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誕生日のお祝いの捧げ物として鍾ディル、初めて書きましたー
ディルックが鍾離に、契約の添削を依頼する話です。
「鍾離先生、代金の取立に来た方がいらっしゃっています」
往生堂にて鍾離に宛がわれている一室に、渡し守から来訪者の存在があるとの声がかかった。
そのこと自体は別段珍しい事ではない。鍾離からすれば、こういった事象は正直数多も覚えが在り過ぎる。そのどれもこれもが必要な事だと確信を得ている。たかがモラを対価として手に入れられる物など、許多拾い上げて問題ない。だがしかし現実は非情であり、大抵の場合鍾離がそれに見合うモラをその場では持ち合わせてはいない。そうとなれば、ツケ払いが基本となる。その結果、巡り巡ってこのように直接回収しに来る輩がいないわけでもないのだ。さて、どうしたものかと考えても解決するわけではないからして。
「相分かった。それで、その者は一体いくらを要求している?」
正直、鍾離は手に入れた物や経験にはそれなりに執着するが、それらの埋合わせとしてのモラがいくらだったかなんて記憶に残っていない。元本はともかくとしても、経過利息や遅延損害金、交通費、日当、代理人報酬、調査費用などの取立費用まで上乗せされている可能性がある。要望された金額によって対応を変えるのも致し方ないことであった。
「それが…1500モラとの事です」
子どものお小遣い程度の金額を口にした渡し守は、面倒事が起きそうだから私が代わりに支払いましょうか?と提案してくれた。しかしながら興味が沸いた鍾離はそれを丁寧に断り直接自分で支払う…と、その来訪者をこの私室に通すようにと申し伝えたのだった。
◇ ◇ ◇
「はじめまして、鍾離殿で間違いないか?」
「そうだ。俺は記憶力が良い、初対面で間違いないだろう。だから名前を教えて貰わないと、貴殿から何を購入したのかわからない」
「それもそうだな。僕の名は、ディルック。アカツキワイナリー…エンジェルズシェアのオーナーだ」
淀みなく鍾離の私室へ入って来たのは、1500モラの代金回収者には似合わぬ風貌をした青年だった。璃月人とはかけ離れた装いは、かの隣国か船を渡って遠方の国を思わせる。貴族としても商人としても戦士としても通る衣装には、所々に質の良い装飾をあしらっている様子が見て取れた。その上で名乗られた名前と確かな身分。こちらとしても見目で大方の予想は付けていたものの、いざ名乗られれば納得としか出来ない相手であった。
そうして屋号から1500モラのてん補に対し、瞬時に見当も付く。先日、モンドのエンジェルズシェアにて旅人がバーテンダー体験ウィークとして、カウンターに立った。はるばる来訪した鍾離は、その場で煙霞繁葉の茶を一杯注文し頂いたのだ。その報酬としての金額をメニューをきちんと見た記憶など皆無だが、納得は出来る値段であった。
「すまない。旅人には、往生堂に請求するように依頼したのだが、伝達ミスがあったようだな。いや、もしかしたら他国への支払いだからと、堂主殿が手続きを後回しにしたのかもしれない。どちらにせよ、不手際があったようだ」
「確かに、鍾離殿が飲んだエンジェルズシェアでの一杯に関して支払いは未だ為されてない」
「事実確認は間違ってないな。それで、ディルック殿は何故俺を尋ねて来た?まさか本当に1500モラを回収しに来たわけではあるまい」
それが何かしらの口実である事くらい一弾指察しとれた。璃月の事ならば、たとえ科挙の歴代状元及第者の名でも全員空で連ねる事が出来る鍾離だが、隣国モンドの事情を委細まで把握しているわけではない。そうは言っても、各国の情勢の一部として経済を回しているアカツキワイナリーの情報は非常に重要視する値だ。それほどの逸材が足労して目の前に忽然と現れたという事は、これは意味のある一幕なのである。
「話が早くて助かる。博識と名高い鍾離殿に助力を願いに来たのが、今回の僕の目的だ」
「ほう…俺の知識を買収したいという事か」
「端的に言えば、そうなる。だが、鍾離殿は多才であるのに、知識の切り売りはしないとも聞いている」
「そうだな。俺が周囲に披露するのは、専ら実務的ではない知識だと言われた事はある。だが、ディルック殿が求めているのは俺が普段面白いと感じる系統ではないな?」
「その通りだ。今回依頼したいのは、僕の仕事に必要な事項だ」
「基本的に、直接こういった仕事の交渉をされても俺は断っている。滑稽に欠けるからな。そして失礼だが、ディルック殿がユーモアに長けているとも思えない。それで、どうやって俺の協力を取り付けるつもりだ?」
鍾離がディルックと直接顔を合わせるのは初めてだが、世間一般的な噂の通り真面目で実直な印象の人物のようだった。そうして、あちらも鍾離に関する一通りの情報を得て敢えて交渉に臨むようだった。どう考えても嘘や偽りを口にするようなタイプにも思えないし、それを見抜けぬ鍾離でもない。大前提として引き受けないとわかっていて尚、挑んでくるという心意気を買い、話を聞く価値のまず一歩を見出した程度ではあったが。
「今回、僕が鍾離殿に頼みたいのは、『契約』の添削確認だ」
「ほぅ… して、なぜそれを俺に?もしや、旅人にでも俺を紹介されたのか」
「いや、旅人からは何も聞いていない」
あまりにも直球すぎる内容に鍾離は、かまをかけた。二人の共通の知人と言えば、旅人だろうが。別に、口が軽い相手とも想像しない。旅人がそう簡単に鍾離の正体を伝えるとは思ってはいないが。ディルックの要求が露骨過ぎたので一度、勘ぐりたくなるものだった。璃月では凡人鍾離もそれなりの有名人である事は自覚しているが、基本的に自国を出ないからして、他国では無名に近いだろう。だからこそ、各国を行き来する旅人ではない情報源の唯一にも思い当たる。
「それでは一つ確認したい。モンドに吟遊詩人は多くいるが、その中でも最も酒が好きな呑兵衛が居るはずだ。彼の事を知っているか?」
「ああ、知っている。よく、うちの店に来るからな。そして…個人的にも少しだが」
もちろん、あの呑兵衛詩人もたとえ酒の勢いがあろうが、鍾離の正体を口滑らすとも思えない。だが、しかしディルックは言った。客としてではなくそれ以外でも知りゆく事があるという事を。モンドに次いで璃月もあり得る事の可能性。吟遊詩人の正体を知り得ているのならば、璃月にも人として居るかもしれない連想の一つとしてあり得る事である。もしかしたら、ディルックは全ての確信を得ているわけではないのかもしれない。それでも敢えて裁定者に直接訪ねるとは、なかなに恐れ入る度量であることを認めたくあった。
「そもそも、この場で直ぐ1500モラを支払えば、それでこの話は終わりで間違いないな?」
「そうだ。僕は別に強要をしているわけじゃない。鍾離殿が嫌なら、この話は断ってくれて構わない」
告げる選択肢があっても、ディルックの表情や仕草に変わりはなかった。それが核心を得ているのかはわからない。ただ…こういった実益は好まないが、やりとりは面白いと判断した。
「………残念ながら困ったことに、今は手持ちがない。ディルック殿の提案を受け入れるしかないな」
「それは、僕には非常にありがたい話だが。具体的な内容や、他の条件を聞かなくていいのか?もちろん、鍾離殿の知識に見合った対価は十分に支払うつもりだが」
「モラの額なら、問題はない。引き受ける選定は、俺の興味を惹ければ十分だからな」
口約束とはいえ、これで二人の間に契約が成り立った。物事というものは、何事も下地である建前が必要である。まずは差入してからのディルックの手際は、前提条件を兼ね備えている素晴らしいものだった。持ちかける高尚も良い。だから、引き受けるに値するのだ。
そうしてディルックが『契約』に関してどのような無理難題を口にしようが、全てをすくい上げる事が鍾離には間違いなく出来るのだから子細な細部など取るに足らないものであった。
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「鍾離殿には、この公正証書の添削をして貰いたい」
契約を交わしたことで、二人は本格的に仕事に取り掛かる事となる。改めて部屋の一角に置かれている梨園賓席にも使用される垂香材の円卓と丸椅子へと座り、それぞれ対面した。
そうしてディルックが机の上に広げたのは、公正証書の原稿であった。公正証書とは、公証役場で公文書として作成した契約証書である。民間の取引で契約書を作成した場合、それはどんなに規模が大きくとも私文書となる。大雑把に言えば、公的機関が私文書を認める為に第三者を挟むという形を取ろうとしているようだった。
「ふむ、公正証書というのは珍しいな。契約に必要ならば、内容証明で確定日付を取るだけでも十分であるようにも見受けられるが?」
「僕も最初はその提案をしたが、先方の要望で公正証書という形にすることとなった」
当人同士だけではなく第三者を挟みたいならば、公正証書よりもっと簡易的な方法に内容証明がある。これは、契約内容自体を有効とするわけではないが、費用や手間や面倒も少なく前段階として常用されている。ビジネスの場では、比較的広く認知されている事もあり、重要な契約では最初に確定日付を得る為に提案されることも多い。
「確かモンドには、内容証明制度はあっても公正証書制度は存在していなかったと記憶している」
「その通りだ。僕も初めての事で確証がない。だから、鍾離殿に認識のすり合わせを願い出たんだ」
「なるほど。つまり、契約相手は璃月人なのだな」
「そうだ。そしてこの公正証書の原稿は、先方が原案として提示したものだ」
一般人にとって公正証書と言っても、聞き馴染が薄い。商慣習の違いはあれど、業界によっても約款が違うし他国ともなれば猶更だ。モンドにない制度である公正証書を提案されて、ディルックが鵜呑みにすることはできないと判断するのも当然であろう。しかも、このたたき台は体裁があまりにも整っている。素人の出来ではないから、恐らく当人ではなく誰かしからの外部の業務委託者が手を入れている。だからこそ多少の不信感を覚えるのも仕方ない。また、公正証書に限らず契約書というものは、概ね作成者が有利となる要項を盛り込む事が多い。迂闊にサインは出来ないし、しかもその事項を公的機関が承認するとなれば、慎重に慎重を重ねる理由も理解出来た。
「モンドには、印鑑証明制度も存在していなかった筈だが、それに関して不都合はないのか?」
「それも先方に伝えたが。一応、印鑑証明書の要件である住所・氏名・生年月日・印影が僕には既に整っている」
「普通のモンド人ならともかく、アカツキワイナリーのオーナーともなると前提条件は問題ない、か」
そもそも公正証書を作成するには、前準備として印鑑証明が必要である。制度が整っている璃月人でも、必要でなければ公的機関に登録していない事項だ。不動産購入・借入・引っ越しなど必要時に初めて印鑑を作成し、登録自体は後回しにすることも多い。元来サインが本人証明であるモンド人はいえ、ディルックはテイワット全土を商圏とするアカツキワイナリーのオーナーである。印鑑文化が根付く地でも問題なく対応できるようにと、抜かりなく準備してあるのだろう。外国人を相手にどうしても印鑑証明が必要な場合は、璃月軍に依頼して指紋から確定することも可能だが、今回はその心配はなかったらしい。だから目下は本当に、馴染の薄い公正証書のみを尋ねに来たのだろう。
「では、内容に目を通させて貰う」
「よろしく頼む」
根本が確定したことで、ここでようやく鍾離は公正証書の原稿を手に取った。
株式譲渡契約書という題の記載から、以下は項が続々と連なっている。無論これは本原稿ではなく複写である為か、ところどころ個人情報が記載されている箇所や金額が書かれているであろう部分も黒塗りで伏せられていた。
入念に目を通した結果の大まかな内容としては、璃月のとある事業をアカツキワイナリーが合併買収するという意味合いであった。その昔こそ、買収するとなれば敵対的買収のイメージが強かったが。近年は、事業承継が活発である。
事業承継とは、理念・資産・負債などの事業に関する全てのものを次の経営者に引き継ぐことである。概ね、代替わりと言えば息子などの血縁者が継ぐのが世間一般的であるが、頻りの年では親族に後継者が不在という問題が多く存在している。その場合、従業員や外注先に事業を譲渡するという形を取る事もあるが、実務をしている者が経営を上手く回せる事は同義ではない。その為、同業者へ事業を譲渡するという観念が活発となり、それを生業とするマッチング業者さえ見かける程であった。デューデリジェンスと呼ばれる事前調査に関しても、ディルックならば十分に踏まえているだろうから、その心配はないだろう。それらの下準備を全て整えた後に、ようやく契約となるのだ。その為の入念な書類として格式ばった公正証書が選ばれたのだろう。
「この原稿は複写であるようだが、直接書き込んでも問題はないか?」
「もちろんだ」
一度断ってから鍾離は立ち上がり、文机から日常使いしている馴染の道具を盆に乗せて運んできた。書き物をすることも多いから、二人の前にある机も幅がある。広げられた公正証書の原稿の端に一式を置き、まず文鎮を置いて見定めた。ディルックが複写した紙なので、筆相手には少々向いていないが、今回の作用としてはさしたる問題はないだろう。丁寧に硯に墨汁を溶いてから、ようやく一つの筆を取った。
「書き込みながら、要点を説明させて貰う」
「わかった。伏せている箇所も、必要であれば質問して貰って構わない」
「大まかは推測出来るが、そうだな。例えば、この伏せている人物は、先方の親族で間違いないか?」
「その通りだ。先方の配偶者に当たる」
「ふむ、そうだな。ではやはり、わかりやすくこうした方が良さそうだ」
そう言いながら、鍾離は手に取った筆を淀みなく動かす事となる。ディルックが璃月式の契約書をどれだけ今まで結んでいるか不明ではあるが、筋道を立てるに越したことはないだろう。これは公正証書だけではないが、契約書でよく陥りやすい事項の一つから潰す事とした。璃月式の契約書では、固有名詞を甲・乙・丙…と略するのが一般的で、もちろんこの公正証書にもふんだんに盛り込んであった。略称を使うことで契約書作成の煩雑さが軽減されることが一番の目的で読み慣れた法務関係者(今回の場合は公証人役場)が判断しやすくある。その反面、実際の当事者からすれば馴染がなく、酷いときには甲と乙を逆にしてしまう可能性も考えられる罠も存在する。
その為、鍾離は甲や乙の記載のある個所に別に用意した朱色で本来の利害関係者であるアカツキワイナリーや先方の名を具体的に全て脚注として書き込んだ。
「なるほど、確かにこの方が読みやすいな」
「公正証書は聞き馴染のない言葉を使いたがる。必要と思われる箇所のルビや、もう少しモンド人に馴染のある言葉に書き換えも入れておこう」
また、鍾離は作中に頻繁に登場する重要な用語を〇や□で取り囲みもした。読み解く際に、重点的に意識に入れる必要があるからだ。かみ砕いて理解するにも、助けの一つとなる。文面自体は、本条第1項から始まり続いているが、後ろの項になると前項を引用する記載も多い。遡って確認すると内容が頭に入りにくいので、簡単な補足も欄外に書き入れた。
「さて、次は俺が注釈した原稿を見ながら注意点を述べよう」
「わかった。こちらは別途、メモを取っても構わないか?」
「そうだな。この原稿に直接書き込んでも構わないが、別にした方が整理しやすいだろう」
書き込みの入った公正証書の原稿を、改めてディルックの見やすい位置に文鎮ごと示す。鍾離からすれば、原稿が逆さ文字に見えるのだが、別に上下反転した文字でも技術的に記載する事が可能なので特に問題はない。ディルックも、仕事用の手帳を取り出し机に置き。目線は原稿から離さないものの、ペンを取り向き合った。
「まずここだな。具体的な日付の記載に関して最後の契約日にはあるものの、作中はぼやかされている部分がある。これは、年月日を明確にした方が良いだろう」
「確かに。日付を不明確にすることで、期間の幅に弾力が生じるな。訂正した方が良さそうだ」
「それと瑕疵に対する記載が甘く感じる。先方に対する責任より、アカツキワイナリーに対しての比重が多い。見直した方が良いだろう」
「鍾離殿からしたら、具体的にはどう感じるか意見を聞きたい。僕の考えでは、割合を具体的に記載したとしても逃れられないように感じる」
「そうだな。個人的にだが経験上、簿外負債が瑕疵に該当する案件が多い気がしている」
「わかった、盛り込む要件として検討する。後で、図書館で契約書の瑕疵について重点的に調べてから…という事はなるが」
「そうだな。俺の意見だけではなく、満遍なく網羅するのは良い事だ」
「逆に削った方が良い文はあるだろうか?」
「それは明確に一つ存在している。ここに、仔細については別の契約書を参照するようにと記載があるが、これはやめた方が良い」
「この件は、わざわざ公正証書に記載するまでもないと判断したと思われるが…理由を聞いても?」
「折角、公正証書で双方の認識が相違ないように定めているのに、別の契約があると全てが破算する可能性があるからだ」
「なるほど。詰まるところは、この場合だと別の契約も公正証書に記載するのと同意義になるな」
「契約でもめ事になりがちなのは、大筋よりこういった細かい部分の認識違いによる事が多い。不安定な要素は出来得る限り排除する事を推奨する」
「そうだとすると、例えばこの表現が僕は腑に落ちない。契約においては、ただちに・速やかに・遅延なくという言葉がよく使っているように見られるが、統一されていないのは何故だ?」
「その三つの早い順は…ただちに→速やかに→遅延なく、だ。この場合は、表現を強める為に『ただちに』を使用する方が良いと感じる」
「その箇所は理解できたが、この後ろの文で敢えて『遅延なく』を使用している。何か、特別な意図はあるのか?全て『ただちに』を使用する方が迅速な印象を受けるが」
「この内容では、責任の所在が双方にあると見受けられるから、一方に負担を強いる表現を軽減する為に、わざと『ただちに』を使用しているようだ」
「確かに一理あるな。ただ、間を取って『速やかに』を選択するのも検討の余地があるように感じる」
続けて鍾離は、条文で認識違いが起きやすい基礎である『及び』『並びに』『又は』『若しくは』の違いを別途の図を記載しつつ説明をした。その後も、譲渡価格の総額は決まっているからこそ、実務的に柔軟に対応できるようにと全体的なバランスを取るアドバイスも入れた。
元々は契約の神として、条文を作成した側である。抜け道としては、良い意味でも悪い意味でも歴代の人間が色々と試行錯誤してくれたおかげで、法律の解釈と補充を担当する天権がその都度潰してくれている。凡人となった鍾離だからこそ、法に捕らわれるだけではない発想も徐々に理解出来はじめた部分もあった。
ディルックが鍾離の正体を知っていようがいまいが、今更とぼける必要もないだろう。契約として受けた事項であるから、隙のないように最後まで公正証書の添削をディルックが納得するまで続ける事となる。ディルックの方も、元から確認事項をまとめてあったらしく、最後は質疑応答となった。それはちょっとした検討会のようにしばらく続いた。挑まれたのも同然だが、悪くない応酬となった。いくら璃月式の公正証書とはいえ、モンド人が全てを習わなければいけないわけでもない。ただ実際の公証人役場の人間は璃月人である。それは考慮する必要性があるので、慣例も告げる事となる。正直、ディルックは純モンド人であるからこそ、質問の切り込み方も興味深くあった。璃月人の固定概念には存在しない、斬新な切り口や方面からの視点提供は鍾離にとっても新鮮味のあるもので。また文化の違いがあるからこそ、受け入れて理解し寄り添い歩み寄ろうとする姿も見てとれた。高みを目指す為の、実に有意義な時間であった。
最後に、最近の公証人役場は混みあっているから早く予約をした方が良いと、鍾離が伝えて終わる―――
「…他に質問はないか?」
「もうさすがにない。十分良く教えて貰った、感謝する」
二人が納得して終わりを了承した後、ディルックは謝意を示す為の言葉を出した。そこまで表情が変わるタイプには見えないが、それでも一つの山を越えたかのような晴れた顔を見せてくれたような気がする。
最後には多少の討論も入り交じったが、一方的にアカツキワイナリーが優位になる条件を引き出す為ではなく、相手方の利益も加味してバランス調整をするように努めていたように見受けられる。見事な手際だ。この若さでモンド一の商人として名を馳せているのだから、場慣れは相当しているだろうが、鍾離相手でも一歩も引かずどころか、気後れなど全くしていなかった。
「これで、この取引は完了だ。僕は、最初に金額の提示をしなかったが、鍾離殿の言い値があればそれを支払いしよう。無論、あまりに法外ならばある程度の交渉はさせて貰うが」
「俺の価値を俺が決めるのか?」
正直、モラなど鍾離にとってはそれ自体に価値を見出すものではなかった。それどころか、ディルックとの会話は到底平素では味わう事の出来ぬ領域だった。駆け引きの代償としては余りあるもので。いつもならば道楽の一つの筈が、思わぬ収穫であった。多分、会話の相性が良いなと肌で感じたのだ。璃月人でさえ、鍾離と対等の場に立って話を出来る人物など殆ど存在しない。ましてや、正面切っての弁論にも近い場となった後半などは鍾離という凡人の器である限り、これから先数える程しか経験の出来ない場かもしれない程だった。そんな経験をした直後に、モラの選定などする気にもなれないのも致し方ない事だ。
「それならば。失礼ながら念の為、事前に添削校正業界の報酬規程は調べてある」
ディルックが取り出して見せたのは、報酬規程に関わる料金表であった。契約が絶対的な璃月では、添削校正に携わる人物が多い。不当請求などを防止する意味も含めて、独自の資格を認定して会員になる事を推奨しているのである。これは会則の規定に基づき定めたもので、制定や変更については、璃月七星の認可を受けている歴としたものだった。その為、相場金額もかなり具体的だ。報酬にかけた時間や文字数や作成枚数などが累進にて金額が上昇していくようになっている。また、加算報酬なども事細やかに制定されていた。
「確か、この報酬規程は廃止されたと記憶しているが」
「数年前に自由化された事は、僕も認識している。だが、現在でも報酬の目安として使用されている事は確かだ」
「ふむ。この規定通りだと、今回の俺の報酬はこのあたりか」
鍾離は指を伝い、報酬規程のうち今日の添削に該当する金額の箇所を指示した。正直、ここまで真面目に具体的に労働に対するモラを考えた事がなかったので、これが高価なのか安価なのかいまいち判断しにくくあった。
「僕は、この金額の数字の後ろにゼロを二つ付けたモラを鍾離殿に支払おうと思っている。この金額に対して他の希望があるなら、教えて欲しい」
「随分と箔を付けてくれるな。璃月にはモンドのようなチップ文化はないぞ?」
「この場に、どれだけの価値があるか鍾離殿は認識しきれてないようだ。この金額でも対価としてはあまりに安価だと僕は思うが、目安が他にないから仕方ない」
「…そこまで言うなら、その金額を貰おう」
「承諾してくれて、助かる。早速小切手の準備をするから、少々机を借りても構わないか?」
「ああ。そういえば、俺も茶の一つも出していなかったな。準備してくる」
これは、璃月人独特との自負があるが、私室の一角には常に温かい茶を沸かす事の出来る茶器一式が備えられている。茶の為に朝一番に水を汲みに行く事が、璃月人の日課の一つだ。それは鍾離も同様で、少ない容量で湯を沸かし、手早く馴染の茶を用意する事が出来るのだ。今回はディルックが突然の来訪だった為、普段鍾離が好んで飲んでいる茶と同じ茶葉を提供する事となった。工夫茶器のうち茶盤を広げ、茶器を温める。あくまで部屋の主と客人は対等である事を示すように、来客用の全く同じ絵柄の茶杯を並べた。茶荷や茶壷に移す一連に関しては鍾離にとっては数千年繰り返した事象で、今更見るまでもない。ディルックが璃月式の茶に慣れているか不明瞭なので、最後は無難に茶杯へ注ぐだけとした。
「ここに来てから、ずっと気を張っていただろう。少し休憩するといい」
「香りの良い茶だな。頂こう」
てっきり小切手の記載をしていると思っていたが、それはもう終わったらしく。鍾離が茶を机に配膳した時、ディルックは手帳を広げていた。元々は鍾離の添削事項をメモしていた筈だが、空いた時間を使って要点を別にまとめているようだ。さらさらと書き込んでいる。確かに双方かなり濃い時間だった自覚はある。書き漏れのないように、気になかった箇所も腰を据えて追加で連ねているように見受けられた。当たり障りのない言葉は使用せずに、入念な確認をしているのだろう。そうして、自分なりの解釈に落としこむ一文も追加していた。
そんな緊張感が続く最中の、一息。ようやく整理もついたようで、ディルックは芳醇な茶を口してここにきて初めて丸椅子の背もたれへ腰を付けたとも思う。
「改めてだが、今日は突然の訪問。しかも、急な依頼に対応して貰って感謝する」
「なに、俺の知識を引き出そうとしたディルック殿の手際の良さに共鳴しただけの事だ」
ディルックは、謙遜ありつつも思慮深くも目を見張る受け答えであった。一番の感銘は、鍾離の言葉全てを鵜呑みにはせずあくまで参考の一つとして取り入れる対応をした事だ。こちらが伝えた事項をただ受け入れるだけの存在は楽ではあるが、どうにも面白みに欠ける。ディルックは鍾離から得た知識を自分なりに選定し、今まで足りない部分を補おうとしていた。こちらが一枚上手であることを認めながらも、続く質問は探求心もあり鋭い。それに対して鍾離も気を抜かず言葉を返すという、互いに白熱する答弁が心地良かった。その様子には、まだこの素直な若者には知らない知識がたくさんあるという羨ましさも感じた。それは、何事も小慣れている感が出てしまう鍾離には、未曾有となってしまった出来事でもあった。
「やはり、このように鍾離殿を尋ねる輩は多いのか?」
「それなりにな。だが、講釈から説明すると結論を急ぐ者も多いから、面倒で断っている。無駄のない叡知を求めるならば、俺ではなく専門の機関を尋ねるべきだな」
「今回の僕ならば、公証人役場の窓口ということか」
「そうだ。少々杓子定規でお役所気質なのが玉に瑕だが、事前相談ならば意外と親身に対応はしてくれるぞ?公共施設だから支払うモラも規定通りだ」
「それでも僕は今回、鍾離殿に依頼して良かったと思っている」
「あれだけのモラを支払う価値があると思ってくれたのなら、幸いだが。正直、俺は手短に話を済ますのは得意ではない。時間を大切にする商人であるディルック殿なら、効率を求めても良かったのでは?」
鍾離が金銭の工面に少々難がある事も当然知り得ているだろうが、結局一度もそのような話は出なかった。それだけではない。長々とした講釈をこちらが口にしても、ディルックは嫌な顔一つせずに最後まで聞き入っていた。その上で、別側面からの解釈をぶつけては納得するという繰り返しもあった。敬意を払われる事は当然の事だが、しっかりと切り込みもしてくる。相応の対応にどこまでも相応しくあった。だがその為、随分と今日の日は落ちた。今日の昼の仕事の時間は、これで潰れてしまったようなものだ。鍾離としては火急の用があったわけではないが、ディルックはそうではなかろう。そもそもわざわざ璃月に足を運んでいる時点で相当だ。
「鍾離殿が博識である事は想定していたが、それ以上に主観も含めた講釈もあったので僕も勉強になった。ただの知識の塊ではない、人間味があるとは思っていなかったからな」
「ふっ、俺を人間…と賞するか。なるほど、なかなかに面白い着眼だな」
凡人として地に下り立った鍾離ではあったが、人々と目線を合わせようにも、数千年の経験から得たあらゆる事象に精通している知識は嫌でも常について回る。それは、神であった鍾離とディルックは直接出会っていないからこそ産みでた発想なのかもしれない。だが、この知識含めての鍾離だと思ってくれた。それも経験で手に入れた構成物の一つだからと。そのことが、ようやく一つの新しい出会いを感じた気がした―――
ずっとこの国の創造主として、璃月に注力していなければいけなかった。鍾離にとって璃月は分身の一つでもあり子どもでもあり、ありとあらゆる事項の中で最も優先するべき事だ。それが独り立ちした今、見守るだけと決めた。だから凡人となった今こそ、新しく向ける目がある必要をより実感したのだ。
「随分と長居をしてしまった。そろそろ僕は失礼する」
商人にしては、ゆっくりと茶を飲んでいたディルックではあったが、確かにもう十分な時間帯であった。それで終わりを告げる言葉が響く。手帳を仕舞い、広げた公正証書の原稿を片付け、最後に今回の報酬の対価として記載した小切手を鍾離に差し出した。
それを見た鍾離は、自身の口元に微かに指を置き、一考をする仕草を入れる。
「確かに、公正証書の添削に関しての報酬は受け取った。だが、まだ足りないものがある」
「何か…僕は失念をしていただろうか?」
「そうだ。まだ、この茶の代金を貰ってない」
鍾離が指示したのは、先ほどまでディルックが飲んでいた茶器であった。この部屋に常備してあるのだからこそ、茶器自体も指折りの名品であり、飲み干された茶も璃月の銘茶である。
「確かに、鍾離殿が手ずから入れた茶には相応しい価値があるな、いくらになる?」
もちろんお品書きなど、そもそもない言いがかりにも近い。しかし、こちらの無茶とも入れる要求にも面を食らわずにディルックは表情一つ変えずに対応した。
「1500モラだ」
ここに来て、鍾離は初めて具体的なモラの金額を述べた。茶の相場など元来、気にしたこともない。ただ前例がそれだったから習い、口にしただけであった。しかし、だからこそそれには金額以上に含む価値があるのだ。
金額を聞いた瞬間、さすがのディルックも初めてきょとんとした顔を見せてくれた気がする。年齢よりも若く感じる側面をようやく垣間見る事となった。仕事に向かうディルックの在り方は鍾離にとってもちろん好ましくあった。だが、丁寧に茶を飲んだりこういった表情も出来る人間である事も、ディルックを構成する一つとしてとても魅力的に感じた。
「そういえば、俺が支払うべきだった1500モラも未だ清算していなかったな。それと今回のディルックの殿の茶の代金は相殺しても良いが、どうする?」
はっきりと口にしたので、その金額が耳に入らなかったわけではなかろうが、しばらくディルックは押し黙ったままであった。だから鍾離はわざと選択肢を増やしてみる。これで終いにするかどうかの駆け引きを。こちらは方向性を示した。だから、今後を決めるのはディルックに委ねるので良い。そう思える程だった。
「………相殺の領収書を切るのは面倒だろう。それに、今の僕にも生憎1500モラの手持ちがない。この場は貸しとして貰えると助かる」
少額のモラは持ち歩かないと、かぶりを振る仕草を見せた。そうしてすべてを受け入れたディルックも、『次回』を承諾したこととなる。それは双方が、ほんの一拍だけ歩み寄った証拠でもあった。そこまではっきりとした表情ではなかったが、それでもディルックの頬が柔らかに感じたように思えた。
「そうか。では、後日。今度は俺がエンジェルズシェアに代金取立てに向かおう」
「それは………うちの酒場が気に入ってくれたのなら、幸いだ」
目を見張りながらもディルックは、了承をする言葉を出す。そこまでは想定していなかったのかもしれない。だが、一度でも受け入れたのならば鍾離とてもはや手加減などするつもりはない。
「次にエンジェルズシェアに行くときは、バーテンダーにはオーナーを指名させて貰うぞ」
「僕を…か」
「そうだ。そこで、煙霞繁葉の茶を一杯注文させて貰う。ディルック殿ならば事業承継を上手くこなし、変わらぬ茶葉の味を提供できると信じているからな」
「気が付いて…いたのか」
そもそもの発端。ディルックが持ってきた公正証書の内容は事業承継であった。その相手先は入念に伏せられていたが、鍾離があの日に飲んだ煙霞繁葉の茶葉の事業者だったのだ。璃月にてアカツキワイナリーが事業提携するほどに必要とする業者は、連想するに限られている。その中から、後継者が不足しており廃業の危機を迎えているとなると、自然と絞られる。だからこそ、鍾離からすれば公正証書の内容を確認した比較的早い段階で、この相手先が茶葉業者だと推測に到っていた。
指摘されたディルックもどこまで鍾離に突き止められるか、どこまでも態度を曖昧にしていた。わかってもわからなくとも良かったのかもしれないがそれでも、確固たる結論が頭の中にあるのならば、この場で言うべき方が最良と判断した。同じメニューを提供するには不可欠だと。もちろんこれがアカツキワイナリーの販路拡大に繋がる事はいうまでもないが、煙霞繁葉を選択して飲んだ鍾離にわざわざ持ちかけるという事にも意味があると感じた。こちらの対応を試したとするならば、どこまでが故意か全ては読み取れないが、心に深く刻む事項である事に間違いはないだろう。
「…鍾離殿は璃月を非常に大切にしている。だからこそ、煙霞繁葉の茶葉の事業者は璃月人が継ぐべきだとは思わなかったのか?」
「そうだな。昔の俺だったら、他国に璃月の伝統が流れるのは良しとしなかったかもしれない。だが、新しい風もそう悪いものではないと、ちょうど先ほど認識を改めたところだ」
「そうか。なら期待に沿えるよう、僕も努力しよう。鍾離殿の、来訪を楽しみに待つ事にする」
そう最後まで告げたディルックは、入り浸るように過ごしたこの場から立ち去った。
二人の次の契約は続く―――いや、終わるのだろうか?きっとそこで精算などされはしない。1500モラを建前に、信頼と信用が繰り返される。
両者の邂逅は好奇心をくすぐり、新たな知識の壺を満たす一因となる。共に同じ目線で先を見据えてみたい存在の、良好な関係を築く第一歩となった。
後日。エンジェルズシェアの一角に、ボトルキープとは違うコーナーに専用に置かれる茶葉が置かれるようになったのは、間もなくの事。
濃い目の茶が好きな、新たな取立人はカウンターに向かって言う。酒場で飲む茶も悪くない、と。
そもそも。一杯の茶の値打ちと意義は、契約をした当人同士が決めるものなのだから―――