attention!
御幸に妹がいる捏造設定で、シスコンなのでご注意を。同名漫画を多少モチーフにしていますが、知らなくても読めると思います。何でも許せる人向け。











御幸みゆきです。宜しくお願いします

きっと、その言葉を最初に聞いたのは、入学したクラスで各々が自己紹介したときだった筈だ。
しかし降谷は、あまりクラスメイトに興味が薄く聞き流していたのだと思う。そもそもが東京に来たばかりで、御幸という苗字が珍しい部類に入るとあまり認識していなかったせいだ。今まで過ごした北海道には、もっと常用漢字から離れた苗字がいくらでもあったし。
次にその言葉を聞いたのは、部活のマネージャー達が口々に自己紹介をする場で、ここでようやく降谷は自分が青道高校に入学する事となった人物との関連性をうっすら見出したのだった。



「小湊、降谷。ちょっといいか?」
「はい」
「御幸先輩、どうかしましたか?」

入学したばかりの一年生が最初にやる事と言えば、基礎トレーニングで。その運動量の多さにまだ慣れる前ではあったが、とりあえず無事に終了した夜の自由時間。一段落の合間に、先輩からの呼び出しを食らった。
ちょいちょいカモンと軽く手招きをされる。寮室も守備位置も違う小湊と降谷がなぜセットで御幸に呼びつけられたのか、最初わからなかったが直ぐにその口から答えが出る。

「うちの部で、1年B組ってお前ら二人だけだよな?」
「はい、そうです」
「知ってるかもしれないけど、俺の妹も同じクラスでさ」

ここでようやく降谷は、御幸の妹が誰だか合致をする頭となったのだ。もしかして、と。
それにしても驚いたのは結構ズバズバと物を言う印象のあった御幸が、少し歯切れ悪そうに喋った事だった。野球以外だとこんな感じなのだろうか?プライベートに当たる寮での印象も、大して変わらなかった筈だけど。

「悪いんだけどさ。妹の事、たまにクラスで気にかけてやってくれないか?俺は寮で生活してるし。心配なんだよ色々と」
「わかりました」
「ちょっと過保護かなとは、わかってるんだけどさ」
「僕も、兄貴が実家を出ていた時は、心細かったですから。分かりますよ」

同じく兄が青道高校に通っている小湊が、同調する言葉を出した。
兄弟のいない降谷にはよく分からないけど、仲が良い兄弟はそういうものという認識をすべきなんだろうな、きっと。あまりわからない感情にでも、降谷は無言でこくりと頷いた。

「いや、亮さんに心配する事は何もないと思うけど」
「まあ兄貴は僕から見ても、しっかりしてますから。いえ、御幸先輩の妹さんがしっかりしてないってわけじゃなくて。女性ですし」
「そう、それ。可愛いだろ?うちの妹」

ここはもしかして笑うところなのだろうかと、明らかに隣の小湊が戸惑ったのがわかった。御幸はもっと言いたい事があるらしく、まるで気がついていないが。やがて、小湊はその長い前髪に瞳を隠したまま、少しの笑みを浮かべたような気がする。
そうして降谷もふと考える事となる。御幸とその妹は男女の違いはあるものの、整った顔立ちをしているという事に。イケ捕やら何やらと練習中に他校生から言われているのを、遠くで何度か聞いた。あまり興味はなかったが世間的に言えば多分、その妹だから可愛いのだろう。降谷にはあまりその感性に造詣が深くないが、猫可愛がりという言葉は聞いた事があった。
だから、押し黙った小湊の代わりにありのままを言う。

「言われてみれば、御幸先輩にとても似ていると思います」
「そうか。まあ、俺の事はどうでもいいけど。昔から変な奴が寄って来たりしてて、不安でさ」

じゃあよろしく頼むなと、御幸はなるべく軽く言うように努めたように見えた。
その時、降谷にはイマイチ御幸の真意がわからなかったが、小湊は明らかに少し困った頼み事をされたなぁと言う表情をしていた。
正直、高校の先輩後輩という上下関係はもっと厳しいものかと思っていた。青道高校には下級生がやる雑用などは明確に存在してはおらず、日々練習に打ち込める快適な環境が用意されていた。
たまの自由時間に上級生から命じられる自販機へのパシリも降谷には新鮮な感覚ばかりで、楽しいというか野球以外にも必要とされる事がうれしくさえ感じた。降谷は、沢村のようにゲームなどで先輩方に付き合う事は出来なかったし。
だから、先輩である御幸の頼み事もその一環だろうという認識しかなかったのだ。最初は…



◇ ◇ ◇



自由時間といえど、意識の高い部員たちは自主練に励む部員ばかり。この場にいない面々でさえ、宿題などをこなした後は練習場にやって来たりもする。
野球は元々一人で行うスポーツではなく、特に降谷のポディションである投手は捕手が居てからこそ、必要な練習も多かった。自然と捕手である御幸と自主練を組む機会は段々に増えて、受けてもらった後には感想戦だ。まだまだ足りないものはあるからダメ出しばかりだけど、逆に伸び代があるのだと今は前向きに思いたい。
そんな中の雑談の一部として、その話は割り込まれる。

「そう言えば俺の妹、最近どうしてる?」
「御幸先輩。今日の昼、うちのクラスに来て妹さんと話をしていませんでしたっけ?」
「いや、そうだけどさ。今日は移動教室で慌ただしかったし」

一学年下とはいえ、階が違うのに何かにつけて、御幸が妹に会いに降谷の教室にやってくるのは既に当たり前の光景となりつつあった。
わからないけど。もしかしたら自分が良く知らないだけで、小湊も兄の教室に行ったりするのだろうか。とはいえ、寮生同士ならば部屋を行き来する方が早いかもしれない。ただ漠然と、兄妹が仲良い事に越したことはないのではと思うだけだ。なにも悪いことはない。

「何か変わった事がなかったか?」
「そう言えば…男子生徒に呼び出されていました」
「は?どんな奴?」

明らかに声色の変わった御幸へ、こういった報告をするのはもう何度目かであった。
今日は直接の呼び出しだったけれど、机の中に手紙が入っていたり人伝てだったりと、まあ色々だ。いくら恋愛ごとに疎い降谷でも、世間一般的に言ういわゆるモテているのだろうなと思う。御幸自身がわりとそうで、降谷でさえ何度か呼び出しのタイミングに遭遇したのだから。しかし、そういうのは全部断っていると、一年生の中でさえ噂になっている程だった。
決して風上に置けない自身など忘れて、御幸は妹に言い寄ったと思われる男の事を問いただす。少しの剥き出しになった感情がぶつかる様子を見せるのだ。
だから、全部律儀に言った。さすがに授業中などで寝てしまう時は分からないけど、わかる範囲での逐一報告。
全てを伝えた後に御幸が何をしているかは知らないけど、兄妹仲はそう悪くないように見えたから、きっとこれでいいのだろう。

「いつも、ありがとな。助かるよ」
「いえ、大した事じゃないですから」

この時だけは、ふわっとした表情を御幸は降谷に見せてくれる。免罪符にもならないのかもしれないけど。
御幸の妹は野球部のマネージャーとして、降谷も部活の庶務連絡受ける事もあった。
聡明さは御幸に似ているようで、さすがに何かを察したらしく、いつも兄が迷惑かけてごめんなさいと頭を下げられた事があった。降谷としたら、部活でいつも御幸に迷惑かけているのはこっちなのでは?と思うから、そう答えておくのみだったが。それ以上でも、それ以外でもない。
一度は小湊にも聞かれた。御幸と何を話しているのかと。妹さんの報告をしていると、同じように先ほど御幸へ伝えたことを反復したら。そんな事まで?と驚かれた。降谷としたらありのままの事実を述べたまでだったのだが、違うのだろうか?わからない。
だから一応御幸本人にも確認しておく。

「心配をするものなんですよね、兄妹って」
「あれ、お前は兄弟いねぇの?」
「いません、一人っ子です」
「そっか。まあ、俺の家は母親を早くに亡くしたから余計に気になるというか」
「そうなんですか、知らなかったです」
「余計な気づかいされるの嫌だから、あんまり周りには言ってないけど」
「それって僕だけが知ってるって事ですか?」
「あー、多分な。お前、言いふらしたりしなそうだし」
「絶対に誰にも言いません」
「だからな。お前も離れているからこそ家族は大切にしろよ。きちんと連絡取ってるか?」

はい、と黙然人のように降谷は返事をした。本当は野球に専念したいので、あまり連絡を取る気はしていなかったのだが、建前上。
その時、家族を大切にしろよという忠告より、自分だけに明かしてくれた御幸のプライベートを知った事の方に意識を取られ、胸をずっと占めていた。



◇ ◇ ◇



いわゆる御幸のシスコンは、瞬く間に部内で有名になった。
別に本人は全く隠していないし、否定もしない。その事を恥ずかしがったりもしないから、周りは一歩気後れしていたのかもしれない。堂々としている方が手に負えないという典型例だ。
どうやら中学の時に妹さんに、しつこく求愛してくる者がいて、大胆なアプローチやらストーカーなどをされたことあるのが、この悪化の原因らしい。
今ストーカー紛いをやってるのはお前の方だろと2年の同級生が茶化すようにつっこんだが、御幸にはまるで響いていなかった。この件に関しては引く気はまるでないらしい。
妹に迫ってくる相手になんらかの妨害活動を行なっているらしいが一応スポーツマンなので、非人道的ではないだろうくらいにしか降谷は感じなかった。
ただ御幸が意識を割くのは野球と妹の事だけで他には余裕なんてない、その事だけは今後もずっと引きずる事となった。

「まーだ、牽制足りないのかな」
「十分だと思いますけど」

そんなやりとりが発生したのは、また何度目かの男性からのアプローチを妹さんが受けていると報告をした自由時間である夜だった。
気苦労する御幸とは裏腹に、もはや降谷はその事象を当然のような繰り返しと錯覚しつつあった。もちろん向かってくる男性は毎回違うのだが、野球関係者以外の男子生徒にあまり降谷は感心がわかない。

「お前からしたら他人事だろうけど、こっちは気が気じゃないんだって」
「すみません、あまり興味なくて」
「まあ、いいよ。そんなお前だから色々言いやすいってのもあるし」
「なにか…御幸先輩の力になれる事ってありませんか?」
「なんで、そうなるんだ?」
「いつも無理言って、球受けて貰ってますし」
「なんだ、それか。
この件に関してはきちんと報告して貰ってるし不満なんかねえよ。さっきのは八つ当たりだ、気にすんな」

自分のピッチングの乱調や出来で方々に迷惑をかけている自覚はあるが、その最たる相手は間違いなく御幸だった。原因でもある野球以外で恩返し出来るものなんて降谷にはまるで思いつかず、漠然と提案してが跳ね除けられてしまった。
降谷は知っている。最初に呼び出されたのは二人だったが、もう小湊は多分御幸から何も声がかかっていない。降谷が何でも全部言ってしまうせいなのか、小湊の気質のせいかそれはなんでだかわからないけど。だからこの話を明け透けなく、御幸が出来る相手は多分降谷しかいないのだ。それが、一歩踏み出したくなった原因でもある。

「あー もし、彼氏が出来たとか聞いたら、ショックでどうにかなる自信ある」
「どうしてですか?」
「お前なー わかるだろ?大切な妹が見知らぬ男と付き合うんだぞ?想像するのも無理だろ」

寮生活の部活で忙しいから見張りも出来ねぇしと、御幸は愚痴りながら言葉を続ける。がしがしと少し、その頭をかく仕草まで入れた。
別に降谷に相談しているわけではないが、このもやもやを誰かに聞いて貰いたいだけなんだろう。きっと御幸は降谷に建設的な意見など求めてはいないだろう、だけど。

「知っている人ならいいんですか?」
「何が?」
「だから、御幸センパイが認めた人ならいいんですか?その彼氏っていうのは」
「まあ、そうなるな。そんなのは無理だろうから、弾く方が楽だけど」

そうこう言いながらも、御幸は問題点をつらつらと羅列した。
妹とは一学年離れているせいで、彼女が中学三年時は学校さえも離れていたので余計に心配していたとか。青道高校は私立だからそこそこ生徒数多いし、通学時間も長いから見られる機会も多いとか。心配事には尽きないようだった。多分このまま降谷が声をかけなければ、ずっと話し続けられるほどに。どれもが有りがちと考えてしまうが、本人は至って真剣なので、降谷も合わせる。

「お目付役の兄がいるってだけじゃ、抑制効果に限界があるのかなぁ」
「確かに根本的な解決にはなりませんね」
「あー困ったな。もう少しなんとかなんねぇかな」
「そうですね。じゃあもう既に彼氏はいるって事にしたら、どうですか?」
「は?」

一瞬で御幸は、見るからに怪訝そうな顔をした。降谷が提案する事が意外だったのか、それとも内容が突飛で問題があったのかそれはわからないけど。
こちらは思いつきをただそのまま口にして、単純に思ったのだ。御幸が困っているのだから、と。

「もしかして、エア彼氏って事か?」
「なんですか、それ」
「そのままの意味だよ。
でもそうか。彼氏がいるって設定か。あーでも、そんなに上手く立ち回れる性格してないんだよな、妹は」
「確かに信憑性が難しいかもしれないですね」
「だよな。一瞬良いかもって思ったけど、惜しい、残念。都合のいい奴でもいたら違ったかもしれないけど」
「都合のいいエア彼氏ですか?」
「違う、違う。お前、絶対意味わかってないだろ」
「それって、僕じゃ駄目ですか?」
「は?降谷が?」

ここで改めて降谷という存在の認識をしたかのように、御幸はこちらをつま先からてっぺんまで品定めされるように、ジロリと一瞥した。
その間、妙な間が流れたように、しばらく二人ともに押し黙ったままだ。それは周囲から無口とよく言われる降谷ならばともかく、妹の事となると饒舌になる御幸からしたら珍しい事で、つまり考える間があったのだ。その、ふと口からついて出た言葉に。

「それは、ないない」
「でも僕なら、御幸先輩はいつでも見張る事が出来ますし、いいんじゃないかと」

少し考え込んだ後の御幸の否定に、降谷は畳み掛ける言葉を続けた。この人が悩むなんてところは珍しかったからだ。少なくとも野球のプレイでは自分に困り事なんて言わないだろうから、と。どんなに頑張っても永遠の上級生の間は埋められない。
降谷の言葉に多少の重みがあったのか、確かにと少し御幸は独り言のような声を漏らしたような気もする。
しかし、だからこそ一番に続く大切な言葉があったようで。

「お前、俺の妹のこと好きなの?」
「わかりません。今まで考えた事ありませんし、これからもきっとそうだと思います」
「だよなぁ。北海道からわざわざ来たお前なんて、野球の事しか考えられないよな」

うーんと少し唸りながらも、御幸はその場で一通り悩んだようだった。頭をぐるりとひねる。そして、閃いたのか。
それは完全な独り言で、決して降谷に向けられた言葉ではなかった。この自己完結が全ての始まりだった。

「ま、いいか。少し試してみるか」



◇ ◇ ◇



どうやったかわからないが、もうその翌日には降谷と御幸の妹は付き合っていて、しかもあの兄公認だという捏造設定が部内に広がっていた。
高校内での恋愛話の伝達は驚く程に早く、瞬く間に自分たちのクラスにも噂は広がっていったのだった。
本当にごめんなさい兄が勝手にと、当の妹からは平謝りされる結果となった。どうやら妹の事となると思い込みが激しいのは昔かららしく、迷惑をかけてしまって申し訳ないとまたお淑やかに謝られる。ただ降谷は、御幸先輩も心配をしているだけだから、と軽い賛同の言葉を一つ入れるのに留めた。
この結果、降谷はクラスメイトから何度かからかわれるように真意を聞かれるようになったが、こくんと頷くだけにしていた。いくら冷やかしても普段から無口だからと、やがてそれ以上も聞かれなくなった。一切否定しなかったせいで、勝手に色々と想像の翼は飛び立ったらしい。沈黙は最大の肯定だ。外野の野次なんて関係ないという態度をとっておけばいい。
だから、二人が付き合っているという話は、あっという間に蔓延してしまった。

「でかした、降谷!」
「良かったですね。妹さんの周りが静かになって」
「だな。お前のおかげで、ようやく平穏を手に入れたぜ」

驚くことに効果は抜群だったようで、降谷は屈託のない笑みを浮かべた御幸に満面で褒められた。目に見えてわかる成果にご機嫌な様子だ。幾度となくあった、妹に対する気が抜けない日々からの少しの解放。
野球に関わる平素は飄々とし、腹の底を見せないのはきっと捕手だからこそ思う。降谷の伸びのあるストレートがミットに投げられた時でさえいつも謎の含みがあるのに、ここに来て御幸の本心を垣間見た気がする。
噂は予想以上に覿面だったらしい。詳しくは聞かないけど。とりあえず降谷がわかる範囲でも変な呼び出しや、手紙は目に見えて激減したと思う。
結果的には良かったのだと感じた。御幸の妹からも兄からの妙な勘ぐりが減った。ありがとう。でも本当に他に付き合いたい子が出来たら、直ぐに言ってねという言葉を貰えたし。相変わらず兄妹仲は良いままではあったが、逆に自分の事で兄である御幸が右往左往することを気に病んでいたみたいだし。一応、束縛という奴だろうか。降谷は体験した事はないからわからないけど。
これでみんなが幸せになった。降谷は、黙っているばかりでほとんど何もしていないのに。

「そう言えば、妹さんの名前って珍しいですよね」
「お前、今更かよ?」

笑いながらも、呆れられる顔をされた。
二人の雑談は自然に増えた。野球以外にも心を開いてくれるようになったのかどうかそれはわからないけど、妹関連の話は全部降谷に集まるようになったのだ。きっと、色々と喋りたかったのだろう。自慢の妹さんを。なにかにつけて二言目には妹の話だったが、腹の底から上機嫌な御幸を見れるのはここだけな気がした。かわいい妹の話をする御幸は、なかなに饒舌だったから。

「苗字と音の響きは全く一緒なのは、たしかにややこしいな。昔は妹も、からかわれて嫌がってたし」
「覚えやすくて、いいと思いますけど」
「そんな前向きに言うのはお前くらいだよ」
「でも、クラスメイトに《みゆみゆ》ってあだ名で呼ばれたりしてますよ」
「誰が呼んでるって?」
「もちろん女子生徒です」
「よし、ギリ許す。
なんかさー 昔、結婚すれば苗字変わるから、結婚したいとか言い出した時もあって、もう忘れてくれればいいけど」
「親御さんが名付けたんですよね?」
「そう、母親が好きな漫画のタイトル。聞いたことないか?結構有名だと思うんだけど」

ああ、と。エンタメ全般に興味が薄い降谷でさえ耳にしたことがあるので、頷いた。自分達の親世代に流行った話だったのかと。その作者が普段良く描くのが野球作品であった事が、降谷が偶然にも知っていた一様でもあった。

「あんまり詳しい話は結局聞く機会なかったけど。前々から娘が産まれたらその名前にしたかったみたいで、まさか嫁ぎ先の苗字まで一緒とは思わなかっただろうけど」
「御幸って苗字、やっぱり珍しいんですか?」
「お前、それも今更すぎ」
「でも僕はそれで良かったです。御幸先輩を間違いなく見つけられましたから」

今も前もこれからも降谷は、御幸を目印に進んでいくのは変わらない。
トクベツな名前なのだ、それは。今も、これからも…



◇ ◇ ◇



激愛する妹と降谷の偽装交際は認めたものの、流石に二人の間の定期確認だけは怠らなかった。かつては妹に言いよる野郎に特に向けられていたシスコン気質が、降谷に直撃する結果となる。疑いの目が、全部こちらにやってくる。御幸からすれば注視する存在が降谷に絞られることになったので、やっぱり楽になったのだと思いたい。
降谷は、御幸が大切にしているものをただ大切にしているだけだ。

「妹に、妙な事はしてないだろうな?」
「妙な事って、例えばなんですか?」
「俺が本当に付き合うのを認めたわけじゃないのは、わかってるな?普通のクラスメイト以上の事は全部駄目だ」
「あ、たまに勉強教えて貰っています」
「なんだって?」

じとりと詰め寄られて、明らかに重く変化する声色があった。一気に御幸の気分が下降するのが、わかった。本当にこの人は、妹の事となるとわかりやすすぎる。
降谷はそれが、そんなに悪い事だとは思っていなかったのだけど、思うところがあるとは御幸なりの線引きが難しいのだなと感じた。

「僕が監督から名指しで追試をきちんと受けるようにと言われてるのを見て、日頃のお礼にと言われてと教えて貰うようになりました」
「そういや、お前の成績ってなかなか壊滅的だったな。それで、よく一般入試でうちの高校入れたな」
「僕の住んでいた地域は雪が降りましたから、練習出来ない時間は仕方なく勉強してました」
「冬場だけの付け焼き刃かよ。それじゃあ今が駄目な理由がわかったわ」
「御幸先輩の妹さん、教え方上手です」
「そりゃな。俺の妹は、お前と違って成績良いし」

ふふんっ。どうだ、凄いだろうと自慢のしたり顔を見せる。御幸がそうなるのも当然の事で、降谷には全く縁のない定期考査ごとに張り出される成績上位者に御幸の妹はいつも名を連ねているらしい。それは御幸からの情報だったから、降谷は直接見てないけど。
そもそも青道高校は、勉強に興味ない降谷が博打のように入れる奇跡が起きるくらいの偏差値だ。物凄い難関なわけでも、底辺なわけでもない。御幸の妹は中学時代から成績が良かったが、野球部のマネージャーをしたいという理由でここに入ったから、元々の学業レベルは高かったようだ。

「でもな。妹にお前の勉強を任せるのは…ちょっとな」
「じゃあ御幸先輩が僕に教えてくれるんですか?」
「無茶言うな。俺の成績は妹ほど良くはねぇよ。練習で忙しいし。それに一つ下の勉強を詳細に教えるのは無理だって」
「そうですか。残念です」
「ていうか、自力で何とかしろよ」

と言いつつも、でもだめかお前一人だといつのまにか寝るし。御幸は、こちらを打っても響かないと思っているようで独り言をいくらか呟く。少し頭を悩ませたようで、その狭間に揺れる天秤を見ているようだった。それが興味深いと本人に伝えたら失礼だろうから、考えるだけに留めるけど。
降谷は自分の事なのに、まるで他人事のようにその様子を見ていた。そんな事より自分のことを御幸が考えてくれる事の方が重要だったから。じっと見つめても文句を言う事もないし。

「妹さんからは、人に教えるのは復習になるからと言われました」
「そうかもしんないけど、甘えんな」
「一応付き合っている設定なのに、休み時間さえ喋ったりしてなかったので、周りに本当に付き合ってるの?と聞かれました。だから今は喋る代わりに勉強教えて貰ってます」
「うーん。確かにそうだな」
「他に話す事ないですし」
「まあ、それくらいは、いいか。お前の追試で、練習時間削られるのこっちも困るし」

渋々と言う表情ではあったが、ようやく御幸は降谷への勉強にゴーサインを出した。
勉強が出来なくて良かったと思ったのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。これを知られたら怒られるとわかっていても、抱く感情があった。

「他には変な事すんなよ」
「具体的に何が駄目なんですか?」
「そうだな、手を繋いだりとか」
「したことありません」
「なら、いい」

よしっと、まるで部活の点呼みたいに言われて、御幸はほっと安心したようだ。こちらはまるで犬扱いだが、別に嫌ではなかった。
きっと御幸は降谷に、背のでかい妹のガードマンを求めているだけなのだろうから、と。こんな事でも必要とされる事が、ただ嬉しかった。
コミュニケーションが苦手な降谷には、本当に御幸しか居なかったから。





◇ ◇ ◇





そんなこんな曖昧が何だかんだと、二年間続いた。結局のところ、この間柄への執着心の薄さが降谷と御幸の妹が薄そうに接したのが、一因だろうか。
御幸は、妹に関する事にだけは驚くほど本心を曝け出した。心の一番弱いところを曝け出すから、降谷も諦めきれなくて先延ばしにする声を出す。ずるずるとこの関係はあって、御幸もまさか続くとは思わなかったかもしれないが、いざのやめ時を誰も言い出さなかったのだ。平穏無事の慣れとは怖いものだ。

最初の転機が訪れたのは、御幸の卒業直前。三年生は自由登校が増える最中の日だった。夏に引退はしたものの、 変わらずの定期連絡は怠らずにいた。部活に顔を出す頻度の下がった御幸も、前のように騒ぎ立てる回数は減った。
久しぶりに降谷のクラスに御幸がやって来て、妹さんは今いませんと伝えようとしたところ、自分を手招きされた。御幸についていくように渡り廊下を歩きながら喋る。

「降谷、ご苦労さん。妹の事は悪かったな。今まで助かったよ」
「僕は特になにもしてないと思います。逆にずっと勉強教えて貰いましたし」

さすがに何となく察する終わりへの言葉は、想像以上に突き刺さった。
盲目的に御幸を慕っていたわけではなかった筈が、高校の先輩だからこそ先に旅立つ事を最初からわかっていた筈なのに、いざ御幸からそんな言葉が出てくると勝ち負けで引退が決まった部活の時よりも、神妙になった。
きっと御幸に一番目をかけても貰った。こちらこそ、お釣りでは足りなさすぎた。楽しかったのだ、嬉しかった。そうして、この奇妙な関係がどこまでも続くものではないと突きつけられた。

「今度こそ、お前もきちんと彼女作れよ?」
「御幸先輩だって、いなかったじゃないですか」
「妹より大切な相手なんて、いねーよ」

冗談なのか本気なのかわからない口調で告げられる。それは、どこまでも真剣に取り組む野球ともまた違う言葉なのがわかった。トーンが普段より幾分か柔らかいから。はにかむような顔もいつもなら、妹にしか見せない表情だ。多少倫理を崩壊している自覚があるようだが、あるからこそ不味いのかもしれない。
あれだけ生活の全部を野球に捧げている面々が、普通の彼女なんて無理と思うのは道理なのかもしれない。偽装とはいえ、降谷のような気薄では長続きするわけがない。

「やっぱり御幸先輩が卒業したら、付き合ってるって設定はやめるべきですか?」
「ん?まあ、俺だって長い間迷惑かけたなーぐらいは感じてるよ」
「僕は、別に嫌じゃなかったです」
「なに、お前。やっぱ、俺の妹の事好きになったの?」
「いいえ。とても良い人だとは思いますけど、それ以上はなんとも思わないです」
「あー、お前はそれでいいんじゃね?」

「僕と別れたら妹さん、また大変になるかもしれませんよ。もう先輩も学校に居ませんし」

高校卒業後、御幸はプロへ進む道を選んだ。オフはともかくシーズン中の制限は今以上であろう。また結局寮生活へ舞い戻るのは口惜しいと言っていた。
自分で選んだとはいえ、御幸は野球以外の唯一の執着である特別な妹の動向に一喜一憂している。そのことはきっと一生変わることはないはずで…

「お前、本当にそれでいいのか?」
「はい。構いません。御幸先輩が心配するような事はしません」
「逆に驚くんだけど。有り難いけど、俺から見て贔屓目差し引いても出来た妹なのに何で好きにならないんだ?」
「それって、矛盾してませんか?色々と」

御幸自身も馬鹿な事を言った自覚があるのか、少しの騒ぎ立てに留まる。だからその困難の最中に、とうとう降谷は言うべき事を伝えるのだ。その本人に。

「僕、ずっと前から好きな人がいますから。御幸先輩の妹さんを好きになる事はないと思います」
「だったら、そいつと付き合わないのか?」
「無理です。僕の好きな人には、もう好きな人がいますから」
「マジかよ。お前がそんな茨の道を進む奴だとは思わなかったわ」
「いつか、先輩にも本当の僕をわかって貰える日が来ると思います」

そこまで言うならと。じゃ、しばらくよろしく頼むわ。そっちが上手くいきそうなら、声かけてくれよ。お前も野球ばっかじゃなくてさ。と御幸は言葉を続けた。楽な道が敷かれたから、受け入れただけの気持ちだったのかもしれない、それでも。
降谷は最終的にはその信頼を勝ち取ったのだ、適任を。

またしばらくの平穏を手に入れた。三人ともに。
それが束の間だと、いつか感じる未来など、気がつきもせずに。





◇ ◇ ◇





定期的に御幸に妹さんの近況報告をメールする以外は、降谷の高校三年の生活は変わらなかった。結局許しを得たので、相変わらず付き合っているという噂は否定しなかったし。
デートなどしないし、野球の練習はやろうと思えばどこまでも忙しい。もちろん一度たりとも手は繋がないし、別に御幸の言いつけを律義に守ったわけではなく、本当にそれに関しては興味がまるでなかったのだ。
御幸と言えば、球団寮規定の月に一度の外泊許可のたびに必ず妹に会いに来ていた。そしてシーズン中は難しいが、オフの間はこまめに学校にもやってきていた。あまり干渉するとウザがられるのを心配して、あくまで一学年下の降谷たちの様子を見るという建前だ。
降谷も御幸と同じく支配下のプロ入りを目指したので、夏の本戦引退後も部活に顔を出したり自主練をしたりとストイックに過ごしていた。忙しさは現役時代ほどではないけど、祖父の実家から通うよりはと三年生専用寮に入ったので、なにも変わらない。
降谷は野球してる時でさえああいう感じだからと、普通の付き合っている二人とは違うという認識をどこまでもされた。


そして運命のドラフトを経て、降谷は御幸と同じ球団に属する事になった。12分の1をその手に掴み取ったのだ。



「ようこそ、歓迎するぜ」
「御幸先輩。またよろしくお願いします」

在京球団であっても二軍のグラウンドは別に存在しており、東京に寮のある球団はない。御幸と降谷が所属する球団も、首都圏近辺という立地だった。河川敷と揶揄されるプレイするグラウンドはともかくとしても、寮自体のトレーニング設備などは充実しているし寮費も格安だ。一つ上の御幸が未だにここにいるのは、大卒なら二年、高卒なら最低四年は在籍義務があるせいだった。門限など制限が存在する寮生活を煩わしいと感じる選手もいるようだったが、高校時代も寮生活をしていた降谷にとっては、相部屋でなくなっただけでも快適を感じる程なので気にならなかった。
またこの関係が、スタートした。御幸先輩は偶然だと思っているかもしれないけど、降谷にとって、これは必然なのだ。

「また、お前と一緒に野球する羽目になるとはなぁ。いつも連絡取ってたから、新鮮味ないけど」
「これから、もっと先輩に面倒見てもらうと思いますよ」
「生意気。まずはファームで成績出してから言え」

入寮したばかりの談話室の傍ら。ドラフト指名で鳴り物入り入団した降谷ではあったが、人間関係の構築は昔と変わらず上手くない。高校時代から新聞や取材で散々その前評判はあったから、周りもそういうものだろうと諦められている。仕方なく御幸がまた手を焼く結果となった。
と言っても粗方、野球の話題を語り尽くすと、昔のように始まる話があった。

「あー、本当。妹の大学での生活、心配だわ」
「妹さん、確か女子大でしたよね。共学だった高校時代よりはマシなんじゃ」
「大学は高校より遥かに自由なんだよ。夢のキャンパスライフなんて消え失せろ」

机に軽くうつ伏せになりながら、見えない空への恨み節を呟いていた。
だからこそ降谷は勝手に続けていたものを知り得ない。御幸に、その事象が赤裸々に明かされた場所は移り変わった。



◇ ◇ ◇



「は?降谷、なんでここにいるんだ」
「御幸先輩が、外泊申請出していたので」
「なにお前、ついてくるの?」
「いえ、あとは家族水入らずでどうぞ。僕はいつも通り、妹さんを駅まで送って行くだけです」

見事に鉢合わせたのは、御幸の妹の大学の前であった。別に狙ったわけではなくルーティンという偶然だ。
高校卒業後も、降谷は時間があれば御幸の妹の大学の帰り道から実家へと続く駅まで送るようにしていたのだ。御幸には別段告げた事がなかったから、今知ったみたいだが。

「なんでそんなことしてるんだ?」
「御幸先輩が妹さんを心配していたので、今までも何回か送っていますよ」
「もしかして、高校の時に言った付き合ってる設定まだ続けていたのか?」
「辞めろとは言われてませんから」
「確かに言ってねぇけどさ。自然消滅したんじゃねえの?」
「僕が送り迎えするようになってから、合コンの誘いが激減したらしいので」
「合コン!?」
「はい、聞いてませんか?」
「知らない、聞いてない。合コンとか、一番許されない事だろ。迂闊だった」

眼前の心配事に唸る御幸の横で、高校三年間続けていたのだから今更だという顔を降谷は平然とした。牽制役は延長戦に、入りつつあった。御幸がなあなあにしたからこそ、続けるべき事項なのだ。自然に振舞う事で、自分以上の適任はいないと感じさせる為に。

「僕の方も、この関係に都合が良くなりました。プロ入りしたら、周りがうるさくなったので」
「なんだ。もしかして女子アナとかにいい寄られたのか?」
「そんなところです」
「ま、それは通過儀礼みたいなもんだから、仕方ないな」
「先輩はズルいです。妹さんがいるからって、女性の誘いを全部断っていますよね?」
「だって、事実だし。野球と妹が心配でそれどころじゃないんだよ」

あー早く実家帰りたいと御幸は呟く。理由は妹がいるからというただ一つ。それで良かった。





プロでも相変わらず妹の話を堂々と出来るのは、事情を知っている降谷だけだった。
女性からモーションかけられても。俺、シスコンだから無理と謎に男らしく断っていた。えっ、それ大丈夫?かと周囲にいくらドン引かれても、その妹とは降谷と付き合っていると言えば納得されるようになってしまった。
win-winだ。便利だなと、どこまでも重宝がられた。
降谷の方も頻繁にある飲み会の誘いも、御幸先輩が行くなら行きますという常套文句だったから余計に。そもそもその飲み会でさえ、例えばこの前駅まで送って行ったら、妹さんが合コンの約束があるとか言えば、ちょっと乗り込んで来るわと言い始めるから、相変わらずだった。僕も行きますとそのまま後を追えばいいし、何の問題もない。
ただ、御幸の妹の箱入りに拍車はかかった。

「先輩はよく許しましたね。僕と妹とさんの関係」
「あー、まあ俺お前の事少しは認めてやってもいいって思ってるし、気に入ってて好きだからさ。ちょうどよかったというか」
「僕も、先輩の事が好きです」
「おーありがとな」

飲み会の傍ら、酒に興味ない降谷は相変わらず御幸の隣にいた。御幸は随分と度数の高い日本酒を煽ったせいか、いつもより上機嫌で軽く見えた。だからこそ触れた話だったのに。
軽く流されるのは、きっと前後の文脈が悪かったのだと思う。それでも御幸から、その言葉を引き出す事が出来ただけでも良かった。今は、今だけだは。

「お前、案外スペック高かったんだな。毎日見てるからわかんなかったけど」
「背は伸びましたね」
「違う、違う」
「もしかして褒められてますか?野球以外で」
「たまにはな。客観的な意見って、やつ?」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「そういう顔は美人相手にしてやれよ」
「無理ですね。それに御幸先輩の方が、人気あるじゃないですか」
「お前は全然愛想ないのに、その人気は凄い事なんだぞ」
「そうですか」
「はい、塩。まあ、そんなお前だからいいんだよな。時々ビックリする事言うけど」
「そろそろ慣れてください」

御幸は初めて会った時から変わらなかった。野球と妹とそれ以外の話題には興味なくて、付け入る隙なんかなくて、だからそろそろ変わって欲しかったのだ。
降谷はもう最大限まで御幸に歩み寄った。そそこそ必要以上に踏み込んで、距離感なんてなくなるほどに、でもあと少しが足りない。

「そいや前さ、お前好きな人いるって言ったよな」
「はい」
「変わらず努力してる?」
「しました、たくさん」
「おっ」
「でもまだダメみたいです。これからも頑張ります」
「前向きだなー」

倫理が壊れている事に気がつくのは、どちらか。
きっと降谷は一生自覚しないし、それでいいと思っている。





どこの球団も捕手不足は叫ばれていて、特にブルペン捕手は慢性的に必要な関係で御幸は早くから表舞台に顔を出していた。年齢だけではなく、常に一歩先を歩んでいる気がする。
ファームで成績を残す。
一軍に合流する。
ただ、先を行く御幸の後を追うように、降谷の年月は流れて行く。
あっという間に三年の月日は駆け抜けていった。季節は移り変わる。
結局は高校からの可愛い後輩という立ち位置を、どこまでも崩さない事に努めたし、御幸からもその扱いを受け続けた。





◇ ◇ ◇





「御幸先輩、なにしてるんですか?」

球団寮の馴染みの御幸の部屋。
ノックして声をかけると、なんだ降谷かといつもの声が返ってきたので挨拶もされずに入室する。相手が降谷だからか、あまり気にされず御幸の作業の手は着々と進んでいた。こちらを振り返りもせずに、なにやら荷物を分けながら段ボールに衣類を詰め込んでいる。

「部屋の片付けしてんだよ」
「去年の年末大掃除の時に、していませんでしたか?」
「退寮申請が通ったからな。今月末にここを出て行く準備だよ」
「ここを出て行くんですか?」
「そう、言ってるじゃねぇか。今月でまるまる四年になるんだ。満期だからな」
「どうしてですか?」
「んなこと言われもな。次のドラフトルーキーが使う部屋を開けないと。お前も俺もそうやって先輩たちを退けて入寮して来たんだし」

俺は自由だ!と軽く騒ぐ御幸がいた。きっと彼のなかでは当然すぎる事象なのだろう。その実家に帰るという事は。
高校三年間も寮生活をしていたから、実に七年ぶりという事にもなる。車の運転も本格的にできるし、都内ではない寮より実家の方が一軍の球場近いという利点もあった。

「じゃあ、僕も出ます。出たいです」
「お前、寮生活快適って言ってなかった?」
「そうですけど。もう御幸先輩居ませんし」
「お前、友達いないからな。寮に名残惜しいとかないのか?まあ俺もだけど」
「今から申請しても間に合いますよね?」
「というか、お前あと一年残ってるだろ。まだ三年しか居ないんだから」

退寮にはいくつか条件があって、御幸のように高卒四年あるいは大卒二年を過ごすのが一般的だ。
あとは早く成績を示した者とか。今季、残念ながら所属球団の成績は芳しくなかったが、個人成績に集中出来たおかげか順当以上に降谷は結果を残していた。
しかしこの球団寮自体を比較的最近改修したから、寮の定員がいっぱいなわけでもない。特例を上げるとキリはないが、いくら先発ローテに入り投手成績がいいからって、すんなり申請が通るのか?と御幸が目の前で首を傾げている。
だから、御幸の頭の懸念になかった事柄を、降谷は告げる事とした。

「結婚すれば退寮を認められるんでしたよね」

投下した言葉は、十分すぎる爆弾だった。
御幸が片手に何気なく持っていたウインドブレーカーは、そのままに段ボールへと落下したし、身体はどうしようもなく降谷の方を向いた。
野球以外で本当の意味で対峙するのは、これが多分初めてだ。

「お前、誰と結婚するって?」
「御幸先輩の妹さんと」

間髪入れずに降谷は問いかけに答えた。まるで余計な事を考える暇さえ与えないようにと。
御幸の、捕手として冴え渡る思考全てがこの事で埋め尽くされるように、簡潔に。

「お前、妹に何かしたのか?」
「いいえ。御幸先輩の言いつけ通り、手さえ触れたことないです」
「それでどうやって?」
「多分受け入れてもらえると思います」
「そりゃあ、妹からお前の話題も結構出るけど、その自信の根拠はなに?」
「御幸先輩が妹さんを大切に見守って来たからこそ、余計な事は必要ないと思いました」

正気かと御幸はしばらく目を見開いたまま、押し黙った。降谷が、もしかしたら自分の義理の弟になるなんて実感はいつまでも沸かないようで。今の状態とあまり変わらない筈なのに、それでいいと思わなかったようだ。突然、降谷が最後のラインをぶち破ったから。でもこっちはずっと機会を伺っていたのだ。そこへ至るまでの。

「なんなら、今から結婚の申し込みしてきましょうか。不安なら御幸先輩も同行してください」
「ダメだ!」

強い言葉だった。ここ一番の比較にならないほどの。ようやく御幸の剥き出しの感情を直にぶつけられた。
正直まだ申し込んでいないのだから、結果はわからない。だったら行動は一つしかないというのに。

「何がダメなんですか?」
「それ、は…」
「妹さんが結婚するのが嫌なんですか?先輩は妹さんに幸せになって欲しいんですよね。これで僕が当たって砕けたら、それはそれでいいじゃないですか」
「…もし、断られたらどうするつもりだ?」
「もう妹さんには一生近づきません、それだけです」

決定権は、この場に居ないものに託されている。それだけは、どうしようもなく降り注ぐ。降谷の考えは最初から一貫していて、その成り行きでなったのがこれだった、だけだから。降谷の行動原理は昔から、ただひとつなのだ。そう…御幸の心を蝕んで、待ち続けた。

「俺とお前の関係はどうなる?」
「変わるかもしれません。だから、嫌ならよくほかの男子生徒にやっていたように排除すればいいじゃないですか、僕も同じように」
「そう、簡単に割り切れるものじゃない。お前は…俺にとって、」
「戸惑う理由が妹さんだけではないなら、はっきり言ってください。
僕は、御幸先輩の言葉に従います」

御幸が言い淀む理由、妹と以外の。それが、どうしても欲しかった。唯一の光明なのに。降谷はただ一途なだけで、御幸が相手なら多少は遠回りか必要だと思ったのだ。
しかしどれだけしても、御幸は苦渋の顔を崩さないまま、二の句を告げられない。いつのまにか握りしめた拳を解くこともせずに。もちろん困らせたかったわけではない、認識をしてもらいたかったのだ。一人の男として自分という存在の。

じゃあ失礼しますと降谷は一人、御幸の部屋を後にした。向かう先があったから。
ようやく、ようやくだ。安寧を壊す日を待っていた。ここに来て降谷はこの関係が長く続きはしないことを御幸に自覚させて、突きつけた。そして最後の一歩を踏み出す。

もし、ここでいつものように妹が好きか?という何度目かの問いかけを御幸がしてきたら…降谷は、御幸の言葉に初めて嘘をつけただろうか?
変わらない筈の確認作業は、もうない。
それは本当に妹の為だったのだろうか。

好きな人の好きな人は好きですか?





◇ ◇ ◇





御幸相手には表面上、当たって砕けてしまえくらいの冗談で行くつもりだと伝えたが、無論そんな訳はなく。だから降谷は、野球以外で初めて本気を出して御幸以外の人間と向き合ったのかもしれない。
その申し込みは一切難航せず、話はトントン拍子に進んだ。決め手は御幸が許してくれそうな男は降谷しかいない、だったが。結局、御幸からしたら自業自得になったのだ。世間的には、高校時代からずっと交際しており、高収入なプロ野球選手との結婚ということでなんなく祝福された。
目的の退寮も叶った。御幸と同じ日に出て行く鉢合わせは存在せずとも。

降谷は、結婚式で初めて彼女の手を握ることになる。白い、降谷には白すぎると感じるシルクの手袋越しに、ゆっくりと儀礼的に。それだけだ。やはりこの期に及んでも、感情がざわめくことはない。どこにそんな気持ちを置いていってしまったのだろうか。子どもの頃から、降谷の胸を掬うものは限られすぎていた。
教会式は、規定通り淀みなく行われる。ステンドグラスから差し込む七色の光は厳かに降り注ぐ。御幸の父親に手を引かれた花嫁の入場からの誓いの言葉。指輪交換。案外呆気なく。拍手に歓喜。そして、どこまでもあたたかい祝福の言葉が流れる。
結局、教会でさえきちんと笑みを浮かべられなかったかもしれないけど、降谷だから仕方ないと周りが盛り立ててくれた。べつに本当に友達がいなかったわけではないと思う。ただ余りにも降谷はひとりの相手しか眼中になかっただけだったと、この時に気がついた。
ブーケの行き先は知らない。

「新婦のお色直しの退場です」
明るい音楽の流れるアナウンスを経て、退場までの扉へエスコートすると、披露宴の壇上には新郎である降谷一人が取り残される事となった。この日の為の撫で付けた髪も崩れないし、洋装のお色直しは新郎である降谷にはあまり興味なかったのでそのままだったが、新婦はドレスの色替えだ。この後、再びある和装へのお色直しは流石に同行するが、ようやく堅苦しい最中から一息つけることになる。
が、直ぐに高校時代に部活に共に励んだノリの良い面々が一気に押しかけて、茶化したり写真を撮ったりと容赦なくはっちゃけて騒がしさは一番だった。その後も所属球団の面々が来たりと何度か波があった、だから彼が来たのは最後だった。
新婦側の親族に当たるから常に一歩引いていたが、沢村や倉持たちに冷やかし半分、背を押されて渋々やって来たという装いだった。御幸家の紋付袴の和装姿という体裁は取り繕われている様子で。
ちょうど自分の両親たちが、お酒をつぎに各テーブルを回り始めたのが見える。連れてきたというのに、かつての部活仲間は慌ててそれを受ける為に自分たちのテーブルに戻っていってしまった。

「お久しぶりです」
「ああ」

あれ以来、降谷と御幸は事務報告以外あまりマトモに話さなかった。別に降谷の方はそんなつもりなかったが、御幸の方が明らかに避けされていたから。周りは、大切な妹が取られるのが嫌だから仕方ねぇなぁと笑いながら茶化していたが。それ以外の思いなんて、本人しか知り得ない筈だ。
ここに来てようやく御幸も腹を割ったようで、一つ息を吐いてから懐かしい表情となる。ああ、いつもの。降谷が馴染んだ御幸がいる―――

「立ち話もなんですから、少し座りませんか?」
「おい、そこかよ」

降谷が指し示したのは、この場で唯一空いている新婦の席だった。他のテーブルから気軽に持ち運べるような椅子はないという、有無を言わさないようにと強く、並び座るように促す。

「さっきまで妹さんが見ていた風景、気になりませんか?」
「まあ、少しは」
「じゃあ、どうぞ」
「…意外とよく、みんなの顔が見えるな」
「ライトがちょっと眩しいです」

案外あっさり座った御幸は降谷の方を見せずに、ただ賑やかすぎる正面をどこまでも見据えたようだった。
先程まで座っていた御幸の親族席は一番後ろだから、少し高くなったこの場の視界は感じ方が違うのだろう。笑顔から察するどこまでも幸せな雰囲気が漂う。

「結局お前だけだったな。俺のシスコンにドン引かなかったのは」
「僕はただ羨ましいと思ったんです。妹さんが愛されているのを見て」
「そっか。おめでとうと言うのはなんか変かもしれないな。これからもよろしくか?」
「御幸先輩は、僕の事を殴らないんですか?」
「随分と物騒な事を言うんだな。ああ、そうか。親父が殴らなかったからか」
「そういうタイプの父親ではないとは聞いています」
「俺と違って寡黙だからな。お前とは気が合うかもしれない」
「僕と御幸先輩が合わないなら、どうぞ殴って下さい。まだシーズンオフ中ですし」

御幸の父親は職人気質で物静かで、熱血なタイプでもない。結婚の承諾をもらう挨拶に伺った時も、言葉少なかった。だからといって別に降谷を歓迎していないわけではなく、御幸の妹からはいつものことだから気にしないでと言われた。もちろん何度かその後も二人きりで話をする機会はあったが、一人娘の結婚相手に対する男親の通過儀礼はなかった。その事くらいは仲の良い兄妹だ。伝わっているのだろう。
故意か無意識か、別にそういう意味で降谷は御幸に手を挙げる事を望んだわけではなかったが。

「シーズンオフだろうが、投手に手は出せねーよ。俺も手痛くなるし。
そもそもその資格はきっと俺にはない」

ここに来ても、あくまで御幸は降谷のチームメイト。先輩後輩の立ち位置を変えなかった。ちょうど良い距離感を取ろうとしているのがわかる。
すっと胸が冷えて、そうですかと。降谷は独り言のように真正面を向いたまま、呟く。
御幸先輩がそのつもりなら、と。息を一つ吸い込んで、続く言葉を試し出した。

「御幸先輩は、妹さんの名前の由来になった作品、読んだことありますよね?」
「突然どうした。まあ軽くなら内容覚えてるけど。主人公が、二人のみゆきの間に揺れるラブコメだろ?」
「その作品の結末も思い出せますか?」
「妹の結婚式で、血の繋がらない兄が略奪するんだったかな?言っとくけど、さすがの俺だってそこまではしねーぞ。だいたい名前は一緒でも、俺たち血は繋がってるし」
「わかってます」

高校に入学する時に戸籍の提出が必要だったから、その時初めて見て完全に兄妹の血は繋がっていると当たり前の事、それは妹から会話の弾みで聞いた。確信しているのはそんな事ではない。
これは漫画の中の話でない、降谷の目の前に存在する現実なのだから。

「僕には妹はいませんでしたけど、高校に入って目の前に二人のみゆきが現れたんです」
「それって、もしかして俺と妹のことか?ややこしいな、それがどうした」

未だ話の顛末が想像つかない御幸は、わざわざこの場でするような話なのかと怪訝な顔をした。
高校時代の思い出話は披露宴会場のスクリーンのスライドビューで、いくらでも写真も動画も流された。これで過去の清算はついた。つけたのだ。
これから先の未来へと転がる一石。未来永劫ずっと、だから安心して欲しかった。
ただ御幸の顔を、そして心を見抜くように感受して。



「僕は最初からずっと、一人のみゆきが好きなんです。今でも」



降谷暁は、御幸一也の下の名前を決して呼ばない―――






「…なんで。よりにもよって今なんだよ。なんでもっと早く言わなかった。せめて………」
「御幸先輩にきちんと決めてもらう為です。これで、僕も先輩ももう逃げ道はない」

大切に産み育ててくれた親戚一同、自分たちを導いてくれた高校の面々。そして今、プロとして活躍する球団関係者の一同が集う場。降谷と御幸の人生の縮図の場で全てをぶち壊す決断を、委ねた。
降谷は自分から動かない。それが本当に御幸の為にならなくとも。
これは妹の為か、御幸自身の為か。そんな事はもうどうでも良かった。

「選んで下さい、妹さんか。それとも…」





失礼しますと、会話の最中に式場スタッフから降谷に声がかかる。随分と時間がかかってしまったが、新婦のお色直し終わったので再入場の同行へ向かうようにとの促しだ。
降谷は、すくりと立ち上がる。御幸は直ぐには立てない、その席から。どの道、いつかは去る場だとしても、あまりにも畳みかけられたものがあったから。
結局、早いか遅いかの違いに過ぎなかったのかもしれない。
もう降谷は十分に待ったのだから、それは今更過ぎた。



「待て、降谷」

手を掴まれる。
それは、周囲から見れば何気ない事。実際、ずっと付き合って来た野球の練習では何度もしている程度の触れ合い。
それでも降谷が繊細さを求められる剛腕投手だからと、御幸は一度もその利き手である右手を直接無造作に掴んだことはなかった。御幸が最も大切にしている野球を凌駕する者があったと、その確信から始まって。

それは後ろ手だったので、降谷が引っ張られる方向へ瞬間振り向く。
いつも降谷の真っ直ぐな球を受け止めてくれる、その御幸の左手によって引き止められた事を知った。



それが、全ての答えだった。



「行きましょう。御幸先輩」

降谷は掴まれた手をしっかり握りしめて、御幸に共に立ち上がるように促した。
もう降谷は、きっとこの手以外を繋いだりしないだろう………





















み ゆ き