業を、今日は三十分おきに視界に入れている気がする。相変わらず変化はない。それの繰り返しばかり。いい加減、自らの業務にもその確認作業が進行の邪魔をしているとは理解している。だが、あまりにもリオセスリにとって最優先される事項すぎだ、それは。
そうして―――ようやく何度目の確認か数も数えていないメーターが僅かに動いたのを確認し、リオセスリは持っていた羽ペンのインクが垂れた事にも目もくれず、真っすぐ禁域へと走り向かった。



「いた……ヌヴィレットさん!」
「……リオ……セスリ、どの……」

案の定、禁域の水塊から出てきたヌヴィレットは、ずぶ濡れで膝を付いていた。明らかに過度な疲労のような表情が見受けられる。
そうして一瞬だけ会話が成立し、こちらの名を呼んだもののそのままガクリと意識を失ってしまった。





◇ ◇ ◇





「ん、……」
「目が覚めたか?」
「……ここは?」
「俺の私室だ。生憎、あんたを寝かせられるような貴賓室はここにはないんだ。それでもこの要塞で一番良いベッドの筈だから、我慢してくれ」

倒れたヌヴィレットを人目がつかず休息出来る場所といったら、執務室という立地を考えれば、ここしかなかったというのが本音だ。いくらリオセスリが要塞内の構造や看守の配置に精通しているとはいえ、自分と同等の長身男性を背負って移動するなど真夜中だったとしてもどうしても目立ってしまう。
なんとかベッドまで運んできたはいいが、身に纏うその独自の大審判服は一片の隙もない採寸によって制作されているせいか、非常に脱がせにくかった。仕方なく、羽織っていた外套だけはハンガーにかけつるしたが、あとはキツそうな手首や襟元をかろうじて緩める程度しか出来なかった。

「すまない……君の寝所を邪魔したようだ」
「きちんとベッドで寝てない年数も随分あったから、別に気にはしていない。そんなことより……さて、確認だ。看護師長をここに呼んでも問題はないか?」
「……シグウィンを?」
「そうだ。目が覚めたとはいえ、今のあんたの体調の悪さは、俺でも認識出来るほどだ」
「シグウィンに私を診断されるのは……困る」
「そう言うと思ったから、今まで呼ばなかったんだが」

今は通常時に見えなくもないが、最悪だった先ほどよりは寝たせいか少しは落ち着いたと思える。それこそ最初に禁域からヌヴィレットを引き上げた際は、周囲には霧が立ち込めその霧はリオセスリの寝室にまで浸食するほどであった。何より、ヌヴィレット自身の身体は異常に過剰なほどの水元素を纏いながらも、そのつややかな髪の一部など発光していたのだから。
その状態をいくら懐刀のメリュジーヌと言ってもシグウィンに診せてよいのか、さすがのリオセスリも判断しかねた。目覚めぬヌヴィレットの容体は心配ではあったが内密にと言われた範囲がどこまで適用されるのか。一先ず様子を見て、約束を優先したのだった。

「君の判断は間違っていない。シグウィンには申し訳ないが……たとえ彼女に容体を診て貰っても解決できる事項ではない」
「そうか。で、あんたの今の状態は、あの海に飛び込んだことが原因か?」
「……少し、違う。私の極めて個人的体質の問題で、以前から大なり小なり水と触れ合ったり摂取する必要があるが故の反動の一つだ」
「あー、あんた水よく飲んでるもんな」
「今までなら、直接水を飲んだり。多少ならば、それこそルキナの泉へ向かえば、解決出来た。だが……」
「それだけでは足りなくなったから、禁域へ行ったのか?」

ヌヴィレットの水への執着はもはや常識レベルであったから、それについては今更驚いていていない。流石に立場的にそう堂々と大海で泳ぐ姿は見たことはなかったが、水辺にもよく足を運んでいるようだ。関係深い事は自ずと察せられる。その異常なまでの固執でさえ凌駕するとしたら、何かがあったのであろう。それは、恐らく……
詳しく聞いていないしあの日、そう水神が神座を降りたキッカケとなったエピクレシス歌劇場に居た者から得た情報で、ヌヴィレット自身にも何かが起きた。そうその場に居た観客も判断した事を、自ずとリオセスリは思い出した。

「この国を統治する必要な力を得たが、それはあまりにも巨大だ。慣れぬ力故に簡単には制御しきれず、このままでは民に被害が出ると思った。私には、星の胎海を泳ぎ太古の力を開放する矛先が必要だった」
「確かに、禁域はこの国で一番の海底だが、そりゃ随分と無茶をする……ここは元々原始胎海の発生源の一つでもあるんだぜ。まさかその力を、原始胎海にぶつけるとは思わなかったが」
「原始胎海は、数百年…いや数千年かけて少しずつ沈殿したものだ。私が行った剥離も長い年月から鑑みれば一時的に誅伐したに過ぎない。また数百年後はきっと現れるであろう」

だからどおりで、禁域から現れたヌヴィレットはからプネウムシアの反応が色濃く出ていたわけか。フォンテーヌに特有のエネルギーであるが、リオセスリ自身はウーシアを持っているので察知できるのだが、ヌヴィレットは常にそのウーシアとプネウマの対消滅によって生じるエネルギーが見て取れた。

「それで、原始胎海を相手にしても、自身の制御は出来ないのか?今のあんたの状況は、海に飛び込む前とはまた様子が違うように見られるが」
「確かに、憤怒の発散は完了した。だが、本来の姿に戻った事で少々弊害が起きた。それが今の私の状況に繋がる」
「本来の姿?」
「詳しくは説明できないが、君も察する通り。私は、人ではない。純粋精霊でさえない。だから、一時的とはいえ本来の姿に戻った反動で、人の形態を保つことが難しくなっている」

そう言いながら、ヌヴィレットはベッドの上で自身を抱きしめる仕草をした。自分の人としての存在を確かめるかのように。
ヌヴィレットという存在を昔からリオセスリは、人側ではなく神の領域に存在する者だと思っていた。第一印象でもあったエピクレシス歌劇場の審判席からのように高座から、人を見定めるように俯瞰していると思う部分が多かった。だが、こうやって管理者となり幾度もなく接するようになった今、彼は人に歩み寄ろうとわかりにくいが一歩を踏み出しているのだと気が付いた。手の届かない存在だと割り切っていた渇望が、今目の前にあるとリオセスリは理解したのだ。

「看護師長はここには呼べないと言った。だが、あんたはいくらここが俺の部屋とはいえ、俺が傍にいるのを咎めていない。何か、俺が出来る事があるのか?」
「……可能なら、願いたい事がある」
「言ってくれ」
「君の手に触れたい……」
「ああ、そうか。人としての自分を忘れないためか、それならどうぞご自由に」

ベッドから起き上がったヌヴィレットに近づくために、リオセスリもベッドの横に腰かける。リオセスリはナックル装着の為のグローブを付けている。露出しているのは指先の一部程度だから、その装備を外そうとヌヴィレットに差し出す前に着脱しようとした。が、「そのままで……」と制止され、優しい仕草で手を取られる。ヌヴィレットの水元素を象徴する濃紺の手袋もそのままだ。
決して素肌を合わせたわけではない。彼が手袋を外さないのは、もしかしたら人の形態を保てない名残なのかもしれない。それでも確かに、ヌヴィレットが求めて触れてくるという事はわかった。手袋越しに、指の一本一本その存在を確かめるかのように絡められる。ただの確認作業の筈だ。しかし、時折力を込めてぎゅっと勝手には離れないようにその場に留めた。子どもの手遊び程度の触れ合いが、どんどんと深くなっていく。とても厄介だと、思った。

「ヌヴィレットさん。これだけで、あんたはきちんと人に戻れるのか?」
「……もっと、必要だ」
「あんたの好きに触ってくれて構わない」

片手は繋いだまま相変わらずの触れ合い。ヌヴィレットは空いていたもうもう一方の手を使い、リオセスリの肩や胸部をぺたぺたと形を確認するように触れてきた。明らかに他人と接触するのに慣れていない手つきであった。本来ならば服越しなのだから、何の感情も沸き立たない程度の衝撃がリオセスリに到来すべきなのだが、相手があのヌヴィレットとなれば話は別だ。たまに「ああ、こうだったな」と一人で納得するように小さく呟いているが、とうとうこちらの胸に飛び込みがばりと抱き着いてきたので、反射的にリオセスリはヌヴィレットをベッドに押し倒してしまった。
ここに連れてきたときも、同じようにこのベッドに横たわらせただけだ。だが、今は明らかに色を持ってリオセスリは押し付けてしまったのだ。まるで抑え込むかのように。少しの驚きの色がヌヴィレットの瞳を曇らせる。

「すまない……つい」
「いや、当然の事だ。こういうことは人の本能の一つなのだろう。生命の危険を感じたのなら、相手を制御するのは間違っていない」
「いや、俺はあんたを危険と思ったわけじゃない……」
「君は聡い人間だ。きっと本能が理解したのだろう。私が君に害する可能性を、今の私は油断をすれば君を殺してしまう事も否定は出来ない」

見苦しくてすまないと、小さくヌヴィレットは言葉を続けた。
そう、なのだろうか。先ほどの衝動は、ヌヴィレットに当てられたせいなのか?彼がリオセスリより上位の生き物であることは、当然のことながら昔から理解している筈だ。神の上の存在より上位相手に、力とか立場では立ち向かうのは不可能だ。そうして、ただの人がまるで征服するかのような無理を。わかりやすいマウント。それなのに、何に揺さぶられたか、まだはっきりとはしなかった。

「あんたの一挙一動に、俺は振り回されているらしい。たまたまこの場の人間は、俺しかいなかったからヌヴィレットさんも声をかけたのだろうが、他を当たった方が良いかもしれないと思ったが、だが……もし、あんたが誰かに抱き付くのなら、俺は許せないと感じた。だから、離したくない」
「……君は、私が人間なら誰とでもこんなことを出来ると思っているのか?」
「そうは思いたくないが……」

感情を揺さぶる制圧を受けた。それなのにベッドに押し付けられたまま、最初からずっと離れていない手。ヌヴィレットはそれを組みなおし、改めてぎゅっと指先に力を込めて、しっかりと絡められる。それはヌヴィレットがフォンテーヌで生きる上で、最優先している事項の提示だった。

「人として大切なのは、確かにこの形態を行う身体もそうではあるが、心が伴わないと意味がない。私は人ではないが、心を持った。だから、この触れ合いは私が通じている相手でないと成り立たない」
「……それは、俺だけって事で間違いないか?」
「そうだ。リオセスリ殿だけ、だ。もし君にそれが出来なかったら、私はまたあの海に帰るしかない」
「疲弊してるあんたを、あそこに戻すわけにはいかない」

そこまではっきりと言われて、抱きしめ返すしかなかった。もはや、リオセスリも色濃く出すしかないものがあった。
今のフォンテーヌにヌヴィレットは不可欠だ。だがいつの日か、この最高審判官が国の整備を整え終えて、自らの存在を不必要と認識したらもしかしたら、いつか本当に海に帰ってしまうかもしれない。

「……この要望は、極めて個人的な渇望だ。リオセスリ殿に職務として強要しているわけではない」
「これは、俺がやりたくてやってる。だが、これをあんたが人間に戻る職務だから必要だからと、仕方なく受け入れるのなら、無理だ。あんたの本質的な本能を揺さぶる必要があるんだろ?あんたに触れる権利……俺はそれに値するんで良いんだよな?」

こうやって明らかに組み敷きながらの確認作業は、普段のリオセスリの気質からすればじれったくもあった。だが、あまりにも慎重を期す相手であったので、入念に接すると最初から決めた。
それでも、どさくさに紛れるようにベッドの上に散らばるヌヴィレットの白銀の髪の一房へと触れる。その一連の流れに、拒絶は受けない。もし、未だに独自の光彩を放つ、入り混じる海色の蒼へと触れても同様なのだろうか?

「私は、個人的に君を好ましいとは思っているが、それは本来ならば認めてはいけない事だ。この国の統制者として、今まで以上に邁進する必要がある故の、障害となり得る」
「ならこれからも、孤独を望むのか?人間の為に、威厳を保つ為に、一人で」
「……きっと、君は私より先に生終えるだろう。頼りを作ってそれを失ってしまった時のほうが、私は耐えられない」

今までのヌヴィレットは独りで何でも抱え込み、解決しの繰り返しだった。周りを頼る上手な方法さえわからない。そうして、とうとうこの国最大の危機さえ解決する要因とさえなってしまった。
どんどんと人として離れてしまい、だからこそ人の象徴でもある心の制御が上手くいかなくなっているのだろう。その結果、不安定でリオセスリを求めるのに、それをも叶わないと思っている負の連鎖の様子をどこまでも見せた。

「確かに俺は、きっとあんたを置いて先に死ぬだろう。だが、こう考えちゃくれないか?俺はあんたに色んな物を貰ったが、この身体は最後は水に帰る。つまり、あんたのところにだ。心もそうありたいと思う。だから、こうやっていつまでもあんたに寄り添うさ」
「そんなことが本当に出来る、のか?」
「ああ、あんたに好きになって貰った男の言葉だ。信じて欲しい。だから……抱かせてくれ。その頑な心も一緒に、求めさせてくれ」
「……私も、君を求めたい」



宵闇の中、ベッドに重なる二人分の体重で、軋む。深く、深く……沈み込んで離れない。
もう、ヌヴィレットのどこを触っても、彼は間違いなく人であり続けるであろう。それは、きっと永遠に―――
だって、双方がそれを望むのだから、たとえ人ならざる者であろうとも誰でも許さないと決めつける事は出来ないのだ。





◇ ◇ ◇





――――そして、日々は流転するように進む。




「ヌヴィレットさん。定期的にここに泳ぎに来ているが、まだ身体の制御はままならないのか?」

以前ならとても考えられない事ではあったが、先ほどまでリオセスリはヌヴィレットと共に禁域の中で泳いでいた。
いくら神の目があるとはいえ、深海は独特な雰囲気を醸し出す場所だ。だが、周期的にヌヴィレットが原始胎海の脅威を排除している為、一緒に潜る分には問題はないそうだ。誰もいない…それこそ、深海生物さえ滅多に存在しない場所での潜水は、こんなに広々とした海の中なのに二人きりで独占している気持ちになれた。其の事は嬉しいし、二人だけの時間も心地良いものだ。だが、元々の原因を鑑みるに、ヌヴィレットが人間に戻れなくなるのも少々困るので尋ねたのだ。

「いや、確かに大海で本来の姿に戻る方が、発散できることに間違いはないが。実はもう、ルキナの泉でも事足りるようになっている。だが……」
「何か、他に理由があるのか?」
「……君に会う口実が無くなるのは、口惜しくて。ずっと言い出せなかった……すまない」

本当に申し訳なさそうに縮こまって、ヌヴィレットはその秘め事を教えてくれた。
最初こそは、メロピデ要塞参観滞在申請書なんてめんどくさい書類のやり取りをしていたが、そのうち二人の個人的な手紙のやり取りの中で検疫をすり抜けるための秘密のサインへと変わったのだった。段々と悪い事を教え込んでしまっているような気がする。だが、それが人間の心の一部でもあるのだから、それで良いとリオセスリは思った。



「全く……あんまり可愛いことばっか言われると、いつか俺はあんたを人間の形態に縛り付けて、本来の姿には戻せなくなるかもしれないぞ?」






















人 間 に な る 方 法