attention!
二年秋大の故障が原因で野球に携わるのは高校限りと割り切った御幸は、卒業後就職をする。住み込みの仕事で調理師の免許を取り、さあこれからと言う時に、職場が突然倒産してしまう。弁護士に管理される事になった職場兼住居を叩き出された御幸は途方に暮れる。そんな中、プロ野球選手として大成した降谷と高校ぶりに再会する。しかし降谷は眼鏡をしていない御幸の正体に気がついていないようで、御幸も罰が悪いので黙っている事に。そんな二人が同棲をする話です。














「実家には戻りたくねぇ…」

誰もいない夜の幹線道路の街路灯の下で、御幸は途方になりつつつぶやいた。
野球漬けだった高校時代から離脱し、そのまま就職したまでは良かった。学歴がないので給料は安い自覚はあったが、それでも住み込みで衣食住付きという寮生活の延長なのは慣れていたから、そのまますんなり受け入れたというに。
まさかの、職場倒産である。
債権となった職場兼住居を追い出され、いきなり住所不定無職。貯金がないわけではないが、ずっと実家に仕送りしていたことを考えるとやはり心許ない。何より、学生時代に無理を行って私立で野球やらせてもらっていたおかげで、自分で稼げる年齢になった今、実家の父親には微塵も迷惑をかけたくないという気持ちでいっぱいだった。
学生時代は野球一筋で友達なんていなかったせいか、未だに御幸は友達一人いなかった。その高校時代の部活の面々とも、野球をやっていない御幸は疎遠となっていた…誰にも頼ることはできない。
ああ、今後の未来を連想するに、寒々しい。心理的状況が頭に響いた後、そのまま足下さえふらついて………

!!!

突然背後から響いたのは、激しいブレーキ音。それから、横切る大きな物体から発せられる一陣の風が御幸の髪をかき乱す。
その衝動に、御幸は軽く転んだが、妙な受け身の取り方は部活時代に散々やったからアスファルトの上でも支障はない。無様な転倒だけはなんとか押しとどめた。
よく見るとここは思いっきり車道だった。ふらふらと考え事と共に、車道の方まで足を運んでいたことをここで気が付く。別に自殺願望なんてないが、あまりにもこれは。

「大丈夫ですか?」

ヤバい!さっき自分をひきかけた相手が車から降りてきた。
げっ。しかも、高級外車じゃないか。車メーカーといえば連合枢軸が昔飛行機を作っていたからと連想するが。この車は某北欧メーカーという実力派。頑丈と安全性を売りにしているガチな奴だ。よりにもよって金持ちが相手とかついてない。こっちはぶつかっていないが、向こうは大丈夫だろうか。急ブレーキのせいで鞭打ちとかになったら、正当に慰謝料を請求する理由がある。
そうして御幸は、恐る恐る相手の顔を見据えた………

「ケガはないですか?」

まさかの見知った顔に、御幸の背はビクリと震えた。
見間違いようがない。車の持ち主は、かつての後輩。降谷暁だった。
ケガで野球を諦めた御幸とは対照的に、降谷は卒業後に支配下の球団にドラフト指名されて順調にエースピッチャーとして街道を進んでいたことはしっている。しかしそれはメディアから手に入れた情報だ。卒業後、連絡など取り合っていなかったので、何年かぶりの再会となった。
なんでよりにもよってこんな時に…罰が悪いにもほどがあったので、思わず御幸は視線を外した。そして言う。

「………そっちの車は大丈夫か?」
「はい」
「突然飛び出して、悪かった」
「いえ、僕も注意が足りませんでした」

なんだか普通に会話が成立して不思議だ。昔はあんなにあれこれいろいろとあったのに。今はもう遠い昔話のようだった。でも今は懐かしい思い出話をしている余裕はない。

「ケガしてますよね?転びましたし」
「いや、擦り傷くらいだから」
「念のため、病院行きましょう。救急車呼びますから」
「は?」

今、無職だから。無保険だから。いくら救急車がタダだとはいえ、10割の医療費払う余裕は御幸にはない。何より本当にケガなんてしてないし、どこもひねってないし。
降谷は無言でこちらの意見を無視して、携帯電話を取り出す。その指が119を押そうとマジでしていたから、あわてて止める。

「いや、本当に大丈夫だから!」
「でもこういう事故って、後から響くって言いますし…」
「ぶつかってねーんだから、平気だって」

むしろ突然飛び出したんだから加害者はこっちなんだがと、力説する。御幸なんかより、スポーツ選手である降谷の身体の方を心配した方が建設的だ。良かった、ホント。御幸を避けた衝撃でハンドル操作誤ってどっかにぶつからなくてと、それが一番安心するところで。

「わかりました。じゃあ、車に乗ってください」
「え?なに」
「治療しますから。ここじゃ、なにもありませんし」
「病院に行くのか?」
「嫌なんですよね、病院。だから違うところにします」
「でも…」
「それくらいはさせて下さい。じゃなかったら、本当に救急車呼びます」

再び降谷は携帯電話を取り出すので、またそれを押しと留める為に仕方なく、御幸はその助手席にしぶしぶ乗ることとなった。
世界一の安全性を謡うシートクッション、さすがに乗り心地は良かったが、どこか御幸は肩を縮こませるしかなかった。





◇ ◇ ◇





ほぼ無言の車内をしばし乗り過ごした後、テンプレートのようなビル高層群の中に降谷の車は吸い込まれた。夜なせいもあってか、恐らく何かのでかい建物の中という認識くらいしかなかったが、着いたから降りるようにと促されて、無機質なエレベーターホールでそれなりの高層に上がる。ああこれが下々のモノを見下ろすって感じかと、恐らく残業をしている面々の光をガラス越しに浴びる。

「どうぞ」
「ここ、どこ?」
「僕の住んでいる部屋です」
「おまっ、…こんなとこ住んでんのか………」

唖然と開けた口が簡単には塞がらないくらいには高級とわかるたたずまいだった。最初、御幸は高級ビジネスホテルか何かかと思っていたくらいだし。なにこのエントランスに飾られた絵画や骨董品。あ、花はよく見ると造花か。
そっか。億プレーヤーだもんな。年収から鑑みるくらいに自然なんだろうけど、どうも学生時代のイメージを引きずっていて不釣り合いという頭が未だに。でも、一端その事実を受け入れると何だかしっくりきた。降谷は長身でスタイルが整っていて、姿勢もピンと良い。変に慣れた感というよりは、そのままスムーズに合うような気がするんだ。
戸惑う御幸を促して、やたら天井の高く広いリビングのソファに座るようにと声をかけた。いくら身長高いからって二階分の吹き抜けは必要ないだろうに、もはやわからんという気持ち。
ああきっと高校時代の降谷は既にいないんだろうなと、それなりに面倒を見た自覚があったので、少しの寂しい心もあった。もう、手が離れてから何年経っただろうというくらいだから、当然なのだろうが。

「手当します」
「いや、自分で出来るって」
「させて下さい…」

謎の頑なを発揮するのは昔と一緒かと、御幸は少し笑った。
別の部屋から持ってきた救急用具一式は、民間で普通に使うモノというよりは本格派で、懐かしい。高校の寮にも常備してあったわと、そういう気持ち。
本当にあまりケガをしたとはいえなかったが、仕方なく借りたスリッパを横にやりジーパンを膝元までたくしあげる。ほら、やっぱりせいぜいすりむいたくらいだ。大して血さえでてないから、痣になるかも程度で。
それなのにやたらと丁寧に降谷は患部相手に処置をしてくれた。大げさな。そのままの自然治癒に任せた方が治りが早そうだと思うくらい………

「終わりました」
「ありがとな、わざわざ」

ここまでずっと罰が悪かった。それこそ全てに。だから会話も口少なく。
なんだろう… ここで再会したのが、まだ降谷じゃなかったら違った。同学年の倉持だとか、クリス先輩とか、沢村とか…もっと自然に振る舞えたはずなのに、昔から降谷はどこまでもじっと御幸を見つめるから、どうにも野球以外での対応に困った。言葉、視線、全ての行き先に。

「あの…なんて呼べばいいですか?」
「は?」
「名前」
「えっ、俺の名前???」

ここにきて、じんわりと感じていたことを察する。はっ、!
もしかして…もしかしなくても………コイツ、俺だって気が付いてない………?まさか。
どうりで反応鈍いと思った。元々そういうタイプだから、気が付かなかった。
いや、普通だったら数年ぶりの再会にバカ騒ぎするだろう。それ一切なかったからね。御幸から言い出さなかったのは、どこか罰が悪かったからに他ならなかった。降谷がなにも言わないのも性格的な問題かと思っていたが、本当に一般人助けただけっていう認識だったのか。
たかが数年、されど数年か。
若かった十代と今、確かに変わったよ。もう御幸はスポーツをしていないから、筋肉の付き方だって違う。年も取った。昔からわりと年齢相応だったけど、さらに。
しかし降谷は変わらないな…身長は伸びたけど。メディアで見かける回数かららあるからこそ、そう思うのかも知れない。
御幸を数年ぶりに見て、ユニフォームと制服以外の認識がないのだろう。もうメガネやスポサンもしなくなったし。あれあるとないじゃ印象違いすぎる。メガネキャラで行きたかったけど、良くも悪くも飲食業だったので外では辞めてしまった。室内でだらだらするときはメガネだったけど。
そっか。メガネをしていない御幸に数年ぶりに再会して、少し天然な降谷に気付けというのも自信過剰だったか。いやさすがにちょっとショックを受けたが、そういうものかと意外とすんなり胸に染み入った。
逆に良かったではないか。かつての先輩が自殺するみたいに飛び出して来たなどと知れなくて。と御幸は前向きに考えることにした。

「名前…なんて呼べばいいですか?」
「あー、そうそう。名前ね。うん、名前」

かつては御幸センパイとしか呼ばれていなかった。降谷はあまり他人を呼ばないが、さすがに先輩には先輩と呼ぶくらいの最低限はあったことを思いだす。
よし、じゃあ適当な偽名でも言って…くらもちとか、いや不自然だろう逆にと、なんだ意外と頭って働かないなこういう時。仕事がどちらかというと、手足を使うことの方が大切だったせいか、嘘をつくなんて久しぶりすぎてだから、とっさに。

「一也だよ」

おもっいっきり本名を口に出していた。ああなんてこった。自分のアホさを瞬時に後悔する。だって、名前聞かれたら条件反射で言うだろ。それくらいの。

「一也さんって呼べばいいですね。わかりました」
「え…あ、うん………」

助かったけどなんだか少し悲しくなった。下の名前も認識されていなかったのかと。確かに降谷はずっと名字呼びしてた。そして御幸も部活の面々は全員名字呼びされていた。うちの学年はあだ名といっても、名字を短くして呼ぶのがセオリーだったもんな。ノリとかゾノとかナベとか。三文字名字なら普通に呼ぶのが当たり前。
そして御幸は、名前が平凡すぎるとちょっと変わっている名字ばかり印象があって、下の名前が薄れるっていう奴だ。本当に今まで両親か、あと昔なじみの鳴くらいしか呼ばないから自分でも忘れそうなくらいだったとはいえ、仕方ない。
しかしなんか新鮮だな…さん付けか。日常生活で呼ばれることない。せいぜい呼び捨てされるくらいだったので、フルネーム呼び以外では初めてかもしれない。

「僕だけが名前を呼ぶのは不公平なので。僕のことは、暁でいいです」
「ん?」
「降谷暁です。僕の名前。だから、暁」
「俺が、お前を呼び捨てすんの?なんで」
「僕が…一也さんって呼びたいからです」
「なんだかよくわかねぇけど、まあわかった」

降谷の天然は昔からで、意図が全然つかめなかったけど、とりあえずこちらの方が年上という認識をしたということだけは理解した。別に御幸は童顔じゃないし、それでいいか。別に、この場限りだし。
さあ、これで終いだ。治療もしてもらったし、降谷の気も済んだだろう。さっさと退散するかと。まずこの部屋というかビルの外への出方を訪ねようとした最中だった。

ぐぅ〜〜〜

なんとも気の抜けた腹の音が、吹き抜けのリビングフロアに鳴り響く。

「おなか、すいてるんですか?」
「わりぃ… ちょっと食べてなくてな」

ドタバタして、すっかり飲食を忘れていた。ようやく事態が収まったことで落ち着いたようだった。生憎、腹の虫も。タイミングが全て悪い。気まずい雰囲気が流れる。

「僕もお茶ひとつ出しませんでしたから、すみません。今準備します」

ソファから立ち上がった降谷が、対面式のキッチンに向かう。長身の降谷がたち振る舞っても違和感ないほどの広さだ。背の高い冷蔵庫を開けたり、上の収納棚を開けたり閉めたり、しゃがみ込んで引き出しの中を覗いたりバタバタと………して、その先が…先が進まなかった。

「どうした?」
「いえ、あの。今まで使ったことなくて」
「え?キッチン用具揃ってるのに」
「最近引っ越ししてきて…家具付きだったので」
「じゃあ、お茶とかコーヒーとかはないんじゃないか?」
「いえ。先日、北海道の母親が来て料理していたので、なにかを置いて行ったはずです」
「冷蔵庫開けていい?」
「どうぞ」

遠慮しがちに冷蔵庫を開けると、醤油とか味噌とか最低限の調味料がほとんど新品の状況で入っていた。
最近越してきたということは、今まで球団の独身寮に入っていたのではなかったか?と御幸は思い当たった。それまでの衣食住は格安で保証されていたことに違いはない。それを逸脱して一人で生活するとなると、不健康を気にする親御さんの心配も伺いしれて、だから気を使って食材を………

「げっ、これ賞味期限ヤバいじゃねーか」
「そうなんですか」
「食べろよ」
「…………料理、したことないです」

降谷は中学まで実家住まいだったし、高校とプロに入ってからもずっと寮生活だった筈だ。料理などしたことがない可能性の方が高いのは仕方ないとはいえ、食材を無駄にするなど職業柄、御幸には容認できるわけもなく。

「俺が作ってもいいか?」
「えっ、いいんですか?作って貰っても」
「一応、調理師の免許持ってるし…」
「すごいじゃないですか」
「仕事で必要だから自然と取っただけだよ。嫌いなモノはあるか?」
「いえ、特には」
「じゃあ、今ある食材で適当に作るから」
「お願いします」

そういってじっとこちらを眺めている降谷をちょいちょいと退けて、リビングの方に向かうようにと御幸は促した。
別に普段だったら仕事柄、他人に見られながら料理をするのは慣れているが、それは見知らぬ他人相手限定だ。降谷のこちらをじっと見るというのは昔からなんかつかみ所がなくて、理解に苦しんでいるから、今は気が散るという言葉でやめてもらうに限る。まあ降谷のことだから空だろうが壁だろうがぼんやりと眺めていてあまり意味がないのだろうが。職場の厨房だったら多少は他人に見せて面白いこともできなくはないが、基本的に食材で遊ぶようなモノではないとは思っているし、この場では一通りの調理用具が揃っているにすぎないから限界を感じる。包丁も一本しかないし。
あれこれと考えるより自然と手を動かす方が料理の性には合っていると思う。習うより慣れろという業種だったし。頭を使うのは冷蔵庫に入った食材のラインナップの中から特に賞味期限がギリギリなものを選別してのメニュー選考だ。さすがに肉や魚はナマモノだったからなかったし、なにも冷凍もされていなかったからこそのセーフだろうか。御幸自身も腹を空かせていたこともあって、手早く出来るメニューにしてさっさと進めていった。



「一応、出来たぞ」
「運びます」

ほぼ同時に全てのメニューができあがるように時間配分出来たのは、三口コンロのおかげか。換気扇を回しつつ、きっとここは料理好きな女子が住むべきキッチンだなと御幸は思う。最後に汁物をお玉ですくって、トレイに乗せると降谷はそのままダイニングテーブルに運ぶ。

「一也さん、食べないんですか?」
「んー洗い物したいから」
「でも冷めちゃいます」
「先に食べてていいぞ」
「一緒に食べたいです」
「…わかったよ」

なんかナチュラルに名前を呼ばれた気がしたが、最初に確認した事項だし、まあいいかと。
降谷は変なところで頑固だからと、手早く油汚れのフライパンだけ洗剤につけ込んで、手を洗い、借りたエプロンを脱ぎ折り畳む。
ダイニングテーブルへと向かうと、きちんと背筋を伸ばして待っていた降谷が行儀良くいたので、その対面に座る。
いただきますとタイミングを照らし合わせたかのように言ってしまうのは、高校の寮生活の賜物だろうか。仕事で料理はつくるけど、やっぱり給食とか寮でのご飯が一番美味しかったとは思う。大量に作るってすごい。まあ今はお腹が減っているから、大したものが作れなくとも、それが最高のスパイス。

「肉とか魚とかなかったから、メイン全部卵料理だぞ」
「この、三品全部ですか?」
「そう。味付けは一応みんな変えたけど」
「カニ玉…だ」
「それ、味付けが中華風なだけのなんちゃってだぞ」
「カニ玉………美味しい」

相変わらず無表情なのに、謎のオーラだけは察せられる。じんわりとした感動が伝わる。昔からあまりうまく会話が成立していない感があったから、気にしないようにしているけど。
そう言われてみれば、贈答品の箱詰めされたカニ缶を発掘して使ったから、これが一番豪華なおかずかもしれない。サラダに乗せるだけでゴージャスになるな。
食材の賞味期限を鑑みるに、男二人。それも一人はスポーツ選手という食が細いタイプじゃなくて良かったなとは思う。どんどん消化してくれ。

「キッチンに炊飯器なんてあったんですか?」
「いや、なかったけど」
「じゃあ…このご飯はどうやって?」

ふいに気が付いたらしく、ほかほかの大盛りのお茶碗を左手に持ちつつ首をかしげながら降谷は訊ねてきた。ちなみに御幸の方は別に大盛りではない。

「鍋で炊いた。その方が早いし」
「………鍋?」
「調理実習でやっただろ?小鍋で炊飯」
「覚えてないです…」
「おまえ、家庭科の成績良くなかっただろ」

小中は知らないが、高校にでさえあったというのにすっかり忘れている。御幸でさえ高校の調理実習でもまたやるのかよ…という印象だというのに。まあどちらかというと女子が主体でやるという雰囲気になりがちだったから、御幸も料理は出来たがあまりでしゃばらないようにしていた記憶はある。下手に手料理出来ると知れて、押しつけられても面倒だし。人間が食べられるモノが精製されればいいんだ、家事に慣れない高校生なんて。

「今度、炊飯器買います」
「まあ炊飯器なら自動で炊いてくれるからな、文明の利器に頼るにこしたことはない」

御幸だってもちろん炊飯器が、あればそっち使ってた。多分時間的に早炊きを選択していただろうが。最近の早炊きは通常炊きと遜色ないから、どういう仕組みなのだろうとは思うが。
しかしホント。炊飯器もないということは、まるで料理なんてする気なかったのかと、もったいない。せっかく一通り一式キッチンに揃っているというのに、無駄遣いだ。基本一人暮らしの男性部屋というのは、全く珍しいわけではないが大抵お湯が沸かせるだけの一口コンロで、まな板を置く場所さえないというのがセオリーだから。せいぜいお湯を沸かす程度か。その役割でさえ電子ケトルに奪われ気味だ。使われないキッチンというのに少し寂しさを感じるほどだった。
そんな場所で偶然御幸が料理をして、降谷は美味しいといいつつ食べるわけだ。別に料理が下手というわけじゃないが、仕事だと業務感が強かったから、面と向かって美味しいと言われるのが少しこそばゆい気もした。
そうして他愛もなく食事は進んだーーー



「片づけ、手伝います」
「食洗機ついてるから、そんなに手間取らないって」
「手伝います」
「わかったよ。でも包丁にはさわるなよ?」

まあ案の定使いこなせていなかったようから、ついでに食洗機の説明もしつつでいいかと、御幸は空になった皿を運ぶ。さすが良い食べっぷりだ。これでいて降谷は全然太らないから、いやもっと本当は太った方がいいのか?でも良い投手の条件の一つに長身で細身であることというのも聞くしな。難しいな…

なんだか久しぶりに野球のことを思い出してしまった。ケガで本格的に野球に進む道は無理だと診断されたときは、割り切れた筈なんだが。もちろんケガをしなかったら、続けていたとも思うし、複雑な気持ちは多分一生持ち続ける。別に自分がプレイする側でなくてもいいんだ。指導者とまでは言わないが、球場関係やら野球道具の販売員やらなんでも野球に関わる仕事なら、本当に好きならなんでも道はあった。でも御幸はあえて全然違う道に進んだからこそ、今ーーー

「一也さん、どうしました?」
「あ、いや。ちょっと疲れててな」
「少し休みませんか?ここにきて直ぐ料理しましたし」
「いや、そろそろ帰る。腹も膨れたし」

思わず長居してしまったが、これ以上。この場にとどまる理由などない。それは、御幸と降谷が顔なじみであったとしてもだ。赤の他人として振る舞えならば余計に。

「そうですか。じゃあ、家まで車で送ります」
「えっ?家まで………?」
「何か問題でも?」
「いや、いいよ。迷惑だし」
「ご飯まで作ってもらって、タダで返せるわけありません。住所、教えてください」
「…住所。………あぁ、住所な。えーと…」

どうする。本当にマジで困った。この降谷の勢いでは適当な住所を伝えても、部屋の前まで来てきちんと御幸を見送りかねない。今まで住んでいた部屋。それは裁判所に差し押さえられている、無理。だったら実家…とも思ったが、そもそも最初から実家に戻れないから放浪してたのである。御幸スチールなんてどでかく書かれた工場の前まで降谷の車で乗り付けたら、バレバレではないか。どう考えても無理だ。
しかし住所を教えろという降谷の凄みはなかなかに強く、このまま押し黙っているのさえ圧を感じた。

「いや、とりあえずカプセルホテルとかマン喫とかで適当に済まそうと思ってて…」
「やっぱり帰る場所、ないんじゃないですか」
「やっぱり?」
「外で道、歩いてるとき。なんかフラフラしてましたし」
「いやホントマジで、別に自殺しようとしたわけじゃねーからな?たまたま考え事してて」
「それはわかってますけど、心配じゃないですか」
「いや、これ以上は心配しなくてもいいよ。そんなにおまえが責任感じる必要ないし。とりあえず、外への出方教えてくれる?適当に出て行くから」

これ以上の押し問答はよくないと判断した御幸は、とりあえずの最低限を考えた。車で入ってきたときによくわからない構造だった、このビル群の出方だ。ナビがあってもそれが建物の中では多分迷路。とりあえずどこかの駅にさえ行ければ大都会東京、どうにかなるだろうと。

「………僕、嫌です。一也さんをそんなところに行かせるのは」
「こーら、手を放せ」

よりにもよって投手の命でもある利き手で簡単に他人の手を掴むなと窘める。事情を知っているからこそ、御幸も強くは振り払えない。その懐かしい手を。行かないでくださいという強い主張と共に。

「行くところがないなら、ここに住みませんか?」
「は?ここ………?」
「そうです。ゲストルームありますけど、誰も使ってませんし」

あまりに魅力あるお誘いに危うく御幸は、瞬時に頷いてしまうところだった。危ない危ない。
きっと本当に降谷が赤の他人なら、もしかしたら多少の好意を甘受してしまったかもしれない。世の中には良い人もいるもんだと、多少の甘えを。しかし相手が降谷となると話は別である。高校時代あまりに色々とありすぎたせいで、意識しすぎてしまう帰来があった。相手は忘れているようだからと言っても、御幸はそんなに簡単に割り切れる自信はなく。

「気持ちだけありがたく受け取っておくよ」
「僕と一緒なのが嫌なんですか?」
「嫌とかそういんじゃなくて、家賃折半とかできないし」
「家賃なんていらないです。分譲ですから」
「余計にヤだよ」

頭痛くなる。買ったのかよ、このマンション。いや、億ションか?何年ローン?現金来一括払いもありえるぞ。
前々から思い切りの良いタイプだなと思っていたが、買い物にまで発揮されているとは。だまされたりしてないよな?とは思ったが、いざというときは球団がバックについているし、母親も知ってるようだからそのあたりは大丈夫かと安心した。
とにかくこれ以上ぐるぐるさせるのはやめてほしい。

「じゃあ、僕が一也さんを雇います」
「なに、どゆこと?」
「ここに住み込みで仕事してください。それなら、住んでもらえますよね?」
「住み込みって、え、え?」
「元々ハウスキーパーさんに来て貰う予定だったんです」
「あーお手伝いさんねっ、て。俺が!?」
「調理師の免許持ってるって言ったじゃないですか」
「それしか持ってねーよ。栄養士とかそっちの健康管理とか専門外だし」
「じゃあ学校通ってください。学費出しますから」

ぽんぽんと次から次へと降谷から新しい提案が飛んできて、もはや御幸の脳内は処理するのがいっぱいだった。頭がうまく回らない。
怒濤の事項は、まるで降谷の中ではすでに決定事項のように伝えられる。

「無茶苦茶すぎる。おまえは、もう少し。金の使い方を考えろ。無駄なことすんな」
「よく言われます」
「自覚あるのかよ!」
「じゃあ、教えてください。一也さんが」

名前を呼ばれる。何度でも。必要とされる。
野球を辞めてから仕事一筋で、誰かに求められることなんてなかった。唯一だったその仕事もなくなってしまい、途方に暮れて。だから一番心の弱い時に来た衝撃に、御幸は後から考えたら流されてしまったのかもしれない。それでも。
野球漬けで世間知らずな後輩が大金持ってるからこそ金銭詐欺にあったなんて、ここで見放したら眠りが悪いことには他ならなかった。守られていた寮生活から出た今、誰かが常識を教え込まなければいけない。ただでさえ降谷は少しぼうっとしている面があったのだから。謎の使命感に御幸は包まれた。

「わかった。ハウスキーパーなんて大層なことはできないし、学校にも通わないけど。とりあえず住み込みでここの家事はやる。それでいいな?」
「ありがとうございます!」
「いや、感謝するのは俺の方なんだけど…な。そうか」
「どうしました?」
「いえ、これからよろしくおねがいします…」

ぺこりと頭を下げる。まずはこれからだろうと、御幸は一つ頭をひねってから切り替えた。ビジネスモードだ。仕事で何でもやっている、慣れたそれを。

「なんですか、それ」
「雇い主に対してなら、敬語かなと」
「ソレ、なんだか気持ち悪いです。やめてください」
「なんだよ!一応、気を使ったのに」
「普段通りにしてください。僕も言いたいことは言うつもりですし」
「わかったよ…えーと」

一瞬それを口ごもる。昔みたいに、降谷って呼んだからバレるか?えい、仕方ない。

「…じゃあ、ヨロシクな。暁」
「はい、一也さん」

初めて名前を呼んであげて、少し嬉しそうに降谷に笑みが浮かんだかのように見えた。たぶん気のせい。
これしばらく言い慣れないだろうなと、御幸は苦笑してしまった。





◇ ◇ ◇





なんだかんだとドタバタはしてしまったが、ひとまずの方向性は見据えられたということで、夕食もしたし。風呂に入るように促された。まあ、これからはここに住むのだからと考えても仕方ないと御幸も割り切った筈なのだが、せっかく広い風呂釜があるのに、シャワーしか浴びない。使い方がよくわからないからという降谷に、また軽く説教をして湯船にお湯を張った。確かにボタン多いな。しかし追い炊き機能…実家にもなかったから、ありがたすぎる。ただガラス張りは実用的ではないと感じた。
元々ここ一人暮らし用の物件じゃない気がする。どっちが先に風呂に入るか少し揉めた後に、なんとか順次入ってリビングで午前様を迎えた。

「ゲストルームってこっちの部屋?」
「はい。今はなにもないですから、これから一也さんの好きに使ってください」

デザイナーズマンション?のせいか、やたらスタイリッシュなレイアウトなので、部屋かと思って扉を開けたら隙間収納だったりと、最初は戸惑いそうだなと思いつつ。ようやくゲストルームを見つけた。降谷の寝室と思われる部屋は、リビングの奥だからわかりやすいんだけどなー
パチンと照明をつけると、確かになにもない広々とした部屋があった。それでも家具置いても広いと思えるほどで。実家も一階が工場で住居部分は狭かったし、高校も職場もこじまんりとしていたから、なんかかえって落ち着かなさそうだなと御幸が思うほど。

「ん?ていうか、ベッドは?」
「ないです。特に使う予定なかったので」
「そっかーまあそうだよな。一応聞くけど客用布団とかないよな?」
「ないです」

大理石?フローリング?だから布団を敷くってイメージではないから、仕方ないと御幸は割り切った。
さて、どこで寝るかと。リビングに戻り視界に入るのは、広々としたソファ。長身の降谷が腰掛けても違和感のないほどの広さだ。もちろんソファーベッドではないとはいえ、今まで御幸が寝ていた煎餅布団からすれば破格のお値段であることは察せられるから、ふかふかのクッションを枕代わりにすれば破格にも感じられた。いそいそと寝床の準備をする。

「なにしてるんですか?」
「寝る準備」
「じゃあ、こっちに来てください」

促されたのは降谷の寝室と思われる部屋だった。そっちの収納に掛け布団でもあるのかと、不思議に思いながら入る。
部屋はもちろん広かった。日常使いをするのだからゲストルームより広いのは当然かもしれないが、収納扉の枚数も多いし、無駄にムーディーな間接照明が夜を物語る。しかしそれ以上に。

「でか!ベッドでか!!!なにこれ、こんな家具ついてんの?」
「いえ、元々あったベッドが小さかったので、長身用のベッドを頼んだら、これが来ました」
「いや、確かに俺も長身用布団で寝てたけどさ」

部屋の大半を占めているのはそのベッドだった。降谷の身長を考えるに、縦は長いに越したことはないが、問題は横。軽く五人くらいは眠れそうな幅よ。横回転何回出来るだろう。こういうのってクィーンだかキングだかもう御幸にはよくわからないが、とにかくでかかった。なんだろう…業者は降谷をお相撲さんと勘違いしたのだろうか。野球選手だっつーの。そこまで太っているピッチャーはそうそういないぞ。

「じゃあ、寝ましょうか」
「あ、寝るの?じゃあ、おやすみ」
「待ってください。どこに行くんですか?」
「俺も寝るから、リビングで」
「なんでですか?」
「え、寝ちゃダメなの?」
「そうじゃなくて、寝るならここにして下さい」

降谷が指し示すのは眼前のどでかいベッドだった。まさかの。そんな発想、微塵もなかったので、思わずベッドと降谷の顔を交互に何度か見返してしまった。

「えっ、ヤだよ。こんなでかいベッド。ぜったい落ち着かない」
「僕も最初はそうでしたけど、慣れましたよ」

いや降谷は昔からどこでも寝ることが出来る人間だったじゃないかというつっこみを思わずしてしまうところだった。危ない危ない。
御幸の方と言えば寮生活である程度他人のベッドやら遠征先での宿泊も出来るようになったし、今の職場からはマイ枕にこだわらなくても大丈夫になったとはいえ、これは次元が違う。普通の布団に寝る場合に限っては、寝れるってだけだ。高いビジネスホテルに泊まったこともない御幸からすると、気になって仕方なかった。

「いや、正直。まだ雑魚寝の方が慣れてるというか…」
「じゃあ一緒に寝ましょう。他にベッドありませんし」
「は?」
「僕、寝相が悪いと言われたことありませんよ。一也さんは?」
「俺もないけどさ…」
「じゃあ問題ありませんね」

スタスタとベッドに歩みよって、降谷は腰掛けた。掛け布団を剥いで、早く寝るようにと促す。
ていうか、降谷と一緒に寝る?まさかの事態にあまり考える時間も与えてくれなさすぎる。確かに雑魚寝が出来ると御幸は言った。寮生活では、三人部屋ないし、二人部屋。冬でなければいつのまにかテレビを見つつ寝落ちしている面々もいたし、何より御幸の部屋はたまり場になりつつあったから、降谷でさえそこらへんに寝ていたことはあった。遠征先ではどでかい道場やら和室を借りて、布団を敷いて野球部全員で雑魚寝という地獄も何度か経験している。とはいえ、それは仕方なかったというか偶発的というか、一つの布団で意識して眠ったことなどなかった。それが今、目の前にある。
戸惑わない方がおかしい…?と一通り考えたところで、はっとする。変に意識する方がおかしいということに。男同士なんだから、もっとフランクに接していた方が普通だろうと。あまり降谷がそういうタイプには今まで思えていなかったが、プロ野球という集団に所属しているのだ。先輩後輩のわちゃわちゃは学生時代以上だと思うし、あちらの寮生活で成長したんだろうなと、御幸はようやく思い当たった。
「じゃあ」と一声かけて、降谷が入ったベッドの逆方向にから布団に入る。ふわっふわの羽毛布団と思われるその軽さ。あっという間に身体に染み入る。このじんわり感。さっき湯船に浸かったときも御幸は感じた気がする。きちんとスプリングのきいたベッド、素晴らしい。今日はよく眠れそうだ。

「照明、消しますね」
「あ、うん」

ピッと微かにリモコン音が鳴ると、だんだんと照明が暗くなり、最後は間接照明の明るさも消えた。そうそう、複数人と寝ると。電気を点ける派とか、多少は明るくないと眠れない派とかいて色々とめんどいんだが、二人くらいなら楽でいいなと思う。

「寒くないですか?」
「いや、全然。むしろあったかいくらい」
「そうですか。なんだろう…この隙間が風を通すのかな」

暗闇の中、声がかかったと思ったら、布団越しにもぞもぞとなにやら降谷の方が動いているのがわかる。羽毛布団だからこそ軽い様子だが、なんだなんだ。まあ仕方ない。今までは一人で自由に寝ていたのだから、勝手が違うのだろう。そこだけは申し訳ない気がするけど。

「わかりました。一也さんが端っこで寝過ぎなんです。もっとこっちに来て下さい」
「え、そっち?」
「変に間があるから、隙間風が寒く感じるんです」
「そうかな?」
「試しにこっちに来て下さい」
「…わかったよ」

仕方なく御幸は少しの横移動をすることとなる。ベッドの持ち主の提案なのだからこればかりは仕方ない。元々でかいベッドだからいいかと思っていたが、ふいに妙な暖かさを感じる。いつの間にか隣には降谷がいた。

「おまえもこっちに来たのかよ!」
「近づいた方がいいと思って」
「いや、せっかくでかいベッドなんだから接近する必要なくね?」
「でもこっちの方があったかいですよ」

そりゃそーだよ。人間同士がくっつけば暖かいのはさ。でもこれって違くない?雑魚寝で隣の寝相が悪い奴が寝返りを打って、蹴られたとかそういう経験はあるけど、これは違くね?そうは思うんだけど、なにぶん借りぐらしの身だ。家主のベッドにおじゃましている身としては、強いことなんか言えるわけもなく。

「あーもう、わかったよ。もう、さっさと寝ろ」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」

むりやり目をつむって早く寝るようにと、御幸は自分に暗示をかけた。なんか羊を数える余裕ないぞ。
やがて、隣から規則正しい吐息が聞こえた。そういえば、コイツのイビキとか聞いたことないと思った御幸は、自分が意識しすぎたのかと。少しぐるぐるする。やがて、今日一日にあまりに色々なことがありすぎたせいか、さすがに疲れた御幸もいつの間にか寝入ってしまった。





◇ ◇ ◇





「おーい、起きろ」

誰かを起こすとか寮生活しているときはよくやっていたが、今は状況が違う。

「起きろ、朝だぞ」
「ん…」

少しずつ覚醒へと向かう降谷に御幸は声をかける。今、それしかできない。それでもずいぶんのんびりなのは昔から変わらないが、それを早急にしてほしい理由がここにはあって。どうするか。大声を出すような立場ではないし、そういう元気もない。ここは、仕方ない。

「起きろ、暁」

それこそ母親が子供を起こすように、その名を呼び目覚めを促した。
ゆっくりと重たそうな降谷のまぶたが開く。

「おはようございます、一也さん」
「おはよう」

とりあえず挨拶で返したが、それより先に確認したい事項があった。

「おまえ、寝相は良いって言ってなかった?」
「はい」
「じゃあなんで、俺抱きつかれてんの?」
「一也さんがあったかかったから」
「抱き枕かよ!? とりあえず、トイレいきたいから離してくんない?」

本当は多少無理をすれば降谷の腕を引き剥がせただろうが、相手は投手様だ。変に寝違えたりされたら、御幸の罪悪感はハンパない。だから仕方なくベッドの中で抱き留められたまま我慢していたが、普通にトイレ行きたいので無理にでも起こした。
降谷の方も多少、ベッドでまどろみたかったようだが、しばらく空になったリネンの上で物寂しそうに泳いだ後、起きあがってきたようだった。


「朝食は昨日の残り物のアレンジだぞ」
「はい」

それが仕事だしと、早速御幸はキッチンに取りかかる。元々、足の早いモノを昨日は消化したわけだが、そこに保存食を加えて少し朝食風味に切り替える。いや、きっと卵料理って朝食のイメージが強いからと割り切って。とりあえず降谷の好みを聞くのは後日でいいからと、卵の堅さは高校の寮生活と一緒にしておいた。降谷が目玉焼きにかけているのが、しょうゆなんだかソースなんだか塩なんだか覚えていなかったから、一通りの調味料をダイニングテーブルに並べる結果となったが。また鍋でご飯を炊く。油汚れとはまた違う方向性で洗い物が面倒という面をのぞけば、なかなかに合理的だ。いつも朝食はパン派ですと言われても、今この場にないのだから仕方ない。近くにコンビニがあればさっと買ってきても良かったが。たとえあったとしても、この高層ビルではエレベーターで下層に降りるだけで時間かかりそうと思ってしまう。高いビルのデメリットを変な意味で理解してしまった。

「ごちそうさまでした」
「おそまつさん。さすがに食材買った方がいいな。近くにスーパーあるか?」
「…わかりません」
「ここの住所、教えてくれ。検索する」
「あ、車出します。僕も買いたいものありますし」
「え?スーパーで」
「はい、炊飯器買いたいです」
「普通のスーパーには炊飯器売ってないぞ」
「そうなんですか?」

確かに毎回鍋で炊くよりはやはり炊飯器の出番だとは思うが、これは… 炊飯器の存在を覚えていただけマシかと。御幸は降谷から教えて貰った住所から一番近い家電量販店も検索対象に加えた。

「うーん。都心の家電って駐車場渋滞おきそうだな」
「でも炊飯器持って電車移動って辛くないですか?」
「そうだな。食材も買い込みたいし… そう考えると車って便利だな」
「一也さんは免許もってないんですか?」
「一応取ったけど、車持ってないし。維持費がな」
「そうですか。僕も最初は興味なかったんですけど、職場の先輩がみんな持っていたので薦められて」

あープロ野球選手って高級車乗りたがるからと、変に御幸は納得した。まあ投手は身体が資本だから、変に満員電車に乗るわけにもいかないから、車移動は合理的かとも思うけど。

「僕の車、運転してみます?」
「え、ヤだよ。ペーパーだし」
「じゃあ横で、ナビしてください」

テレビをのんびりと見る習慣もないようで、降谷も出かける準備をすませると、さっさと買い物へと出ようと促してきた。確かに変に混むお昼頃や午後よりは開店と同時に家電屋に駆け込んだ方が空いてるかと。御幸も足りない調味料リストだけ書き出して、部屋を出ることとなった。





「アッシーしてくれるなら、あとでホムセンも寄ってくれない?掃除用具買いたい」
「わかりました」

車に乗りつつ、頭の中でまたいくつかの買い物リストを組み立てる。結構広い部屋だからこそ、掃除しようとすればキリがないとはいえ。モノがごちゃごちゃ置いてあるわけじゃないから、そんなに手間取る気がしない。

「あっ、掃除しちゃダメな場所とかある?開けちゃいない収納とか」
「特にないです。服くらいしか私物ありませんし」
「おまえ、趣味ないの?」
「たまに動物園に行ってますよ。あとは本を読んだりですかね」
「ふーん」
「一也さんは?」
「俺はやっぱり料理かな。休日なら時間あるから凝ったの作れるし。あ、そだ。おまえ、甘いモン食べれる?」
「普通に食べますけど」
「俺、あんま得意じゃないから作っても食べさせる奴がいなくて困ってたんだけどさ。これからたまに作ってもいい?」
「どうぞ」
「やった」

それに一人分を作るのと二人分を作るのでは、効率が違うし。結構いいじゃないか?と思い始めてきた。寮生活で降谷がひどい偏食家だった記憶ないし、ちょっと珍しい食材にチャレンジしても食べてくれそうな気がする。少しるんるんと料理のアレコレを考えている間にあっという間に駐車場についた。有名百貨店とかは渋滞がひどいものだが、家電量販店付属の駐車場で開店と同時ならスムーズなもんだ。
「あ、クレカ渡しておきますから、生活費はここから支払って下さい」と渡されたクレジットカードのプラチナ色と輝きに御幸は一瞬目眩がしたが、そもそも独身の降谷は家族カードなど持っておらず、二枚しかクレカ持ってないというのだから仕方ない。一枚を拝借する。きちんと毎月届くクレカの明細を確認するように指導しなくては。突然食材とか買いまくったら、クレカ会社から不正請求と勘違いされそうで少し怖いが。

混み入った家電量販店は店員を捕まえるのさえ難しいが、この朝の時間だと搬入やレイアウトを直している店員も多く、変に声をかけられなくてかえって良かったかもしれない。
流行の入り口近くのスマホやパソコンなどの花形家電、季節モノ家電を通り過ぎて、どちらかというとこじんまりとした調理家電コーナーに二人は足を運んだ。

「うーん、悩むな」
「違いがわからない」
「まあ俺もこだわりとかないし、詳しいわけじゃないけど」
「これでいいんじゃないですか?一番目立つ通路に飾ってありますし」
「ソレ、値段がヤバい。別に最新家電である必要性ないし、型落ちを探すぞ」

自分がお金を出すのに無頓着な降谷を抑えて、御幸はコスパよさそうな炊飯器を探す。そもそも家族用が必要なわけじゃないから、そんな六合とかまで炊ける必要ないし。一人用の最大四合炊きで十分だった。

「これ、いいんじゃないか?」
「確かに。キッチンの色とも合いそうですね」
「いや、使わないときは収納するぞ?」
「それ面倒じゃないですか?」
「せっかくキッチン収納も広いんだから活用するんだよ」

品物が決まったので、店員を呼びつけて値引き交渉を始める。
あまり家電量販店に慣れていない降谷は物珍しそうに、御幸と店員のやりとりを眺めていた。



「よし、良い買い物をしたぞ」
「あんなに値引き交渉しなくても良かったのでは?」
「いいんだよ。値引く前提の値段が提示されてんだから」
「なんだか聞いてるだけの僕がハラハラして疲れました」
「なんでだよ。って、もうすぐ昼か。混雑する前に一度車に荷物置いて食事でもするか。そういっても食材をこれから買うとすると時間かかるなぁ」
「じゃあ休憩がてら、どこかでお昼ご飯にしましょう」

降谷の家の近くだから、御幸からするとあまり立ち寄らない商業地域。それでも飲食店は豊富にあるからと、早めの食事の為にオープンしたばかりのカフェに立ち寄った。
飲食店に立ち寄ると普段だったら前職のことを思い出してしまうのだが、ここまで洗練されたオシャレっぷりだと次元がいくつか違うので、逆に色々と考えなくて良いなと思った。
一応、ディナーよりはお得なランチタイムのセットがあったので、二人ともそれを頼んで美味しく頂く。

「そういえば、おまえ。今日、仕事は?」
「今日は休みです」
「そっか。今度からさ。一応、カレンダーに仕事の予定書いてくれる?」
「わかりました。僕、野球選手なのでシーズン中は休みが不定期なんです」

知ってる…と内心で御幸は返事はしたが、外面ではふーんそうなんだという対応をした。
物静かな降谷からはそれ以上、野球の話は出てこなかった。元々、御幸の方がむやみやたらとしゃべる方だから、変に質問さえしなければ深くは語らないのだろう。だから、それだけはほっとした。


念願?の炊飯器を手に入れた余韻のまま、ホームセンターで掃除用具や追加でほしいキッチン用具を物色する。都心にしてはでかいホムセンに立ち寄ってもらったので、ラインナップも充実していて見ているだけで飽きない。洗濯用具とかも主婦の為に色々と便利用品がでているようで、物珍しく手に取って眺めていたら、降谷にそれはどういう使い方をするのかと何度か質問された。今まで降谷は本当に家事と無縁な生活だったらしく、母親の手伝いをするよりはボールを投げていたようだった。さすがの怪物クンもあの剛速球は生まれ持っての才能もあるが、練習の賜物でもあるんだろうなーと感じた。
二人分の食器やカトラリーを眺めると、降谷がシロクマ柄を選ぶので謎の統一性だなと段々と悟りを開いてきた。

「あ、ここの二階。家具も置いてある、このキッチン収納棚便利そうだなー」
「買いますか?」
「いや、備え付けられてあるので十分だって。見ただけ」
「そうですか。何か必要なモノがあったら、言って下さい」
「おまえ、なに言っても金を出すとしか言わないじゃん」
「もしシロクマ柄があったら優先してますよ」
「それだけかよ!」

ついでにぷらぷらと家具コーナーも散策する。こういうのは見ているだけでも楽しい。冷やかしとなってしまうけど。降谷の家はクローゼット収納が整っているから、追加で買う家具なんてないからなーと端的に思っていたのだが、ある場所で足がピタリと止まってしまった。
ベッドコーナーだ。

「やっぱりベッド、欲しいんですか?」
「おまえはヤじゃないのか?他人と一緒に寝るの」
「特に嫌じゃなかったです。よく眠れましたし」

即答される。そうなんだよな、降谷はそういうの気にするタイプじゃないんだよな。でも自分はどうなんだろう…と御幸は振り返る。別に寝苦しいとかそういうのはなかった案外不思議なことに。降谷のことをよく見知っているからこそなんだろうなと、それは思う。

「元々あのベッド、一人で使うにしては広すぎるなと思ってました」
「そう…だよな。とりあえずベッドの件は保留ってことで」

一度寝てしまって吹っ切れたのか、青々しく御幸はそう終息させた。もしどちらかが嫌になればそのときに買えばいいし、リビングにでも寝ればいいしと。どうしてか降谷が少し寂しそうな顔をするから、さっさと家具コーナーから撤退を決め込むこととなった。
今は、美味しい晩ご飯を作るための食材買い込みという明るい目下を考える方が良いのだから。





◇ ◇ ◇





そんなこんなで降谷との共同生活?が始まったのだが、大まかは順調に推移した。
御幸は家の事をやるといっても、割と凝り性なので料理も洗濯も掃除も手間をかけようとすればそれなりに時間は経過して行った。なんかなー新築のデザイナーズマンションだからこそピカピカにしておかないと余計に気が済まないんだという言い訳。降谷からするともっと適当でいいですよというコメントなのだが、これは御幸の性だ。仕方ない。
どちらかというと規則正しい御幸からすると、降谷は仕事柄どうしても不定期になりがちだ。シーズン中だからこそタイトなスケジュールなのだろうが。おおまかにわけると、ホームでのデイゲーム・ホームでのナイトゲーム・関東でデイゲーム・関東でナイトゲーム・遠征日・帯同日・練習だけの日など、様々な予定が混在していた。あまりに面倒なので、今は降谷のスマホカレンダーを御幸は同期して把握している。掃除はともかくとしても、日によって練習着などの洗濯物が多くなる日や、食事がいらなかったり弁当を作る必要があったりとまちまちなのだ。
降谷はあまり外食を好まず、だいたい御幸のご飯を食べたがった。野球選手なのだから、先輩から飲み会やキャバクラの誘いがたくさんあるだろうに、実力派だからこその塩対応が許されている面もあるようだ。本人いわく、寮生活していたときにそういうのは随分とつきあったから、もういいらしいが。コミュニケーションがきちんと取れているのか、少し御幸は心配だったが、そういうキャラだからという扱いらしい。なんだそれ。

「一也さん。次の土日、空いてますか?」
「特に予定はないけど」
「お弁当にカニ玉を入れて欲しいんですけど」
「別にいいけど、次の土日って遠征日だろ。弁当箱、わざわざ持ってくのか?」

あれ、ていうか日本語かみ合ってなくね?別に弁当を作るのはいつものことだし、わざわざ降谷が御幸の予定を聞く必要などない筈だ。そもそも今の御幸にある予定など、スーパーの特売に走るくらいである。

「試合の応援に来てくれませんか?僕、登板するので」
「え?」
「ビジターでどうしても勝ちたい試合なので、一也さんに見て貰いたいんです」
「次の確か試合って関西だったよな?」

今週はホーム三連戦だったから、下手な試合日よりは降谷は家でゆっくりしているのが今である。ビジター試合の半分は関東とはいえ、やはりホームは練習時間などの融通が聞くから一番気楽と言っても過言ではない。地方戦や交流戦をのぞけば、ホーム三連戦が終われば次はビジターということで、移動日だ。

「はい。もう新幹線のチケット買いました」
「相変わらず、そういうのだけは早いな」
「無理にとは言いませんけど」
「わかったよ。たまにはお前の勇姿を見に行くよ」
「ありがとうございます。僕、がんばります!」
「こらこら今から無駄にオーラ出すな。もったいない」

一緒に生活しているとはいえ、あまり降谷はわがままを言わない方だった。そもそも高校の時だって、野球のことに関してはやたらと頑固だったが、それ以外は随分とぼんやりとしているなという印象だったのだ。
今、降谷はこの部屋でほとんど野球の話はしない。御幸はもっとしないし、わざわざ聞いたりしない。最初は悩んだのだ。試合の結果は球場にいかなくともテレビやらネットやらで直ぐにわかるから、その日降谷が勝っても負けても完封しても途中降板したのも全部。でも、なんて声をかけたらいいかわからない。相手はプロだ。下手に中途半端なアドバイスをする資格は今の自分にないと思った。野球の話は一切しない。それが二人の暗黙のルールのようだった。
ていうか、近くのホーム試合さえ見たことないんだけど、なんで?とは思ったが。別にベンチで見守るわけではないし、軽く応援するくらいなんでもないだろうと思っていた。





◇ ◇ ◇





「同じ新幹線かよ」
「むしろなんで違うと思ったんですか?」
「いや、お前のチケットって球団が取ったんじゃねぇの?」
「昔、事故があったので選手は分散化して乗り込むようにしているらしいです」
「確かに…みんな同じ新幹線に乗って遅延食らったら最悪だな」
「あと、お金のない選手は在来線に乗ってるらしいです」
「逞しいな」

ちょっと知りたくなかったような悲しい話を流していると、東京駅のホームに新幹線が到着した。始発駅の混みようはなかなかではあるが、指定席を探して乗り込む。当然のように降谷は隣の席だ。

「せっかく新幹線なんだからさ。俺の弁当じゃなくて、駅弁の方がよくね?」
「一也さんは新幹線久しぶりかもしれませんけど、僕は良く乗りますから食べ飽きました」
「今、駅弁も色んなのあると思うんだけどなあ」

この弁当、そんなにいいものか?と謎に思いながらも、お昼にする。ちょうど新幹線の時間がお昼時のせいか、周囲の人々も品川駅を通過してスピードが乗ってくると横浜へ向かうまでの最中に買ってきた駅弁を広げているから便乗する。
いつもの暖かいままキープできる弁当箱だとかさばるので、今回は簡易包装に努めたので、暖かさは半減しているのだけが残念なところか。冷めても美味しさが損なわれないおかずにしたつもりだが、かに玉だけはやっぱり暖かい方が美味しいかも。ていうか、あんまり聞いたことないんですけど、お弁当にかに玉って。降谷の好物らしく、よくリクエストされるから作るけど。今回はかに玉に合わせて、ほかのおかずも中華系に統一した。車内で食べるからあまり臭いのキツくならないヤツ。横浜駅を停車すると有名な中華街のお弁当などののぼりが見えるので、あっちの方がよほど美味しそうだが、降谷は幸せそうに御幸の弁当を頬張るから、まいいかと。御幸も自分の腹を満たす。
新大阪駅までの新幹線はあっという間だった。ていうか御幸は久しぶりに東京の外に出た気がする。高校時代はあちらこちらと遠征していたが、どちらかというと仕事が忙しく、趣味料理だったため、休日も部屋にこもることが多かったのだ。旅行をするような友達もおらず、こういう観光ということでさえ、修学旅行が試合の日程でつぶれたことを考えるに、数えるほどしかないような気がする。
ついつい富士山を見たときにちょっと立ち上がってしまったよ。だって降谷が窓際席を譲ってくれるからさ。別に田舎モノじゃないんだけどな。
新大阪駅に降り立ち、在来線に乗り換えて球場に向かう。久しぶりの関西に、うっかりエスカレーターの立ち位置を逆に立ってしまうのは、やらかしだった。

「じゃあ、僕は先に。合同練習があるので」
「おう、気をつけてな」
「あの…お願いがあるんですけど」
「なに?」
「名前、呼んでくれませんか?僕の」
「それって、下の名前でってこと?」

未だどこか気恥ずかしくて滅多に出さないそれをやっぱり降谷は少し気にしていたらしい。あっちはなんだかんだと一也さん一也さん連呼してくるから、こちらはもはや慣れてしまったんだが。とりあえずうっかり降谷呼びをしない為の予防でもあったりする、それは。

「はい。試合の時に応援で、呼んでくれたら…嬉しいです」
「俺、応援得意じゃないから、名前呼んでもお前まで届かないと思うけど」
「それでも、一也さんが応援してくれてると思うだけで、違うんです」
「そういうものかな。まあ、わかったよ。出来る限りする」
「ありがとうございます」
「………今日頑張れよ、暁」
「はい!」

















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