attention!
タルディルがデート旅行をしようとする話。










「ねぇ、デートしようよ」
「………君は、何を言ってるんだ?」

久方ぶりの逢瀬の終わりの時間が差し迫って来た頃の一幕、思い立ったかのようなタルタリヤに発言に、ディルックは思わずジト目のまま素で返した。
それはあまりにも突然の思いつきにも思えて、最初こそは取り付く島もないとしか思えなかったが。

「こうやって二人きりの空間で過ごすのも、俺は好きだけど。たまには一緒に外の風景も見たいなって」
「それは無理だろう…」

タルタリヤの言い分を一先ずは理解した。
互いの立場的に大っぴらになど出来ぬ間柄。もしかしたらタルタリヤはさほど気にしないのかもしれないが、ディルック自身はそれを阻むだろう。いつかは周囲の人間にも明かせる日が来るかもしれないが、それは決して今ではない。
だからこそ二人の会合は、常に人知れぬ場所に限られた。室内密室………いや、野外でも訪れるのが基本人類に害を示す敵しかやってこないような劣悪な環境な場所だったこともあるが。それは多分タルタリヤが言うような、デートに相応しい場所ではない事だけはわかる。いわゆる世間一般的な場所を想定するに、即答出来るほど多少どころか多大な人目が存在しており、二人の間では不可能としか思えなかった。

「僕はモンド。君も璃月では、既に顔も名も知れている。どうするつもりだ?」
「そこは俺に任せてよ。きっと後悔はさせないから。えーと、そうだ。カレンダーっと」
「これか」
「ありがとう。じゃあ、この日を空けといてね」

手渡したカレンダーをざっくりとめくって、トントンと指先でタルタリヤは日付を指定してきた。いわゆる国民の休日でもないでもなんともないその日に何の意味が。

「そんな急に言われても、仕事の予定が…」
「別に今日明日って日なわけじゃないし、忙しいオーナー様は日程調整も出来ない程度の手腕なのかな?」
「そんなわけないだろう」
「オーナーである君が働き尽くめじゃ、従業員も気を使って休めないよ?アカツキワイナリーの福利厚生の良さは評判だって聞いていたんだけどね」
「………仕方ないな。一考しよう」

そこまで露骨に言われれば、観念をするしかない。確かにタルタリヤのいう事に一理ある事も事実だと思ったからこその、快諾の言葉だったが。

「やった。じゃあ、この日から一週間ヨロシクね!楽しみだ」
「一週間!?」





◇ ◇ ◇





渋りながらもあくまで提案という形でワイナリーのメイド長であるアデリンに長期休暇を伝えたら、あのディルック様がようやくお休みを取るお気持ちに!と、全力で驚かれた。尋常ではなく感激された。最後には、少し泣かれたような気もする。
多少ワーカーホリックな自覚を自分でも持っていたが、そこまで騒ぐほどかと。軽い雑談程度の話題だったのに、瞬く間に他の従業員たちにもその事項は共有され、あれよあれよと確定事項となってしまった。仕事のスケジュールはエルザーに管理して貰っている部分もあったので、隙間なく整えられた。
一応駄目元で確認するがタルタリヤ相手には一週間は無理だと、手紙を飛ばすつもりだった筈が、逆に後には引けなくなってしまって。そこだけは少し頭を抱えた。

かくして、ディルックは人生初めての一週間の休暇を胸に、件の待ち合わせ場所にやってきた。
もう少し足を延ばせば、稀代の名港である璃月港へ立ち入れるという北側の地。時間としては、あまり目立たないためということで深夜に近い。天気はときどき曇り程度なので、璃月独特の灯りが仄かに周囲を照らしていた。人の立ち寄らない灯台の下というのは、確かに人目につかない場所ではあるが、一週間などという長期間に一体何をするのかと全く詳しい事を告げないタルタリヤを疑問視するしかなかった。

「お待たせ。さすが時間ピッタリだね」
「いい加減、一週間もどうするのか話して貰おうか」
「うーん。それは実際見た方が早いかな」

ほらっと、タルタリヤが視線誘導した先を見据えると、二人が居る桟橋に向かってやってくる一層の舟があった。4、5人は軽く乗れる程度の大きさではあったがそれ以上に、静かにゆっくり近づいてくる舟には、地味な装いなのに上部構造物が入母屋造をしており、木造の屋形のように覆い隠されていた。こうやって傍目からでは、その中を伺い知ることはできない。益々怪しい。
一瞬ディルックは警戒の様子を見せたが、大丈夫だとタルタリヤが声を出したので、半歩後ろに下がり様子を見守る事とした。

「お迎えにあがりました。お手数ですが、ご確認事項の提示をお願いします」

別途舟の中から出てきた人物はおらず、ここまで漕いできた深い目差し帽を被った船頭が地味な井出立ち一人、タルタリヤの前に降り立ち、恭しいいでたちで頭を下げた。

「ピア番号と、あとバウチャーはこれで間違いないかな?」
「…ご確認が完了致しました。どうぞご乗船下さい」

ディルックには少々聞きなれない音であるピア番号を告げ、チケットと思しき物をタルタリヤが見せるとすんなりと、船頭は舟へ導いた。
タルタリヤが当然顔で乗り込むので、ディルックもそのまま無言で連れ立って後を追う。扉を開けて中に入ったが、半段下がった箇所となった中央に鎮座する舟の中には誰もいなかった。遊覧するべき舟ならば、雨風凌ぐことは度外視にして視界を遮るような構造にはしないだろう。明らかに人目から隠れる造りをしているのは珍しい。
二人が中で座ったことを確認すると、直ぐに船頭が舟を進める。まだ内海であるので、この程度の小舟だろうと揺れはほとんどない。

「こんな小さな舟でどこに行くつもりだ?」
「大丈夫、直ぐ目的地に着くから」
「怪しさしかないな」
「そこまで言うなら、ちょっとだけ外を覗いてみようか」

中腰になったタルタリヤが手を伸ばすと、顔一つ程度の隙間しか空かない木造の小窓が開く。
訝しみながら、小窓から景色を覗く形となる。まだ波さえさざめかない平坦な海があった。

「少しずつ陸地から離れているな。璃月港のどこかに舟で入るんじゃないのか?
「璃月港でデートじゃ、人目に付きすぎるでしょ。だから、目的地はあそこ」
「………貨物船?それにしても随分と大きいような」

どこまでも続く広大な海ではあったが、確かにタルタリヤが示した先には投錨をしている大型船舶があった。
璃月港は、テイワット随一の湾に存在する港だ。その投錨地および港湾施設は巨大で広範。船の行き来など頻繁ではあったが、それにしても他に類を見ない大きさであった。あれでは、通常のギャングウェイでは大きさが合わない。だからこそ港に近づけないのかもしれない。

「お客様、ご歓談中のところ失礼します。これから乗船の為の準備を行います。しばしお待ちください」

舟はそのまま真っすぐ、その大型船舶に近づく。陸の見えない場所へとだ。
こちらの舟とあちらを繋ぐ乗船や下船の時に使われる取り付け式のタラップが別途用意されて、多少程度の揺れがあったがさして気にならない程度に、淀みなく。船同士の接続を終え全ての計らいを終えると、ゆっくりと外へ繋がる扉が開いた。まるで密航でもするような厳重な佇まいだが、エンバークする。
そうして二人は舷門にたどり着いたことで階段式のタラップを登り、満を期して大型船舶へ乗り込むこととなったのだった。





「………これは、貨物船ではないようだな」
「驚いた?この船は、客船なんだ。それもお忍び旅専用のね」

その大型船舶へと一歩足を踏み入れると中に入って広がっていたのは、一等のラグジュアリー船だった。
先ほどの場所がクルーズターミナルとは思えないほどだったのでその落差の激しさは、まさに豪華客船に相応しい。華やかで煌びやかな、とても船内とは思えない空間は、外からの見た目とは大違いであった。
メインロビーの吹き抜け頭上には当然のように華麗なシャンデリアが輝いていて、下から噴水がタイミングよく吹き上がる。モンドでさえ滅多にお目にかかれないような装飾がごろごろしており、その中でも特徴的なのは、背面の一面に配置された青碧と白を基調にしたステンドグラスだ。船内だからこそ人口の光で照らされている筈だが、あまりにも存在感があるせいか逆に冷たくも感じる。それが、定番のあずき色と金色の暖かい色調でしなやかに装飾された床の絨毯と対比するように相まって非日常を作り出していた。
そうしてオブザベーションを意味するラウンジに、二人は降り立つこととなる。

「合法な船なんだろうな?」
「それはもちろん。出入国に関して、港則法も港湾法も正規の手続きをしてるよ。検疫法や関税法も七国船舶ルールに沿ってる。ただ、民間人にはあまり知られないように配慮しているだけだよ」

乗船と同時に船頭人から渡されたのは、クルーズカードという乗船証明だった。
当該クルーズの乗客であることを証明するカードで、身分証明書も兼ねキャビンのカードキーや登録書などを兼ねた万能カードらしい。基本的に乗船時に発行され、下船の時はこのカードで全てのモラを精算するらしい。キャッシュレス生活。また、寄港地で乗船や下船するときは提示を求められ、セキュリティ確保にも役立っているとの事だ。確かに万全を期している。



「クライオツァリナ号へ、ようこそ」

客船に乗り込りこんだ先に待ち受けていた案内人であるクルーズディレクターから出た言葉が、偽りのない歓迎を示唆する。
Cryo Tsaritsa (氷の女皇)の名を耳にし、ディルックはピクリと反応した。やはりここは、スネージナヤの船舶か。節々に垣間見られる独特の技法は、納得の意匠ではあった。細部の装飾やインテリアや家具も一貫した主張をもつようにデザインで、冷たく着色したタイルやステンドグラスを多用されている。だからこそ腑に落ちない点が一つあった。

「お客様。大変申し訳ございませんが、当船ではキャビン以外の場所では、身分素性を隠して頂く事をお願いしております」
「隠す?どうやって…」
「あーそれはね。これこれ」

奇怪な規則を口にしたクルーズディレクターの申し出の対処にディルックが頭を捻っていると、横から直ぐに解釈の言葉が投げかけられる。
己を示唆したタルタリヤの方を見ると、普段は頭の横に備え付けている仮面を、くるりと顔の前面に持ってきていた。明るい色の髪色はそのままに、時に人懐っこい表情をするその顔が一面に覆われた。そのまま仮面舞踏会にでも参加するくらいの気概に見える。

「少し、わざとらしくないか?ファデュイが堂々としすぎている」
「大丈夫大丈夫。ジョークグッズとして割と人気だから。で、君はどうする?仮面は、もちろん船内で別途購入することも可能だけど」

はぁとため息を一つ。少しだけこめかみに手をやったディルックだが、この状況で深く考えても仕方ない。
たとえ休暇だろうが、それを持ち歩くことは標準装備すぎるので、流れるようにいつもの仮面を取り出し装着した。視野が狭くなると視界の邪魔になるので、ついでに軽く髪を上にまとめ上げる。

「これでいいか」
「うんうん。ファデュイ執行官とモンド闇夜の英雄ペアっていう、なかなかに魅力のある組み合わせだ。これはきっと人気が出るよ」
「僕はあまり目立ちたくないんだが」
「もっと奇抜な仮面をつけている人もいるから平気だよ。わかる人にはわかる感じがいいんだ」

これくらいでいいとはっちゃけているタルタリヤは、秘密を楽しむようにどこまでも興が乗っているようだった。
世間的にはまるであり得ない組み合わせだからな、確かに。まさか、この姿でタルタリヤの隣に堂々と並び立つことがあるとは思っていなかったとはいえ。

「それでは、まずキャビンにご案内させて頂きます」

仮面をつけセキュリティ確保の為に所持武器を預けて、船内を闊歩する形相が整ったところで、控えめな声がかかった。
折角だから楽しもうと、堂々と人前でタルタリヤはディルックの手を引いてくる。いつもだったら振り払ったかもしれないが、それこそ仮面という一枚のヴェールが存在しているからこそ、成すがままに足を進めた。
最初に通されたラウンジは、壮大な階段へ続くグランドエントランスとなっていた。クルー一同の一列に並んでのお出迎えが成されると、ここがただの客船でないことの証でもある。木の螺旋階段で造られた3階建てのタワーを登り、適度な速度で歩みを進めるとクルーズディレクターが身振り手振りを踏まえて、船内の説明をしてくれる。
レストランやバーはもちろんフィットネスクラブ、スパ、美容室、ショップ、劇場、カジノなどの設備を備え、サービス要員や医師と看護師などが万全を期して対応する浮かぶ豪華ホテルリゾートがコンセプトとしているようだ。ラグジュアリー船の中でも、船型を比較的小規模に抑え、乗客に対する乗組員比率を更に高くし、一人一人によりきめ細かいサービスを提供することに重きを置いているとの事。乗組員一人あたりの乗客定員は約1.5人。
極めつけは、グランドスイート以上に宿泊している乗船客しか利用することのできない高級ラウンジだが、当然自分たちは入室する資格があるとのお墨付き。もちろん夜には特別メニューもあるそうだ。

「船での一番のお楽しみ。もちろん当船にも、カジノがございます。是非とも、スリル満点のブラックジャックに挑んで下さい」

キャビンへ向かう道中だというので意気揚々と一番の目玉として案内されたのは、流麗に設えられた豪華絢爛なカジノルームだった。まだ、始まりには早い時間だったらしく、クルーが準備している様子が伺える。温かみがあり洗練された中にもわくわくするような楽しさが感じられるように、スタッフはフレンドリーにもちろん務めてはいるのだろうが。プレイヤーにも、見物人にも満喫できるように高揚した雰囲気の中、あるいはカクテルを片手に見物するのも楽しいように備えている。
モンドの民も賭け事は好んでいるものだが、全くの無秩序というわけではないので西風騎士団の名の元、ここまで堂々としたカジノは禁止されている。あくまで旅の中のお遊びの場として存在しているのだろうが、スネージナヤでは合法だったかもしれない。ブラックジャックやルーレット、ポーカー、クラップテーブル、スロットマシンで運試しという体だが、モラの代わりとなる対価のコインを賭けているわけで楽しい事ばかりではないだろう。

「あまり感心出来ないな」
「心配しなくても大丈夫だよ。ほらっ、乗船の時にクルーズカードを貰っただろ?これでモラを清算するから、無理な額は入れられないし」
「北国銀行の預金残高と連動していると聞いたが、君のカードだと無尽蔵なんじゃないか?」
「さあ、どうだろう。制限なんてかかったことないから、わからないな。
無理に賭け事をしなくても、ほらあっちのカードルームならパーティションによりスペースの分割も出来るし。ポーカーテーブルで俺と腕を競ったりするのも楽しいよ、きっと」
「随分と自信満々だな。腕に覚えがあるのか?」
「駆け引きに関しては、俺も君も得意分野だろ。一度試してみたかったんだ」
「そうだな。勝負を申し込まれて断る理由はない」

モラを賭ける必要性が皆無な賭博も相手次第で、タルタリヤとディルックの間だからこそ成り立つ様子だった。
別にカジノを嫌っているわけではないが、モンドでそこまでの自由を許したら歯止めが効かないことはわかっているし。酒が入るエンジェルスシェアでは、オーナーであるディルックの方針で露骨なモラをやり取りする賭け事は禁止している。だからこそ開放的な気持ちとなる旅先のひと時こそ貴重なものだと感じた部分もあった。

「お客様。残念ながら、このスタイリッシュなカジノは、通過する領土の制限のない航海中は毎日営業しますが、璃月港内では少々規制がございます。本格的なオープンが確定いたしましたら、別途ご案内させて頂きます」

クルーズディレクターからの案内で一旦、この場での二人の火花は収束を迎えることになった。
あくまで目的はキャビンに向かう道中なので、まだまだ直接説明出来ていない素晴らしい場所はあるとの事だったが、一先ず目的地がもうすぐだとの事で。景色は圧巻であろう、ようやくスカイデッキの下の階層に位置する船の名を冠したクライオツァリナのデッキエリアに到達した。





「お待たせ致しました。こちらのキャビンこそ、当船が誇るロイヤルスイートでございます」

最上級のもてなしを示されながら、密閉度の高い扉が厳かに開かれる。
海に浮かぶ贅沢空間は、船内に踏み入れた瞬間からそうではあったが、客室内はそれ以上だった。リビング、ベッドルーム、バスルームがそれぞれ独立した部屋となっていた。
クルーズディレクターが開閉ボタンを押すと、部屋の背面に大きく取られた窓にかけられたカーテンがゆっくりと開いた。カスタムメイドのトレッセを備えた、洋上で最も広いプライベートバルコニーの先へ広がるのは一面の海の先だった。
リビングルームにはゆっくりと食事が楽しめる広いダイニングテーブルが備え付けられ、海に面したバスルームでは洋上から朝日を眺めながらのバスタイムを満喫できる角度に、浴槽が調整されている。
今は夜なので、広い二間続きのバルコニーでは、暗い海の中でも星空がさんさんと降り注いでいる。昼間ならば青い海を眺め、潮風を感じながら波の音も間近に聞こえる食事を至福のひと時として味わえるだろう。バルコニーに座って刻々と変化する眺望と新鮮な潮風を楽しみながら、風が穏やかな日は少しだけ窓を開けて、波の音をBGMに部屋でまどろむ、などという贅沢な過ごし方も可能。双眼鏡もあるので、夕方ならサンセットも期待できる。時間帯や場所によって色々と違う景色を魅せてくれる。まさに究極の空間で、プライベートタイムを過ごす部屋となっていた。

「後ほど、ウェルカムドリンクをスイート専用バトラーがお持ち致します。お時間のある際にピローメニューをお決め頂ければ幸いです。それでは、わたくしはこれにて失礼致します」

深く整った一礼をしたクルーズディレクターが礼儀正しく静かに、その場を辞した。

「随分と仰々しいな」
「貴族の君にとっては、別に珍しい事じゃないだろ?」
「流石の僕も、船上でここまでのもてなしを受けたことはないさ」

目まぐるしいと思う部分もあり、思わず出た言葉だった。
ディルックとて、七国を旅したことはあるが、船に乗るのはさすがにタルタリヤの方が慣れている様子でもある。

「前にスネージナヤに行った時は?」
「あの時は、民間船を乗り継いだだけだった」
「君って生まれも育ちも貴族なのに、庶民的な行動も平気でするよね」
「ワイナリーの客は貴族ばかりではないからな」

そう言いながら、ふと側面に備え付けられた小型のワインセラーに視界が移る。
もちろん船内のレストランやルームサービスでも別途取り寄せは可能だろうが、わざわざ温度管理の難しいキャビンに置いておく銘柄が気になって、自然と近づく。

「こんな時にも職業病?」
「君だって、珍しい得物や強敵が居たら自然と足が伸びるだろ」
「それは、そうだね」

タルタリヤも小笑いしながら、備え付けられたミニバーカウンターに興味が沸いたようだった。本来ならば一人で立ち入る程度のスペースだが、こちらに寄ってきても全く気にしていない。

「そういえば。ウェルカムドリンクはメニューから選ぶタイプじゃないのか?」
「ああ、予め頼んでおいたよ。君はノンアルがいいでしょ」
「それは助かる。慣れない船に酔う可能性もあるからな。君は何にしたんだ」
「俺も同じノンアルだよ」
「別に僕に気を使わなくてもいい。今から変更の連絡を入れるのでも間に合うだろ?」

飲酒の度数に対する年齢制限が甘い祖国のおかげで、タルタリヤは年相応以上に酒が強い。最初にモンドの酒を飲んだ時は、薄くて飲んだ気がしないと言っていたくらいだ。それをディルックが根気よく酒の味わいの深さを解説したくらいだ。今では体質的に強い酒も好んでいるし、アルコール成分の低い酒も味が分かるようになったのだ。もちろん遠慮なんかせずに、プライベートでアルコールが選択できるならばそちらを選んでいる事はディルックも重々承知だった。

「お酒が飲みたくなったら。このバーで君が、深い海に向かって俺の為だけの一杯を作ってくれるからね」

トントンと、バーカウンターに示しながら肘を立ててにっこり笑って示す。そういう算段か。

「…客がこの場には一人しかいないから仕方ないな。希望があれば聞こう」
「ははっ。エンジェルスシェアでも、レアなバーテンダーを独り占めできるなんて最高だね」

そうとなれば、この場にある蒸留酒のラインナップだけではシェイカーなどは一通りそろってはいるが、少し心もとない。インルームダイニングサービスでも頼もうかと、ドリンクメニューに手をかけようとしたところだった。
今度は控えめな来訪のノックが耳に入る。



コン コン コン

「失礼致します。お客様、お部屋に不備などはございませんでしょうか?
わたくしは、こちらのロイヤルスイートを担当させて頂きますパーソナルバトラーでございます。ウェルカムドリンクをお持ちしました」

折り目正しく丁重な面持ちで入室した初老の男性は、厚手ウールのダブル前で腰丈のオーバーコートに伝統の白い手袋を嵌め、礼儀正しく穏やかな笑顔を携えた様子で頭を下げていた。

「ありがとう。ちょうど良かった。少し頼みたいものがある」
「かしこまりました」

軽やかにウェルカムドリンクを受け取りつつ、次の項目へ。
ドリンクメニューには記載なかったが、ディルックがいくつかのベース酒の名をあげると、すぐさま記憶したらしくメモ一つとらずにバトラーは品目を丁寧に復唱した。これで問題なく調達は出来るだろう。

「すぐさま、ご準備致します。他にお部屋に気になる点はございませんか?」

そこまで言われて、一応もう一度キャビンをぐるりと見渡す。
長旅なら、普通は船のポーターに大きい荷物は預けるので荷解き中の筈だが、二人は小さなタッグ付のバックさえ片手で担いでいなかったので、室内にはまだ何も手を付けていない。元々特別な準備をしなくとも船上のホテルなので、この部屋には何も必要がないという理由がある。
ウォークインクローゼット3つ、セーフティボックス2つあるが、今回は活躍の機会はないだろう。全身鏡がいくつもあるのは必需品として便利だろうが、これは船上という閉鎖空間を緩和するための措置だろう。色合いの美しい大理石をアクセントにしたバスルームも、十分な広さがある。キャビン自慢のアート作品が並ぶモダンなスペースも意匠のインテリアだけによるものではなく、優美な雰囲気の隠れ家的でもあった。
ほのかな照明に照らされた凝ったインテリアや囲まれて、目的地へ早く移動するためではなく、目的地まで行く過程を楽しむのが目的となった非常に豪華な部屋で、他ではできない贅沢な旅を文字通り十分演出している。

「特に問題はないよ」
「ありがとうございます。お好みのセレクションスイート用フレグランス、セレクションカナッペのサービス、
船内日刊新聞のお届けなども、承っております。ご入用の際は、是非お申しつけ下さい。
それでは、わたくしは一旦失礼させて頂きます」

いつのまにか、ゆったりとした快適なレザー製肘掛けアームチェアに腰かけ、ウェルカムドリンクを口にし、片手間でクルーズのしおりに目を通していたタルタリヤがさらりと切り返す。
そうして確認事項が済むとそれ以上の出過ぎた真似はせず、バトラーは入室したときの巻き戻しのように慇懃に退室をした。



「ふぅ…これで、しばらくは二人でゆっくり出来るかな?」
「時間は、まだたくさんあるだろ」
「そうだけど… 君は素直に最初からベッドに来てはくれなさそうだから」

ゆったりスペースのリビングエリアの先に2つの広々とした揃えた卓越したスイートベッドルームがあるが、おそらく一つしか使わないだろう。清潔なことは当然な贅沢なベッドリネンで、過剰にも成り得るサービスがありそうなので1日に2回はハウスキーピングが入りそうだ。
室内でのんびり時間を過ごすならば、波音を聞きながら久々にじっくりと読書に没頭したり、日中は思い思いの時間を何もせず、海を眺めながらうたたむという贅沢な時間の使い方も出来る。
早々に床に就くことは部屋で二人きりの大きな選択肢の一つではあるが、ディルックにとってはまどろむにはあまりにも気が早すぎた。今までは会うたびに時間がないから身体を重ねるのが当然ではあったが、今回は少々事情が違うのもあって。

「今は、ルームサービスを頼んでいる」
「うん」
「キャビンはともかく、船内でまだ確認していない箇所がある」
「そうだね。………じゃあ、手早く行ってみようか」
「誰かに案内を頼もうか?」
「いや、いい。船内マップがあるだろうから、頭に入れる」
「じゃあ、俺が案内をするよ。この船、乗るのは初めてじゃないんだ」
「ファデュイの公子様は、この船で璃月に来たのか?」
「まさか。仕事の接待で使ったことがあるだけだよ。さあ、行こう」

反動をつけてアームチェアから立ち上がったタルタリヤは室外に出るために、おなじみの仮面を付け直す。優雅にディルックに対して再び手を差し出し、軽く引っ張る動作までするほどで。実に軽やかな足取りだった。





二人のいるロイヤルスイートがあるクライオツァリナデッキエリアは廊下である通路も広く切り取られており、人の往来は快適だ。ところどころに備え付けられている眺望を得るための窓のおかけで、圧迫感も少ない。
タルタリヤに先導される形となって引っ張られたディルックの右手ではあったが、いつの間にかがっちりと握られての恋人つなぎとなっていた。それに気が付いた時、若干指先の力を抜いて元に戻そうとしたのだが、あちらはそんな気はまるでないらしく仕方ない苦言の言葉となる。

「人前で堂々と、手を繋ぐのはどうかと思うが…」
「せっかく仮面付けてるんだし、別に問題ないって」
「しかし…」
「それに人前って言っても、さっきからキャビン・ボーイとしかすれ違ってないでしょ」

さすがのクルーたちも、恭しく客が横を通ろうとすると横切らないように配慮はするが、こちらを無遠慮に見ることもなく、タルタリヤとディルックが親密でも気にする素振りさえ見せない。本心は知らないが、とりあえず万全の教育が生き渡っている。

「そういえば、他の客は?」
「さすがの俺も船の貸し切りなんてしてないよ。ただ、ロイヤルスイートだから優先チェックインしている関係で、まだあんまり他の客は乗船してないみたい」

調子にのったタルタリヤは余裕の表情と共に、より指先まで深く絡めようとする。
キャビンのベッドで、早々に相手をしなかったことを根に持っているのかもしれない。普段は大手をふるって人前に出られない関係だからこそ、見せつけたいのか。精神年齢は十分高い筈なのに、たまにこういう年相応な悪戯を働くのが好きなので、仕方ない。こういう機会くらいは好きにさせてやる気概ぐらいディルックにもあった。
そんなこんなで談笑しながら、タルタリヤにオリエンテーションをされる形となった。

最初に仮面も購入できるとタルタリヤが言っていた販売店は、一角がショッピングエリアのモールとなっていた。
デザイナーズブランドの洋服、一流のハンドバッグ、上質なフレグランス、高級ジュエリーなど幅広いアイテムが用意されなどがゆったりと眺められるようになっている。それは自分自身のためのお買い物も友人や家族へのお土産としても充実した楽しいショッピングの提供は、船上ならではの免税店であることも強みの一つだった。
中でも、船内必須の仮面をはじめとしたフォーマルウェアを中心に販売している店は煌びやかで、これは船上が日中と夜で異なるドレスコードを必要としているからであろう。カジュアル、セミフォーマル(インフォーマル)、フォーマルと別れているが、パーティーに参加するならばドレスアップして一定以上の服装である事を求められるからこそ、どれも相応しい品々が陳列されていた。
そのままつづけさまに、豊かな蔵書と心身に快適な環境を提供する図書館・見通しの良い階段状に上質な座席を配したコンステレーションシアター・スパ体験やヒーリング施術で健康を促進できるフィットネスなど、目まぐるしいほどに様々な場所へと立ち寄った。
出航前なので本格的に営業していないエリアもあったが、それでもこのクライオツァリナ号の絢爛華麗の一部さえも十分に知りゆく事が出来た。



「簡単だけど、ざっとこんな感じかな」
「確かに、想像より色々な施設があるな」
「さすがにキャビンの数の方が多いけどね。船旅を飽きさせないようにするレクレーションは他にもあるよ」

後から考えれば、船内デートをするには広大すぎるほどだった。
航海中は、船内のイベントが非常に多彩なようで。ダーツはもちろんチェス教室、専属マジシャンによるマジックショー、操舵室見学会、大道芸人が出現しパフォーマンスを披露するなども数多の予定されているらしい。望めば、船に常駐するプロのカメラマンからの撮影も叶うので、乗船した喜びをどこまでも実感させてくれる。

「歩き疲れてない?さっき部屋でウェルカムドリンク飲んだだけだし、そこのレストランで休憩していこうか」
「そうだな。別に疲れてはいないが、ここから部屋に戻るのもそれなりに時間がかかりそうだ」

並び立って色々と歩き回ると、随分と時間が過ぎた。タルタリヤの提案に同意したディルックは、船外の景色も眺める事が出来るシグネチャーレストランに足を運ぶ事となった。
気軽に立ち寄れる上品さに努めているこの場所は、ブルーとシルバーでエレガントにデザインされ、美しいテーブルウェアを使用した贅沢なレストランで、星々の光を浴びて美しく洗練された雰囲気を満喫できる空間だ。二人が通された席は窓際なので無理だが、上質なウィングバックチェアはつややかな木材に囲まれたアースカラーのファブリックが美しいデザインで、ギャレーで働くシェフの技を見ることもできる解放感もくつろいだエレガンスさえ可能だった。

「いらっしゃいませ。メニューはこちらとなります。今の時間帯ではご提供しておりませんが、是非ディナーメニューも目を通して頂ければ幸いです」

軽く飲み物だけと立ち入った場ではあったが、手渡されたのでせっかくなので今後の参考にと、ディルックは分厚いドリンクメニュー以外にも手をかけ目を通すこととなる。
もちろん現代的なスネージナヤ料理を提供することがメインのようだが、今はディナータイムとは外れている為、カフェ感覚で利用することもできるらしい。給仕長が常にお客様へのサービスに気を配り、最上級のワインと共に完璧な食事を堪能出来る事を約束してくれるだろう。ディナーのメニューも確認すること、スネージナヤ伝統料理以外にも、フォンテーヌ料理をベースにした幅広い選りすぐりのメニューがあるようで、風味豊かなベジタリアン料理や宗教制限のかかるコーシャー料理など、栄養価の高い料理を用意することも可能なようだ。これならば、自慢のフラッグシップレストランとして満足行く結果が得られるだろう。広々としたスペースに心地よい雰囲気の漂う中で、寄港する国の料理を中心に、伝統的さまざまな土地の名物料理を楽しむことも出来る。定番料理をグルメな領域に高めることに注力しており、行き届いたサービスで提供する隠れた宝石のような空間だった。

「この時期に、グリューワイン?」
「ああ、祖国だと一年中ラインナップに入ってるね。寒いから、温かいワインが好まれる事が多いんだ」
「うちの店だと、期間限定だな」
「風物詩なら、それはそれでいいんじゃない?」
「温まりたいと思っている割に、ああいうのが好きなんだな。君の国は」

チラリとレストラン中央部へ視線をやれば、巨大なアイスのオブジェが登場している。
もしかしたら溶けないように氷元素で特別に加工しているのかもしれないが、それでも深々と伝わる冷たさは感じるあまりにも見事なモデルシップであった。

「雪だるまとか、大人になるとわざわざ作らなくなるだろ?遊び心だよ」
「遊びか。確かにこの船には満載されているようだな」
「どう?君が気になるような場所はあった?」
「そうだな…中には入れなかったから、コノワスールクラブが少し」
「確かにあそこなら、稀少なヴィンテージコニャックや酒精強化ワインもあるからね。君好みだ」
「プレミアムシガーもあるだろ。君、葉巻は嗜むのか?」
「仕事の接待でなら何でもやるけど、いくら上質な葉巻を用意されても自分から好むことはないと思うよ」

ディルック自身も葉巻の良さはあまり理解していないので、そうかと素っ気なく返して、それでこの場でこの会話は打ち切りかと思った。
しかし、こちらの肩に手を伸ばした横に座るタルタリヤがドリンクメニューを開きながら、ディルックに近づく。何かオススメしたいものでもあるのかと、顔を向けると…
瞬く間に、柔らかい唇がこちらに重ねられた。あまりにも突然すぎる自体に文句を言おうと口を開こうとした瞬間に、隙間から舌を一瞬差し込まれた。

「なっ………!…にを」
「心配しなくても、俺たちはメニューを見ていただけだから大丈夫だよ」

確かにタルタリヤによって、分厚いドリンクメニューを二人の顔の前に遮られたので、給仕や他の客からは見えない角度となっていた。死角となるのは、どこまでも広がる海しか見えない窓の外くらいであった。いくらポートホールは小さいとはいえ、ここは密室ではない。スリル含めてやたら触りたがる事は旅の解放感である程度は許容していたが、唐突すぎて流石のディルックも狼狽える様子を隠せなかった。若干フォーマルに近い場所でなかったら、反射で手が出ていたかもしれないほどの衝撃。

「…突然すぎる」
「別に急な事じゃないでしょ。ただ、君が嫌だっただろうから直ぐに謝ろうかと思って」
「こんなところでするのは嫌だ」
「そうじゃなくて、前。一度、仕事の接待後に葉巻を口にした後、君にキスしたことがあったから。その謝罪」

ギクリと一瞬動作したつもりはなかったが、即答できない沈黙がその答えとなってしまったかもしれない。
別に祖国が違う事もあるから、様々な文化があることは理解している。ただディルックが、ワイナリーを経営している関係で人より味覚に敏感で酒は別としても、風味や味が独特な嗜好品を無理に嗜もうとしないだけだ。それをタルタリヤに強要するつもりはない。

「もう仕事の接待でも、葉巻は口にしないようにするよ」
「別に謝らなくても…」
「俺は、君が嫌いだと思う事が知れて嬉しいんだよ?だから今後も何かあったら教えて欲しいな」

白いテーブルクロスの下、タルタリヤはディルックの手を繋いでいた。本来あるべき椅子の位置から随分と二人の距離が近い事、もしかしたら給仕はとっくに気が付いているかもしれない。だが、ディルックはその手を振り払う事が出来ない。
確かにタルタリヤが葉巻をどう感じているのか、それを確認するために振った話題で会ったことも事実だったから。だから返事は返さずに、ディルックはただテーブル下の手をぎゅっと握り返した。それだけでタルタリヤはにこにことご満悦のようであった。飲食のマナーの為に外した手袋ではない素肌を楽しむように、指の隙間をするすると肌滑りを弄び楽しんでいる。

「…今日の君は、少し調子に乗っているな」
「こうやって外で、堂々と俺の自由にさせている君が貴重だからね」
「っ、給仕が来る。いい加減に………」

いつの間にかディルックに太ももへと移動してきたタルタリヤの手に、流石に苦言の一つを投げたところだった。
瞬間―――
この大型客船で初めてマトモな船の揺れを感じて、動作が明らかにグラついた。



「何だ?」
「揺れたね」

ディルックとて、今まで船には何度も乗っている。さすがにここまでの大型船舶ではないとはいえ、天候の悪い日や操舵技術に問題がある船など大小さまざま。別にそこまで船酔いをするタイプではないのでさして気にしないが、この揺れはあまりにも唐突過ぎた。この規模の船舶なら、フィンスタビライザーというチップ横揺れ減揺装置が備え付けられている筈で、いくら揺れやすい上層階のレストランにいるとはいえ、不自然過ぎた。揺れが波とは思えぬ不定期に体感される。

「出航時間なのか?」
「まだまだ早すぎるよ。それに、セイルアウェイパーティーにしても騒がしすぎる」

用意されている船内で開催されるプログラムを見たところ、確かにプロムナードデッキでは開催される予定のバンドが生演奏するという出航ウェルカムパーティーは、船長主催の歓迎パーティーの筈だ。船によってスタイルは様々な筈だが、ラグジュアリークラスの船ではドリンクと軽食が振る舞われたり陽気な音楽とダンスで雰囲気を盛り上げたりと、船の雰囲気を知る良い機会なので、足を運ぶ人も多い。
乗客は、ハネムーンやダイヤモンド婚式などの結婚記念アニバーサリーを迎える夫婦が多い関係上、年齢層が概ね高い。不用意にはしゃぐような人種ではない筈だった。

「お客様にお知らせ致します。申し訳ありませんが、しばらくこの場でお待ちくださいますよう、お願い申し上げます」

明らかにオフィサーと思われる高級船員が丁寧にレストラン内の人々にアナウンスをしたところで、タルタリヤとディルックは言葉に反して、さっと立ち上がった。そのまま小股走りでレストラン内を横断すると、立ち止まるように給仕の一人に声をかけられたが、こちらが物怖じしない様子だったせいかそれ以上、憚られることはなかった。
このシグネチャーレストランは上層階にあるが、立ち並ぶキャビンにも近いので船内にある事に変わりはない。ここにいたままでは状況が掴めないと判断した二人は、颯爽とデッキへ向かう事の出来るクルー通用口へと駆け足で向かった。





「これは…」
「あー、襲撃を受けているね」

夜の海の中、蛍のように点々とした灯りがいくつか見える。宵闇の夜目に慣れてくると、その全貌は早々に明らかとなった。
徒党を組んでいる柄の悪そうな宝盗団が海賊よろしく意気揚々と、こちらの船に火薬を込めたアンカーを打ち込んでいる。波独特の横揺れだけではなく、ピッチングまであったのはこれが原因か。相手はクライオツァリナ号の規模からすると小舟の小舟程度にすぎない遠洋漁船なのだが、何しろこちらは大きいだけのただのラグジュアリー船である。武装船隊南十字の死兆星号とは真逆の無力さに、成すすべがないようだった。

「おうおうおう…ようやく金持ってそうな客がいるじゃねーか」
「貨物船に偽造しているって情報は、本当だったんだな。やったぜ、お頭!」
「キザな仮面なんてつけて、全く…金持ちっていうのはわからないな」

強くなる揺れを止める為に、クライオツァリナ号はもう一つのアンカーを下ろして停泊する為に錨泊をしたが、侵入者を防ぎきる事ははやりできなかったようだ。
船尾独特の揺れと共にぐらつきながらも不穏な影と共に海風になびく心地よさの合間に、豪快で低俗不快な野郎どもの声が、タルタリヤとディルックに無遠慮にかかる。

「どうする?一応、武器を取りに戻るって選択肢もないわけじゃないけど」
「いや、こっちの方が早そうだ」

タルタリヤの提案を軽く受け流したディルックは、馴染のグローブをぎゅっと嵌め直すいつもの仕草を入れた。
二人とも馴染の武器は、乗船した際にクロークに預けてしまっている。いくら緊急事態でも、探していたら途方もないからこその同意だ。

「そうだね。君の手や足の癖の悪さは、ベッド以外の場所でもよく理解してるよ」
「今日の君は本当に…人前で、よく喋る」

タルタリヤの開放的な口に反応している場合ではないので、軽く触れて返すにディルックも留める。
そして、群れを組んだ宝盗団相手に背中合わせで、対峙する形をとった。拳を構えるとデッキ上の仄かな灯りだけが、二人に与えられた身体以外の武器である。

「は?丸腰で何言ってやがる!」
「こっちは何人いると思ってるんだ?」
「者ども、かかれ!!!」

そうして、きちんと武装してサーベルや斧などを所持した宝盗団を、タルタリヤとディルックは体術によって素手でばったばったとなぎ倒していったのだった。
それは、華やかなナイトタイムをダンスにも思える程に軽やかであった。








結果的にはバイオレンスになったが。それは、暴力で暴力を返したに過ぎない。
そのままの勢いで船を制御するために機関室に入り込んだ宝盗団の一部を、タルタリヤとディルックが倒したところでそれは訪れた。
いわゆる海賊紛いの不埒な輩に襲撃されていると即座に気が付いたクライオツァリナ号は、航海士、機関士、通信士、事務長などの上級乗組員の素早い連携により、早々に璃月の千岩軍に救助を求めた。さすがに航海場所が沖合へ近い場所にあったため、時間はかかったがようやく正規軍が乗り込んできて、船内に入り込んだ宝盗団を次々に一網打尽にすることに成功したのだった。
タルタリヤとディルックも縄で縛って放った宝盗団一味の場所を伝えて、これでようやくこの騒ぎも終了だ。

「ふぅ…思ったより早く終わったね。璃月千岩軍は中々に優秀みたいだ」
「千岩軍がこれほど迅速に対応するということは、きちんとこの船は正規の手続きはしているみたいだな」
「あれ、まだ疑っていたの?まあ、確かに璃月には補給で立ち寄ってるクルーズ寄港地って名目だから、大々的には無理だったわけだけど」

デッキから目下海を見下ろせば、海賊業としか思えない宝盗団が乗って来た遠洋漁船を収容している千岩軍の兵たちが機敏に動いている。確認作業の為に、まだ少し時間はかかりそうだ。
念のため、かかげられたデッキプランからパブリックスペースの位置を確認する。オフィサーが素早くアナウンスしたおかげで、大抵の客は賊が侵入したことなど知らずにキャビン内などで待機していた事となっている。隙間から見える船内の、きらめくシャンデリアとライブミュージックが安らぎの風景が色を添えている様子が再開していた。だからこそ、軽快な音楽と人々の笑い声さえも少し響いてやってくる。グランドピアノの生演奏ありのダンスステージが、程よい戦闘後に心地よく船上に流れた。
そうして、今のタルタリヤとディルックには新鮮な潮風と船のてっぺんからの素晴らしい景色を満喫するだけの空間が用意された。どちらを向いても素晴らしい景色を楽しめるだけの筈だったが。



「それで、君はずっとはぐらかしていたようが、そろそろ言うつもりになったか?」
「そうだね…何から知りたい?」

せきを切ってディルックが問い詰めると、ようやく観念したタルタリヤが星空を背に明るく返してきた。ディルックはこういう時、つい癖で腕組みをしてしまうが、別に手放しで怒っているわけではない。

「まずは、宝盗団の襲撃。君は知っていたからこそ、この船に乗り込んでいたな」
「…万が一にも、氷の女皇の名を冠した船に何かがあったら困るからね。今回の俺はその護衛役って事」
「案外あっさり認めたな」
「今更隠しても仕方ないだろ?
璃月の宝盗団がスネージナヤの船を襲撃したとなれば、必然的に外交問題になる。スネージナヤ国籍の船に、千岩軍を配備するわけにもいかない。自由が利く適任者が俺しかいなかっただけだよ」

クライオツァリナ号に一歩足を踏み入れたら、そこは璃月の法の届かぬ治外法権だ。タルタリヤがどこまで襲撃の確証を得ていたのかは知らないが、いくら何でも今回のように突然ラクジュアリー船に乗るなど、それこそ彼の言う仕事上の接待以外に似合っていない。いくら貴族であるディルックに合わせると言っても、彼は今は自分で働いた対価としての金銭を持ち得ているが、元々はなんの変哲もない庶民だと聞いたことがある。このような発想に簡単に至るのは難しいと、ディルックはそれがずっと違和感だった。

「それで、なぜ仕事なのにわざわざ僕を巻き込んだ?パートナー同伴必須で乗船しなくてはいけない船のようだが、別に僕じゃなくても良かっただろ」
「それは、多分。君を誘い出す口実が欲しかったからかもしれないな」
「口実なんていくらでも…」
「多少強引に進めないと、君はきっと受け入れてくれないだろ?」
「………」
「それに、一緒に船内を回ってわかったよ。君にとっては、ファデュイもスネージナヤも因縁があるとは思うし、許せないこともたくさんあるだろうけど、全てを嫌いではないと確認したかったのかもしれない」

ようやく悟りを得たかのように、タルタリヤはしっかりと言い切った。
二人は最初から今のような関係だったわけではない。ディルックの事情を直接的にタルタリヤに話した事は一度もないが、それでもファデュイの拠点を潰しまくっていた話は知っているようだし、その昔にスネージナヤに訪れた際の出来事も全てではないが察しているようだった。
彼の地と組織は、父親の事、モンドの事………あまりにも影響を与えず来ている。本当に彼らが全て悪いわけではなく、父親を亡くし行き場のない気持ちの矛先として逆恨みしている部分もないわけではないとわかっている。それでも本当に全てが嫌いだったら、確かに今こうやってタルタリヤの横に並び立つ事はなかっただろう。それをも凌駕するほどの存在。
ディルックにとっての優先順位は、どこまでもモンドであること揺るがない意思だ。だから、手放しに好感を持つのは不可能でも偏見なく知ってもらう為に用意された場所であった。
ただ二人で、船内で仮面を付けて自由に束縛なく回って、楽しかったこと…それは確かに嘘ではない。

「………もう一つ確認したいことがある。この船の目的地。スネージナヤの裕福層向けというのはわかったが、肝心な行き先の情報は意図的に伏せていただろ」
「そうだね。この船の今回の目的地は、稲妻観光ツアーだよ。鎖国が終わって人気があるんだ。もちろん外国人は、離島にしか入れないけど。昔よりは自由になったからね」
「稲妻…か」

さすがに璃月から、このままスネージナヤに直行するには地理的に難しいと思っていたが、他国の名前が出ていくつかディルックも考える。そうして行って帰ってくることを考えると、タルタリヤが提示した一週間という絶妙な期間が、胸に染みわたった。

「当初の予定時間は過ぎたけど、ようやくもうすぐ出航するみたいだ。
どうする?このまま俺と稲妻に行く?そのままテイワット世界一周の旅する事だって可能だよ」

タルタリヤからもたらされたのは、あまりにも魅惑的すぎる誘いの提案だった。
本気なのか冗談なのかわからないいつもの口調で淡々と向けられる。元から光彩のない瞳を持つ男だ。真実を確かめようといくら眼を見つめようとも、全てを読み取ることは出来ない。

「もし、宝盗団の襲撃がなかったら……… 君は、船の赴くまま稲妻に向かっていたのか?」
「そうかもしれないね。でも、いくら俺が隠してはいとはいえ、目的地をわざと確認しなかった君も、その時は一緒だよね」

ここで、稲妻に向かうということはそのまま全てを捨てて一番に手を取り合うということである。互いに後ろ髪を引かれるものが、どんなに多すぎるとしても。
二人ともに運命という流れに任せた事。結局は、お互い様だったのだ。途切れた緊張から知り得る同じ気持ち。
今はまだ、この関係がどこまでも心地よいという………



考え込む最中、まるでタイムリミットを知らせるように、ファンネルから汽笛が盛大に鳴る―――
実際には意味のないただの演出効果だとしても、後押しするのは十分だった。





◇ ◇ ◇





「で、ここはどこだ?」
「見ればわかるでしょ?璃月のスネージナヤ大使館」

ダンッと一度だけディルックは、椅子に座ったまま不機嫌に思い切り足踏みをした。



クライオツァリナ号の出航前に、千岩軍は捕まえた宝盗団を璃月港へ連行する事となった。その慌ただしいどさくさに紛れてクライオツァリナ号下船時のハイヤー送迎サービスの一環を使い、大型船では行けないところを行ける小型のテンダーボートを拝借したタルタリヤとディルックもディセンバークし、元居た璃月港へ帰還したのだった。
このまま一件落着かと思いきや、そのまま船で連れてこられた場所は璃月港でもディルックの知らない建物である。ちょっと後処理があるからこの部屋から出ないでねと言われて閉じ込められたディルックはお冠であったが、警備が尋常ではないほど厳重な事もあり、じゃあ外に出て何をすると言われても仕方ないので仕方なく待っていた。そうして薄々は感じていたからズバリとその場を名指しされて、地団駄を踏むことになる。

「そんなに怒らないでよ。外交関係の仕事は、さすがに機密性が高いんだ。俺の普段の執務室にある資料じゃ不足してるから、此処に来たの」
「その機密性が高い場所に、モンド人を入れる君の度胸は見習いたくない」
「この部屋は俺の私室だから、別に何もないし」
「…それで仕事は終わったのか?」
「もちろん」

さすがに今回の外交問題になりかねなかった報告は早急に処理する必要があったらしく、手早く片づけてきたとの事。
結果的には、時間としてはそんなに長いわけではなかったが、訳も分からない状況で置いて行かれたのがディルックの癪に触っていた。タルタリヤにいいようにやられることに、全てを受け入れられない時だってある。



「さて、俺もこれでようやく心置きなく正式に一週間の休みをもぎとったわけだから…」
「待て。まさか、ここでするつもりか?」

当然顔のように、近づいてくるタルタリヤにディルックは警戒の瞳を向ける。
ここはタルタリヤの私室と言っても、大使館内にある簡素な部屋に過ぎず、最低限の生活家具である机とベッドが配置されているだけだ。密室であることには違いないが、それ以外の利点は皆無である。

「それは流石に君も嫌だろうから、クライオツァリナ号が璃月港に停泊した際に使用する、ペントハウスのグランドスウィートルームに移動するよ」
「またスネージナヤか」
「当然。手続き上、俺たち今本当なら船に乗っている筈だからね」
「その理屈だと、今僕が璃月港に戻るのも問題がある…のか」
「最初にデートに誘ったとき、君はモンドも璃月も俺たちにとって都合が悪いって言ってたからね」

だから好んでいないとわかってもやや強引にスネージナヤ大使館に連れてきたのかと、ようやく合点となった。
滅多にない余暇にどこまでも囲い込んで――― ディルックが取れる選択肢を絞る事、きっとこれがタルタリヤが本当にやりたかったことに違いない。





「大丈夫、残りの日数は君の手を離さないから―――」

約束していた一週間の内、船上での騒動で既に半日以上が経過していた。だから二人にとって本当の意味での、休暇はここから。







この後の日は全て、ディルックは一歩も外に出ることは叶わず。
ずっとエグゼディブベッドに横たわってわずかに額に手をやり、リネンの上を泳ぐ事となるのだった。













ク ラ イ オ ツ ァ リ ナ 号 へ 、 よ う こ そ