attention!
リオセスリ実装前時点で書いています。









「ん?ああ、あんたか」

メロピデ要塞の受付エリア。
そこは、エピクレシス歌劇場での審判が昼間の為、送られる罪人が訪れる事のない夜間は無人となる。攻撃特化型マシナリーと偵察記録型マシナリーがそれぞれ六体ほど配置され、警備に当たっている。管理者としてもちろんマシナリー達の警戒範囲に入っても何の挙動も起こさないように設定されているため、リオセスリは悠々とその場所に向かった。受付の名に相応しく、この場所はメロピデ要塞の中で最も水深が浅い。そうはいっても、そもそも他のエリアと比較してという具合だ。初めて受付エリアに降り立った囚人は、目の前に圧巻と存在する水槽の大きさにここが水底の一部だと認識するだろう。そう、自分たちが水槽の中に閉じ込められている…ということを。
そんな、水槽の外側に向けて、思わずリオセスリが声を出してしまう事象があった。

「今日も、きたのか」

自分の声が届いていると確信を持っているわけではないが、どうにも奇妙さを感じて、リオセスリは続けて声を出す。
水槽の外で、こちらを見ているように漂っている存在は、フォンテーヌ独自の海獣であるノンビリラッコであった。
本来の構造的に、水の外からはこちらの中側は見えないはずだが、あくまでそれは自分たち人間基準の物事の考え方である。そのラッコはまるでこちらを凝視するかのような仕草をしているようにも、見て取れた。そうはいっても、リオセスリが左右に歩けばついてくるというわけではないし、向こうは向こうで優雅に水の中を泳いでいたりするのだが、それでもその瞳だけはまるでこちらを見据えているかのような印象を受けるのだった。
水槽の外から見えるのはもちろんラッコだけではない。数多の色とりどりの魚類や水生動物が姿を見せてくれるし、確かに珍しい部類であるが他のノンビリラッコだって複数お目にかかることもある。
だが、この目の前にいるラッコだけはどこか他のノンビリラッコと違うような挙動を感じた。最初こそ奇妙さを覚えて、試しに拳の上で氷元素を生成して見せたりしたのだが、別におびえて逃げるようなこともなかった。ただ、じっとこちらを見ている…

「なんだ、あんたもこの書物に興味があるのか?」

今日は、古代フォンテーヌのレムリア王朝の文献の一つを持ち込み、水槽のガラスに背を預けて読んでいた。先ほどまで体をグルグル回転させて毛づくろいをしていたはずのラッコが、こちらをのぞき込むような仕草をしているように見受けられた。
実際は、防音性と断熱性の高いガラスに阻まれている為、声が聞こえているのかこちらが見えているのか判断が難しかったが、疑問に思ったことは口に出すタイプだった為、返信のないとわかっている言葉をリオセスリは出した。
結果、どちらでも良いとは思ったがそれでも一抹の可能性が過ぎり、しばらくそのままの体勢でページをめくって進めた―――

「さて、もういい時間だ。あんたもそろそろ寝た方がいい」

パタンっと、最後のページを閉じたリオセスリはラッコに向き直って、そう言葉にした。
本来、この場所に来たのも別に本を読むのが目的ではない。
リオセスリは、明日水の上に行く用事があるのだ。普段、活動するメロピデ要塞は遥か深海に位置する。その為、水圧の負荷も計り知れないほどだ。いくらフォンテーヌの海が特別とはいえ、本来ならば簡単に行き来するようなものではない。しかしリオセスリはその立場故に、定期的に上に報告義務が発生する。だから、身体を慣らすために要塞の中でも最も陸上に近いこの場所で、可能な限りの時間を過ごすようにしたのだった。
フォンテーヌの海の透明度はどこの国よりも高い。こんな夜でも、月明かりが差し込むくらいだ。同時に、普段人工の光に慣れている身を急激な太陽の光から守る為でもあった。
そういえば、ノンビリラッコは昼行性な筈で、眠るときはそのあたりの海藻に身を巻き付けていた筈だ。こいつは随分と夜更かしが好きなラッコらしい。昼間この場を通る機会があっても一切見かけたことはないのが不思議だが。
必要事項を終えたリオセスリは、退場の言葉を一つ告げてその場を後にするが、まるでその姿を見送るかのようにラッコはずっとこちらに視線を送っていた。





◇ ◇ ◇





「いってらっしゃい、公爵。具合が悪くなったら無理せずに、ちゃんと休んでね」
「はいはい。肝に銘じておくよ」
「もぅー、そういって。一度も使ったことないじゃない…」

丁度、薬剤の調達事項が最終確認となったため、看護師長であるシグウィンに去り際チクリと言葉を刺された。
定期的に水の上の世界に上がる者たちの為に、入口でもあるエピクレシス歌劇場の一角には休憩施設が存在する。長い刑期を終えた囚人が水の上に舞い戻ってきた際などは、直ぐに地上に慣れるのが難しいため、ある程度の日数その場所で過ごすことが通例となっている程だ。
受付エリアから船に乗りエレベーターへ移動すると、あくびが出るほど長い地上への上昇が始まる。あくびでもして、耳からの気圧を直さないと眩暈がするのは本当の話だ。

「うっ、この眩しさを浴びると、水の上に来たって実感するな」

思わず独り言を呟いてしまうくらいの太陽の光が、リオセスリに注いでいる。だから真っ昼間からここに来るのは敬遠したいところだが、今回の目的には仕方ない。
折角、エピクレシス歌劇場を横切る事となるが、自分は観光客ではない。賑わうルキナの泉も素通りして、まっすぐポート・マルコットへ向かう。ナヴィア線の巡水船へ乗り込むと、操縦士のエルファネがフォンテーヌ廷へ案内してくれる。四階までエレベーターで上がると、フォンテーヌの行政機関であるパレ・メルモニアが鎮座する。この地区最大の建物はそこにあるだけで荘厳だった。
すれ違うマレショーセ・ファントムに当然呼び止められることもなく、リオセスリは建物内へ進む。メロピデ要塞とパレ・メルモニアの書類を整理する共律官のイメナに声をかけて時間を軽く潰していると、約束の時間キッカリにスケジュール管理をしているセドナに声をかけられ、ヌヴィレット最高審判官の執務室へ導かれた。



「――― ってな感じかな、今回の定期報告は」
「ふむ、了解した。特に問題はないようだな。また、予めメロピデ要塞から上がってくる報告書にも目を通させてもらったが、私の方から追加で質問する事項もない」

天井高く広く光彩の取られている執務室の最奥で、リオセスリからの口頭報告を受けた後に、執務机に積み重なる報告書の山を一瞥したヌヴィレットはサインと決済印を交えながら淀みなく答える。

「それは、どうも。で、こっちからの質問だが…また新しい法律が施行されるって小耳に挟んだんだが、何か草案は出来ているのか?」
「ああ、そうだな。君にも予め、目を通して貰っても差し支えない」

椅子から立ち上がったヌヴィレットは背後に積み重なる法典らしき本をいくつか持ち、再び席に戻ってきた。最初にこちらに開いて見せたのは、この国の条文が連なるお堅い本だった。条文が追加するほどの重大事項なのかと一瞬身構えたがそうではないらしく、この条文に付随する通達の改正があったとヌヴィレットは流れを示した。次に開いた通達に関する本の空白のページに新しく追加される事項があると。しかし、通達自体もヌヴィレットなどの法関係者ならともかく読み慣れぬ人間にとっては、一度読んだだけでは難解な事の方が多い。その補足の為、また次の本が登場した。今度の本は、コンメンタールである。これは、難解な法の意義・要件・効果等について解説を付け加えたものだ。施行前にここまで準備しているのは、流石と言っても過言ではないのだが。

「なになに………ペットの名に『フリーナ』とつけてはいけない………?」
「端的に言えば、そうだ」

わざわざ厳かで厳粛でお堅いコンメンタールを読んで要約した言葉を、あっけらかんとリオセスリは疑惑の声を出すこととなった。そんな様子を気にもせず、ヌヴィレットは頷いて答えた。
そもそも、名目上では水の上の世界の法律はメロピデ要塞には関係ない。法意識が低いと皮肉を言われてもしかたないが、公然の事実だ。しかしながら刑期を終えた囚人が水の上に戻る際に、見知らぬ法律が突然存在していると、その後の生活に不便であろうからと、こうやってリオセスリは情報収集をして囚人たちに周知徹底するように伝えているようにしているのである。正直このように突飛な法律ならば影響は皆無と言っていいが、苦笑させてもらうのも仕方ないだろう。
この一条を推し進めたのはフリーナ自身であることは、疑いようもない。しかし、ならばとぽんっと頭に浮かんだ一つの疑問があった。

「ふーん、じゃあ。ペットの名に、ヌヴィレットさん。あんたの名前をつけても問題はないって事か?」
「現行法では、そうなる」
「折角だからついでに、あんたの名前も禁止にしないのか?」
「そもそもヌヴィレットも、名ではなく姓だ。そのような制限を付けたら、困る者も出てくるだろう」
「そりゃ、寛大なお心の持ち主なことで」
「メロピデ要塞にペットがいると聞いたことはないが、リオセスリ殿にはそのような予定でもあるのか?」

いつも冗句より少し踏み込んだ質問をしたことに、さすがのヌヴィレットも気が付いたのだろうか。そこはいつもと変わらないが抑揚のない疑問の声が投げかけられる。
だからこそ、リオセスリは少しじっとヌヴィレットを見据えてしまった。先ほど法典を取るために立ち上がった際のくるりとした優雅な動き、書類に目を通す真剣な眼差しの様子、すらすらとサインをする手元の所作。その些細な一つ一つが、何かを彷彿とさせるが、まさかな…と軽く頭を振り雑念を飛ばす。

「いや、変な事を聞いて悪かった。………法改正予定は、これだけか?」
「ああ。追加が発生しそうなら、随時知らせるように努めよう」
「んじゃ、用事も済んだことだし俺はこれで失礼させて貰う」
「ご苦労だった。手数をかけるが、次の定例報告のスケジュールはセドナへ申し伝えてくれ。それでは、また」

あくまで定例報告の中の一角の話を終え、リオセスリはその場を後にした。



パレ・メルモニアでのヌヴィレットへの報告や官庁巡りを優先したのは、あそこが昼の行政機関で閉まるのが早いからだ。メロピデ要塞の管理者として、リオセスリが水の上で行う業務は数多存在する。囚人の収容施設に必要な事項は、だいたいヌヴィレットとの打ち合わせで完結できるほど、行政機関はしっかりしている。しかし、クロックワーク・マシナリー生産機関としての一面もあるため、そちらの調整作業にしばしリオセスリは走ることとなった。鋲螺納入業者のお偉いさんとの会談から、インターナルギア切削の外注先の新規参入業者の下見まで…部下に任せている部分もあるが、最終的な判断をするのはリオセスリであるから、必ず自分の目で見て採択していた。
そんなこんなで朝から晩までフォンテーヌ廷を駆け巡る事となった為、珍しく遅い時間となってしまった。いつもならもう少し早く切り上げて、メロピデ要塞へ日帰りのとんぼ返りするのだが、今日はもしかしたら変な雑念があったのかもしれない。幸い水の下で火急の用があるわけではないし、戻るのは早朝でも問題ないだろう。夜になるとフォンテーヌ廷の基本活動は止まってしまう。リオセスリとしても迂闊にナヴィア線の巡水船を呼びつけるのは、憚られた。だからこそ、そうだ折角だからと。リオセスリはフォンテーヌ廷地区を自らの足で降りて行った。

「こんな時間まで釣りか?根性あるね」
「リオセスリ公爵、お久しぶりです。夜にしか釣れない魚もいますからね、この時間の釣りは当然ですよ」

足を運んだのは、フォンテーヌ廷地区を少し下った先にいるフォンテーヌ釣り協会理事のデラロッシュの元だった。以前、メロピデ要塞のパイプ洗浄にメンテマシナリーが大量発生した際に世話になったという過去がある。その為、魚類の民間的相談をたまにする間柄であった。

「そうだ!先日ご依頼を受けたノンビリラッコの石ですが…ちょうど先日良いものが座礁していましたので、確保しておきましたよ」

夜空の下でもにこにこと喜ぶ成果物だとわかるくらい自慢げに、デラロッシュはノンビリラッコの石を示して見せた。
リオセスリが、メロピデ要塞でたまに見かけるノンビリラッコ。他の個体と比較して不思議な事項は色々あったが、その中の一つに石や貝殻を全く持っていないという事があった。他のラッコは皆、食べるために懸命に貝殻に石をぶつけているというのに、あのラッコにはそのような様子が一切見受けられなかったのだ。図鑑などでノンビリラッコの生態を軽く調べたところ、ラッコにはお気に入りの石がありそれがないと食事も出来ないほど衰退してしまうらしい。あのラッコにそのような様子はなかったが、それでも他の個体よりずいぶんとスリムであるように見受けられたので念のため、依頼をしていたのだった。

「そいつはありがたいが…素人の俺からすると、そんな簡単に手に入るモノなのか?」
「それが本当に偶然なんですけど、このノンビリラッコの石は砕けた二枚貝と一緒に座礁したんですよ。残念ながら法律により二枚貝は水神に納めましたが、石までは要求されなかったですから」

そういえば、今は乾季である。前回、水の上に来た際に新たな珍しい法律が施行されたと聞いていたが、変な巡りあわせもあるもんだ。とりあえず礼と依頼報酬を渡したリオセスリは、デラロッシュにこれからの釣りの健闘を伝えてその場を後にした。





◇ ◇ ◇





「キレイだな」

現在、フォンテーヌ科学院方面へ向かう巡水船は、爆発事故の影響で路線が壊滅している。それでも隣であるリフィー地区への移動はリオセスリの足腰を持ってすれば、それほど遠いわけではない。ときどき、月明かりに照らされた手元のノンビリラッコの石を眺めながら、リオセスリはその場所へと向かった。
このあたりと、明確な目印が水上へ突出していた。この場所の奥深くには自らが住まうメロピデ要塞が鎮座している。不審者が外から介入しないようにと、サーチライトが巡らせてあるのでその物々しさは水の上からでもはっきり視認できるほどだった。だから、警戒地域を少し離れてリオセスリは水中へと潜る。今日の月明かりも昨日と同様に平等に降り注いでおり、夜とはいえかなり視界は良好だ。屈折した光は昼夜関係なく降り注ぎ、水面に映る月さえもこの手で掴めるほどだった。下層部を目がけるかのような潜水で、流謫の海と名高いリフィー地区の湖水に身を任せる。
この場にわざわざ潜った目的だが、それはあのノンビリラッコの様子を実際の目で見てみたいという気持ちが芽生えたからであった。相手は野生生物だ。もちろん警戒されて近づく事は出来ないかもしれないが、もし迷子だったりはぐれたりしていて困ってあの場にいるのであれば、手助けをしてやりたいという気持ちもあった。
海藻や水草に囲まれた一面を這うように進み、深く深く潜る。やがて迫り出した岩壁の一部が視界に入る。内部であるメロピデ要塞側から見ても目立つ随分ガラスだとは思っていたが、こうやって水中から眺めてもあの大きな三枚のガラスは圧倒的だ。やはり水の中から見ると曇っており、人間の目では中を窺い知ることはできないと再認識出来るくらいの遠目を確認したところだった。

「(いるな)」

水中で喋っても音は伝わらないが、神の目のおかげでフォンテーヌの水中は息苦しいわけでもないので、癖で口が動いた。
遠い遠い先、三枚ガラスの右端に青と白色の混じった何かが視界に入った。それは魚よりも格段に大きく優雅に泳ぐもの。あまり近づくと怯えられて逃げ出してしまうかもしれないと思い、リオセスリは身を隠しながらも慎重に近づいた。
だが、近づくにつれて強烈な違和感が視界に広がった。この時間ならいつものノンビリラッコがいると、そう思っていた。だから疑う余地などはない筈なのに、ふと過ぎった一つの可能性が勝手に口をついて出た。段々と明らかになる姿を視認して、何とか目を見開き、そして迂闊にも近づいた挙句―――

「(ヌヴィレットさん?)」

隠すことも出来ず、特大の音が出た。その、響きなのか振動なのか伝わる筈もないのに、なぜかガラスの前を泳いでいたラッコの姿が瞬く間にヌヴィレットへと切り替わった。そうして、明確にこちらを振り返りリオセスリを視認した。ここまで近づいて、間違える筈がない。こちらを見たヌヴィレットの表情はそれこそ昼間にパレ・メルモニアで話をしたときと、まるで変わりはなかった。しかし、ふいっと視線を逸らしそのままリオセスリの側面を抜けてその場を去ろうとしたのだ。その速さは、尋常ではない。だが、ここで彼を逃すなんてリオセスリの選択肢には存在していなかった。途中で水を吸って重くなった上着を脱ぎ棄てるくらい必死に、ヌヴィレットの後を追って泳いだ。



「っ、ここは?………空気が、ある」

ギリギリ見失わない程度の距離でなんとかヌヴィレットの後ろについたリオセスリは、やがて水面から顔を上げることとなる。そうはいっても、ここはどこかの洞窟のようで一時的な空間のようだった。全速力からの反転、久しぶりに思いっきり肺に酸素を供給すると清々しい気持ちになれる。そうして改めて向き直る。そんなに広いわけではない洞窟、その少し奥に居たのはやはり幻でもない存在だった。

「ヌヴィレットさん、だよな?」
「そうだ」

観念したようには思えなかったが、すでに水気を振り払ったらしいヌヴィレットがこの小さな洞窟に似合わぬ様子で立っていた。彼がいれば、こんな薄暗い場所でもまるでこれから審判が始まるかのようなしんとした雰囲気だった。その表情とは裏腹に、リオセスリから逃げるという認識はきちんとあったらしく隙あらば再び水中に舞い戻ることも厭わないかのように、こちらの隙を伺っている様子でもあった。

「可能なら、あんたに色々と聞きたいことがある」
「………」
「答えたくないか、」
「…出来ることなら」
「俺を監視するなら、わざわざ最高審判官が直接する必要はないだろう…」
「………なにか、勘違いをしているようだが。私はリオセスリ殿の監視をしていたわけではない」

ようやく重い口を開いたヌヴィレットに?偽りは見受けられなかった。ただ、罪状を読み上げるような皇かな口調ではないことも確かで。最初にリオセスリの胸に過ぎった嫌な予感だけは即座に否定してくれたので、それは助かった。まだ数多の疑問はあったが、最悪の状況だけは払拭出来たと思うので言葉を続ける。

「あのラッコが、あんただったってことは認めるんだな」
「…そうだ。君を騙すつもりはなかった。それと、どうやって擬態をしたかは、説明出来ないが」
「まあ、あんたにも色々と事情があるんだろう。深くは追及しない」

なんといっても目の前の最高審判官は、400年やら500年前の文献にも余裕でご本人が登場する歴史的人物だ。水神フリーナと並んで、人ならざる者であることはフォンテーヌ人にとっては常識だ。その容姿もリオセスリが子どものころに見たときから一切変化がないのだから、色々とあるのだろう。それを調べるのはタブー視されているし、別にリオセスリも歴史学者じゃないから本人が語らないなら詳しく知りたいわけでもない。もともと人知を超えているとは思っているから、ラッコに擬態しているくらい可愛いもんじゃないか。

「フォッシー」
「え?」
「リオセスリ殿は、フォッシーと言う名に聞き覚えはあるか?」
「いや、初耳だが」
「300年ほど前に人々の間で話題になった噂だ。フォンテーヌは淡水で満たされた内陸湖だが、時折未確認動物が目撃される。それは遥か昔の時代に栄えた大型水棲爬虫類の生き残りで世代を経て進化した、太古に絶命したとされる大型獣が生存している、と」

真顔で淡々と、ヌヴィレットはまるでスチームバード新聞の飛ばし記事を読み上げるように説明をした。言っている事と、実際の内容のギャップが極めて激しかったが本人は至極真剣なようだったので、とても笑い飛ばせる雰囲気ではない。

「もしかして、そのフォッシーとやらも、あんたなのか?」
「そのような形態に擬態したことはなかったが、状況的にそう判断されてしまったようだ。それ以来、私は同じ哺乳類の中でも比較的問題ないノンビリラッコの姿を借りるようになった」
「そんな騒ぎになりそうなら、そもそも水中に潜らなければいいんじゃないか?」
「委細は説明できないが、私の個人的な事情で定期的に水中に入る必要がある」
「まあ、確かにそれだったら。最高審判官様が泳いでたらフォッシーどころじゃない騒ぎになるだろうからな、今は」
「理解してくれて、助かる」
「あんたがパレ・メルモニアの目の前じゃなくて、わざわざ離れたこっちの水中を泳いでいるのはそれで理解した。だが、結局俺の前に姿を見せていた理由も説明出来ないのか?」

どうやら水の中なら割と何でもありらしい。結果的にはラッコという、案外かわいらしいチョイスとなったのにも歴史があるらしいので、流石である。この人が何やってもマジで歴史になるなと、リオセスリは改めて感心した。あのラッコが夜行性だったことにも、これでひとまずは納得だ。だからこそ、そこが一番腑に落ちなかった。

「………私ばかり答えていて、この尋問は些か不公平ではないか?」
「いや、別に俺は尋問しているわけじゃないんだが」

やはり言い淀んだヌヴィレットが反論のような言葉を出してくるが、別に強い言葉というわけではない。ただ普段の審判とは逆である一方的な構図になってしまったことは違いなく、明らかな意義の声が響いた。

「なら、私の質問にも答えて欲しい。なぜ君は先ほどあの場に来た?メロピデ要塞に戻った筈では」

思いがけない質問を投げかけられて流石のリオセスリも少々返答に困ったが、問うヌヴィレットはあまりにも一途だった為、包み隠さず伝えることとなった。ラッコが心配だったから色々と生態を調べた事。ラッコの為に使えそうな石を探した事。今思えば子供のままごとみたいなお遊びにも聞こえたかもしれないが、ヌヴィレットはただ興味深く聞いてくれた。

「ラッコの石?」
「ああ、まあこれなんだが…」

別に証明しろと言われたわけではなかったが、ポケットに忍ばせていたラッコの為の石を取り出した。確かに座礁した石は、丸みを帯びていて使い込まれているせいかキラキラと輝いている。だがそこらへんの海岸に落ちている石ころと言っても差し支えがない程度の代物なので、きっと数多の宝石などにも精通しているであろうヌヴィレットに見せるのは少々気恥ずかしくもあった。
ほんの少しの既視感はあったものの、まさかあのラッコがヌヴィレットだと思うわけがなく、そんなことを知っていたらわざわざ石探しなんてしなかった。あまりにも不釣り合いな石だけが今、二人の目の前にあってしまったので、思わずリオセスリはそのままポケットになんでもなかったかのように石をしまおうとした。

「なぜ、隠す?元々はその石を、私に渡すつもりだったのでは」
「まぁ最初はそのつもりだったが、あんたはラッコじゃないんだから、こんなの貰っても迷惑だろ?」
「迷惑かどうか決めるのは、私の方だ」

そう言いながら、ヌヴィレットは視線で石を再び見せるように訴えた。なぜこんなものに執着するのかわからなかったが、ため息一つ入れてまたリオセスリはポケットからそれを見せた。ぽんっと手のひらに置いた石をヌヴィレットがゆっくりと指で詰まんで物珍しそうに見る。

「貰っても?」
「気に入ったのなら…」

本当に本当にただの石なので、そんな貴重な扱いを受けてリオセスリには疑問でしかなかった。
それでもヌヴィレットは大切そうに石を自らの手に乗せている。確かに最高審判官にラッコの石をプレゼントする人間など、今も昔もこれからの未来も含めてもきっとリオセスリが初めてだろうし最後になるだろう。きっとヌヴィレットに他意はないだろうが、なかなか恥ずかしい思いをさせてもらった。

「で、俺は全部答えたんだから、いい加減教えてくれ。なんで、あんたはあんな場所でメロピデ要塞の中を覗っていたんだ?」
「………最初に伝えたが、私は君を監視していたわけでも、君の管理するメロピデ要塞を疑っていたわけでもない」
「俺はあんたに信頼されていると思ったからこそ、メロピデ要塞を仕切ってきたんだ。それが揺らぐようなら、こちらも考える事がある」

あくまで違うと平行線の言葉がヌヴィレットから話される。もともと歯切れの悪いような口調をしないとはいえ、これ以上は無理なのだろうか。信頼と信用が崩れるのならば、今までの関係ではきっといられなくなる。慎重に我慢強く…リオセスリは次の言葉を待った。

「………水中に入る必要があるのは、あくまで私の非公式な事情だ。だから…あの場で君の姿を見るのも仕事ではなく私の個人的な想いゆえだ」
「ん?水中のパトロールをしているとかじゃないのか?」
「そのような事項は各種の専門機関に任せている。私はただ、単に君の姿を見たいからあの場に足を運んでいただけだ」

なにか、なにか…とんでもない爆弾発言を投下されたような気がする。それなのに、ヌヴィレット本人は表情をぴくりとも変えていない。一応、吐露するのに二、三度渋ったから、本当はリオセスリに伝えたくない事項であることには間違いないだろうと、そこまで何とか理解はした。意味があるのだ、仕事以外の何か意味が。だが、不意打ちを食らったかのようにリオセスリは直ぐに頭が回らなくあって。

「なんか、勘違いしそうになるんだが。その言い方だと、まるで俺に個人的に会いたいから足?く通っていたみたいに聞こえる…」
「その認識で間違いない………いや、正確には少々違うな。君は、必ず次の定例報告のスケジュールを決めているな」
「そりゃあ、あんたのスケジュールが詰まってるから必然的にそうなるだろう」
「だから、私は君に会う日を楽しみに指折りで数えているのだが、さすがにその日が近づくと落ち着かなくなる。そんな調子で久しぶりに君に会うと、とても平静ではいられない。だから、メロピデ要塞のあの場所で君の姿を見ることで耐性を付けていた」

これでリオセスリに関することで隠すことなど一切なくなったのだろう。最後にすべてをぶちまけられた。それは心の準備だったのだと、ほんの少し胸に拳を当てて。

「…こんなことを突然伝えられても君は迷惑だろ?安心して欲しい。もう金輪際、あの場所には近づかないようにする」

まるでそれだけ言い捨てるかのように、いよいよ決心したヌヴィレットは洞窟の入口の前にいたリオセスリを除けて、その場を去ろうとする。
あの安っぽいラッコの石なんかをぎゅっと握りしめているくせに…それは決して置いていくつもりはないのだ。それがきっとすべての答えだった。

「ヌヴィレットさん、あんたも人の事は言えないな。迷惑かどうかは決めるのは、あんたじゃなくて俺の方だ」
「………服の裾を離して貰えるだろうか。私は別に返答は求めていないし、先ほども言ったが。定時報告でさえ君と会うのに支障があるんだ。このように突然会ったら、私は私でいられなくなる」

だから今も離れたくて仕方ないと、ヌヴィレットは行動で示した。その姿でさえ…こんな時でも、彼は気高く美しくあった。
思わずリオセスリは、一切の乱れのなかったヌヴィレットの清流の正裁の端を掴んだ。彼が求めていなくとも、こちらには伝えたい事があるのだ。言い捨てて自己完結なんてとても許すこと出来ない。ああそうか、だから俺も。



「今は、定期報告の時間じゃない。俺もあんたも、個人的な時間だ」

今まではガラス越しだった対面が目の前に成り立ったからこそ、進む関係性がきっとあるのだから。













ノ ン ビ リ ラ ッ コ 、 ヌ ヴ ィ レ ッ ト さ ん と