attention!
嵐迅で、嵐山さんの二十歳の誕生日に迅さんが双子の兄になってあげる一週間のお話。嵐山さんのシスコンブラコンに対する捏造がやや酷くなってます。すみません…









【2014年7月23日 水曜日】



「支部で、あたしのいとこが待ってるから暗躍してないで、さっさと帰って来なさい」
迅の携帯端末に入った小南からのメールが、すべての騒動の発端だった。



その日の夕方、迅はちょうど玉狛支部に戻ろうかと本部基地から繋がる地下連絡通路を歩いていた。だからこそ小南が送っていた連絡はタイミングがいいと言っても過言ではなかったが、一つ気になるのは…小南のいとこという点だった。彼女のいとこといえば迅の友人でもある嵐山准のことだろうが、なぜわざわざ小南経由で迅へと呼び出しがあるのか、それが理解出来ない。試しに嵐山と繋がっているSNSアプリを開いても、そこに未読はないし他の連絡もない。大体、派閥の問題できちんと気の使える嵐山はあまり積極的に玉狛支部には来ない。珍しいこともあるもんだな…と、でももうすぐ支部には着くから着いたら確認すればいい程度の認識でいたので、了解っとそれだけはメールを返した。

「ただいま〜」
支部の裏口から入ると、リビング兼皆が団らんするフロアは目の鼻の先だ。スタスタと歩くと応接室ともなっているソファに、予想通り見慣れた黒い羽根頭が見えたのだが。
「へ?」
回り込んできちんと、そこに座っていた人物の顔を見た迅は間抜けた声を出した。
「やっぱり引っかかったー いつもあたしをだましているから、これで少しは気持ちわかったでしょ?」
そうして、ひょいっとキッチンから飛び出てきたのは小南だった。ふふんっと鼻を鳴らすように腕組みからの仁王立ちでふんぞり返っていたが、女子高生がそれをやっても迫力は少ない。ただ、ようやく迅を出し抜けたということに満足だということだけは十分にわかった。
「「おじゃましています」」
ソファに座りながら軽く会釈をして声をハモらせて挨拶してきたのは、嵐山准の弟妹だった。そう…確かに彼らは小南のいとこには違いなかった。

しゃくりと木崎が切ってくれたうさぎの形をしたリンゴを食べながら、迅は応接ソファの反対側へと座った。どうやらやはり自分に用があるのはこの双子らしい。
「突然、すみません」
まず初めに声を切り出したのは双子の姉の方。確か、嵐山佐補ちゃんって名前だったような…兄である嵐山准がいつも連呼しているので、さすがの迅も覚えてしまった。正直なところ、迅とこの双子は直接的な認識は薄かった。ただ嵐山とはある程度の友人関係を構築しているので、家に行けば見かけて軽く挨拶する程度というか、いや一方的に嵐山が可愛い双子の写真や携帯電話に送り付けてくるとかSNSのアイコンがその画像だとか、そういうレベルだ。
「しばらく見ないうちに二人とも大きくなったね。確か、うちの千佳ちゃんと同い年だっけ?」
夏休みに入ったばかりか二人ともにラフな私服を着ていたが、おぼろげな記憶ではまだ中学生だったような。嵐山の弟妹と玉狛第二のメンバーはみんな同じ中学出身で、後輩である雨取と同学年だったと記憶している。
「はい。今、中三です」
次に答えたのは、弟の方。そう…嵐山副くんだった。男女の双子だから二卵性双生児とはいえ、嵐山の家系もそして従弟妹である小南の家系も顔の造形がとても整っている方だから、きっとこれからもっとイケメンに育つに違いないなと思った。将来は明るい。
「若者の成長は早いな〜」
そう言う迅は今年で二十歳になった。十代で無くなったということは、何だか大台に乗った感がある。自分ではそれ程変わった印象がないから、年齢を重ねると余計にそう思うのかもしれない。兄である嵐山准も迅と同学年なので、五つも年が離れた弟妹が可愛いと思う気持ち、こうやって直接会うとなんだかわかるような気がした。ただ、嵐山が弟妹に対してややオーバーリアクションな事に関しては毎回苦笑するに違いはないが。
「「今日は、迅さんにお願いがあって来ました」」
意図したのかしていないのか判断はつかないが、双子は声を合わせてこちらを真っ直ぐ見据えた。何だが…ちょっとヤバいかも。こういうところはやはり兄弟だ。この真っ直ぐな言い方が、兄である嵐山准とそっくりな気がする。
そう…迅は昔から嵐山に弱かった。性格が相当良い奴だというのはわかるのだが、何事にも真摯に向き合って来るので、いつものらりくらりと自分の本当の意思を見せないように振る舞っている迅とはあまりに正反対過ぎたのだ。だからこうやってしっかり押されると、どうしても勢いに負けてしまいYESと毎回頷いていた。まさかこれが嵐山家の伝家の宝刀だったとは。
「お、おれに手伝える事なら」
ややその二人の意気込みに負けた声を出してしまった気がする。それでも、大抵嵐山が酷い無茶ぶりをしてくることなんて無かったし、その弟妹が何を迅に求めているかはわからなかったが、まあ大丈夫だろうと思っていたのだが。
「実はもうすぐ、うちの兄ちゃんの誕生日なんです」
迅の言葉を受けて双子はようやくその本題を切り出したようで、ややトーンを落としてしゃべり始める。なぜそんな祝い事を、声を下げて言うのかはわからないが。
「あ、そういえばそうだね」
突然、何を言うのかと思えば有り体と当たり前の事で、正直拍子抜けした。嵐山の誕生日は確か夏休み中だった気がする。だから迅は今まであまり大々的に祝った記憶がなかった。まあ自分なんか誕生日が四月の最初の方なので、始業式とか新学期でバタバタしているとあっという間に忘れ去られる方なんだが。別に寂しくないという言い訳。
「ちょっと恥ずかしいんですけど、うちではわりときちんと誕生日のお祝いをする…というか、しないと兄ちゃんが大騒ぎするというか………」
この年齢にもなってという照れもいくらかあるのだろうか。やや、もじもじとしながら嵐山家の実情をしゃべられる。
「うん。まあ、何となくわかるよ」
普通の友人関係ではそれほど重要視するイベントではないだろうが、家族となれば別というのはある程度納得できた。特にこの嵐山家ではそうでもおかしくないと、嵐山の普段の行動が物語っていた。家族のいない迅にはよくわからないが、何だかとっても賑やかになんかやってそうだなと漠然とわかる。
「それで、今回は兄ちゃんの二十歳の誕生日なので、いつもより少し特別な事をしたいなと思って」
普段は若干うざがられているらしいが、やっぱり何だかんだ言って仲の良い兄弟だなと聞こえる。中学生といえばちょうど思春期に当たる筈だが、さすが嵐山の弟妹だけあって素直に育っているなと感じた。
「良い事だとは思うけど、それにおれ関係あるの?」
言いたいことはわかったが、ここまで話を聞いていてもさっぱり自分に繋がらなかったので尋ねる。二十歳といえば特別というのは十分にわかる。だが、誕生日的に迅と一緒に行くような成人式は相当先だし、それ以上に何か?と考えは及ばない。
「実は前々からいろいろ考えていて実行しようとしていたことがあったのですが、私たちの方に外せない予定が入ってしまって」
ここでもう一度、双子は揃って深刻な顔で迅を見てきた。まだ幼いとも言える顔が強張るので何事かと思ったが、迅の方が驚く内容だった。
「えっ、嵐山の誕生日に二人がいないの?」
それは深刻な大事件だと確かに思った。いかにも家族イベントとかを大切にしそうな嵐山にとっては、大好きな弟妹に祝ってもらうということが一番重要なのだから。それは本人不在よりよほどたちが悪いようにさえ思えた。
「いえ。誕生日当日は大丈夫なんですけど、私たち二人とも明日から誕生日の前日まで部活の強化合宿が入っているんです」
ふと壁に貼ってあるカレンダーを見上げれば、本日は7月23日。中学三年生の二人は、各々部活は違えどもバレー部の主将と陸上部の副キャプテンをしていたと嵐山情報で記憶している。つまり大切な最後の大会が控えていると言っても過言ではない。最後の夏休み早々から合宿をするというのは、確かに合理的な事だろう。それには納得言ったが、やはり問題は残された嵐山の方である。
「迅さんも聞いたことあるかもしれませんが、去年の修学旅行で私たち二人が一週間京都旅行へ行った時の兄ちゃんの様子はひどいものでした…」
当時の記憶を思い出し、双子はまだ若いのに苦々しい顔をした。虚ろな目をしてる。ちょっと怪奇だ。
「あーそれ、おれも巻き込まれた」
たかが一週間、されど一週間。弟妹大好きで、どんなにボーダーと大学が忙しくとも必ず自宅に帰り、弟妹から癒しを補給している嵐山のそれが途絶えた時、ひどく落ち込んだ。京都だなんて携帯電話も通じるんだからまだマシだろと迅は思ったが本人深刻なので言える筈もなく、ずっと意気消沈していた。あの時の嵐山は最低限の防衛任務をこなす以外は、ちょっと使い物にならなかった記憶がある。それでも自分たちが中学生の時は第一次大規模侵攻があったせいで修学旅行などのイベントが次々と中止されていたくらいだから、せめて弟妹には学生らしいイベントを満喫させてあげたいという気持ちもあったのだろうが、想像以上に兄は耐えたらなかった。未来は確実に良くなっている筈だが、あの時の嵐山の毎日は壮絶だった。
そうか…その惨事がまたやってくるのかと、確かにそれは予め教えて貰って助かった。ありがたい。
「えーと、じゃあ嵐山隊の面々と忍田本部長と根付さんと…あと大学関係に根回ししとけばいいかな?」
ああ、今回自分への要望はそれかと迅は暗に理解した。自慢ではないが、ボーダー内で顔はそれなりに広いし、根回しはわりと得意な方だ。それをしたって嵐山がどうにかなるとは思えないが、大抵みんな一度はそれを食らっているので事前情報があるとないとではまた違うという。大体、変にリバウンドされたら絶対めんどくさい。だから自分自身に予防策を張る。
「それもそうなのですが、迅さんには更なるお願いがあるんです。兄ちゃんを落ち込ませない為に」
「え?」
双子による新たな意気込みを受けて迅は自然と身を引き、年下相手に丸っきり間抜けな声を出した。その表情には、何らかの確信さえ得ているような風格さえあったから。そして。
「「どうか、兄ちゃんの双子の兄になってあげて下さい!!」」
すっと立ち上がった二人は、頭を深く下げて断言した。これ以上はないと言うほど、その時の双子の声はハモっていた。
「………ど、どゆこと?」
もはや迅には疑問の声をあげることくらいしか出来ない。二人のパワーに圧倒されたということもあるが、ぐるぐると双子の言った言葉が頭の中で回り続けていて、いつまでも理解には及ばない。と、とにかく座ってくれと手でソファを示す。促されて双子は、ソファに座り言葉をつづけてくれる。
「実は兄ちゃんは前々から、自分も双子になりたいから兄が欲しい…とつぶやいていたんです」
「…へぇー」
もはや第三者的な声しか出せない。いや、実際に迅は嵐山兄弟からすれば確実に他人なんだから、それが当たり前で間違ってないよな?しかし兄か。確かに無理難題だ。弟や妹が欲しいというのも両親からすれば困る事項かもしれないが、兄なんて余計に無理だろうと思うのはわかる。弟妹大好きな嵐山が他にも兄弟欲しいって言いだしそうなのが理解できて、それが良いことか悪いことかはまた別問題だが。
「それで、迅さんにお願いするしかないと思いました!」
断言した。断言したぞ、この双子は。何でだ?
「ちょ、ちょ、、、ちょっと待ってね。今、整理するから。……………確かに昔はボーダーもそんなに人がわらわらいたわけじゃなかったから、たまったま同学年ではおれと嵐山しか男がいなかった関係もあって、髪型も似てたから双子だとかからかわれたこともあったよ?確かに。でもだからって、おれが兄になるって相当無理があると思うんだけど…」
情けないことに、わたわたしながら迅はその過去を語る。でもそんなの相当前の出来事で、改めて言われなければさっきまで確実に忘れていた事項だった。大体、迅自身は嵐山と似ているとはまるで思ってない。外野がからかい半分で言い出したのが定着しただけで、今はそんなこと誰も言ってないし。
「迅さんなら絶対に大丈夫です!」
なんだ根拠のないその確信はと即時に聞き正したいくらいの勢いだった。しかし双子は強かった。若いって怖い。
「でもなー」
迅が渋っても双子の真っ直ぐな瞳は微塵も変わらず、引いてくれる感が全くない。やはり兄と一緒だ、この双子。一度決めた事はなんとしてでもやり通す所存なのは素晴らしいとは思うが、人間出来ることもあれば出来ないこともあるというのに。
「誕生日まで。兄ちゃんの誕生日当日まででいいんです。どうか、お願いします!」
うーん、困ったな。年下にこう何度も頭を下げられると確かに弱い。しかも二人にだ。仲の良い友人である嵐山の弟妹という弱みも加わると余計に断りにくかった。
「いいじゃない。受けてあげなさいよ。面白そうだし」
双子の後ろでその様子をにやにやと眺めていた小南が、ソファに肘をつきながら横やりを入れてくる。おそらく最初からすべての事情知っていて、迅の反応を見て楽しんでいたのだろう。今回は見事に出し抜かれた感がある。
「おまえなー 大体、小南が姉になってあげればいいだろ」
他人事だと思って軽い口調で言われたので、ついそちらに問題を投げたくなる。大体ただの友人である迅とは違い、小南にはきちんと血縁関係あるんだから、そっちで何とかしてもらいたかった。
「無理よ。あたしの方が准より年下だもん。妹がこれ以上増えてもややこしくなるだけでしょ?」
「そりゃそうだけど」
確かに嵐山と小南はそこらへんの従弟妹よりは断然仲が良いが、しかしそれでもシスコンブラコンと言われる弟妹に対する対応程ではない。よくよく考えたら、そこまで範囲を広げられたら今後が大変だ。それを小南もわかっているのだろう。
「命令よ。迅、受けなさい」
こちらが座っているのをいいことに、上から目線で言われた。小南のような女の子に言われても威圧感などまるでないが、本気何だか冗談何だかわからないことに変わりはない。
「なんで小南から命令受けなきゃいけないんだ…」
玉狛での立場はほとんど一緒な筈で、むしろ一応はこっちが年上なんだが。大体彼女の物言いはこんな感じなので別に癪に障ったことないとはいえ、内容自体は理不尽と言ってもいいだろう。
「あらっ、じゃあ。今後、宅急便で支部にぼんち揚が届いても受け取ってあげないわよ?」
「ちょっ…待って。それは困る」
思わぬところからの威嚇射撃に動揺する。ぼんち揚は、迅の生命線だ。それが無くなるのは死活問題にも等しい。定期便を頼んでいるから玉狛支部に毎月のように届くというのに。
「迅がいつも暗躍していないから、あたしたちが受け取ってあげてるのよ?あの段ボールの山…軽いけどかさばるから運ぶの大変だし」
「わかった。わかったよ…いつもありがとうございます。これからもお願いします」
観念して日頃の感謝も込めて、丁寧に頼み込む。女子高生は強いし、やはり嵐山の親戚ということで迅は小南にも強くは出れないのを逆手に取られた結果だった。
「で、嵐山の誕生日っていつだっけ?」
仕方なく、改めて向き直って双子に尋ねる。明確な日にちはうろ覚えなので一応確認しておかなくてはいけない。
「7月29日です」
その日にちを認識して、また迅はカレンダーを見た。つまり今日から1週間弱か…そんなに長い期間ではないと言えばそうだが確かに。
「二人は本当にいいの?おれなんかが兄役で」
まだ迅の中では色々と思う部分もあるが、それ以上に本人たちに確認をすることが必要で、念押しの言葉を入れる。双子が不在の間ということだから、直接双子に兄らしいことをすることは皆無とはいえ、そう簡単なものでもないと思うのだ。
「もちろんです。まだ兄ちゃんには話していませんが、他の家族も迅さんがいいって言ってますから」
なにその嵐山一家からの絶対的な安心感。普段、嵐山が家族に自分をどんな風に伝えているのか激しく問い詰めたくなった。他人の良い事ばかり見つけるのがうまい嵐山の事だ。きっと迅の事も謎の美化をされて伝えられているに違いない。自分はそんな出来た人間ではないとわかっているから、期待に応えられるとは思わなかったが、もう周囲は囲まれている感があった。小南も向こう側に回ってしまった以上、どうしようもない。
何より、この双子をサイドエフェクトで視れば、なんかよくわかんないけど楽しそうな未来が見える。それにはちゃっかり迅もいるから、もう諦めるしかないのかもしれない。
「じゃあ、不甲斐ない兄だけど、少しの間…よろしくね」
観念して親睦の為の右手を握手として差し出すと、双子は嬉々としてこちらの手を握ってくれた。



じゃあ早速と言う事で勢いに流され、そのまま迅は双子によって嵐山の自宅に連れていかれた。玉狛支部から嵐山の自宅は、それほど極端に離れてはいないので確かに徒歩で十分な距離だ。先行する双子の様子を見れば無邪気で、年下の兄弟が可愛いという嵐山の気持ちはわかった。やや押しが強いのを除けば…だが。
嵐山の家は区画整理された住宅街の一角にあった。第一次大規模侵攻により東三門が警戒区域となってしまい人が住むことが出来なくなってしまったので、住宅街がこちらにズレた形ともなったのだ。その中でも、よくある平均的な家屋と言っても過言ではない。迅は昔、何度かここに泊りに来たことがあった。それは迅が早くに母親を亡くしたこともあるし元々一人っ子なので、それを心配して嵐山が強引に誘ってくれていたということもあると思う。玉狛支部に住み込むようになってからは、あそこ自体が家族みたいなものなので大丈夫だと伝えて、わざわざ嵐山の家に泊まりに行くようなことはなくなったのだが。何かあって本部以外で会うとしても、ルート的に家まで迎えに行ったりしないから、この家にきちんと来るのも相当久しぶりだった。
「「ただいまー」」
元気に大きな声で帰宅する双子の後についで、迅も玄関をくぐる。お邪魔しますと控えめにつぶやきながらリビングへと続く。
「迅さんがOKしてくれたから連れて来たよ!」
「まあ、本当に?良かったわ。これで准も一安心ね」
「ご厄介になります」
「迅くん、すまないね。うちの子どもたちのわがままに付き合ってもらって」
「いえ、そんなことないです」
「あら、迅くんじゃない。久しぶり、元気にしていたかしら?」
「おかげさまで」
「ワンワン!」
リビングに入ると夕食の時間に近いせいか、嵐山一家がダイニングテーブルに勢ぞろいしていた。大黒柱の父。働き者の母。優しい祖母。ご存じ弟妹双子。そして忠実な飼い犬。家族歓迎ムード激しく、とてもにぎやかで暖かく受け入れくれる。ありていに言えば一般家庭だが、今までも何度か迎えられても、改めてこれは迅にはなかったものだなと感慨深く感じる。あと何の疑問もなしに迅を受け入れているのが少し謎だったが、今更仕方ない。
「迅さん。兄ちゃん、もうすぐ帰って来るみたいなんで、ちょっと玄関からは隠れてて下さい。合図したら出て貰うんで」
双子の片割れが携帯電話でメール画面を確認してから迅に声をかけてくる。まさか毎回帰宅するときに連絡しているのだろうか…いや、深く考えてはいけないと思い、とりあえず玄関から扉一枚隔てた場所を示されたので、言われたとおりに立って待機する。この程度だと、別に差しさわりなく玄関サイドの声は聞こえて、扉のすりガラスからチラリとその様子は覗き見ることができる。

「ただいま」
そうしてガチャリと開いた玄関から、今回の主役である嵐山准が帰宅してきた。
「「兄ちゃん、おかえりーー」」
玄関で待ち構えていた双子が元気に仲良く声を一致させながら、兄の帰宅を歓迎した。
「おおっ。佐補、副。わざわざ出迎えてくれるだなんて、兄ちゃん嬉しいぞ!感激だ」
さくっと靴を脱いで揃えた後、お決まりの如く嵐山は弟妹に抱きついた。ぐりぐりと頭をすり寄せて二人分を盛大に堪能している。相変わらず、わきゃわきゃと激しい。うーん。この光景、昔から何度か見たことがあったが、久しぶりに見るとまあ壮観である。今日は割と早く帰宅できた方だったようだが、普段からボーダーと大学で忙しい嵐山にとってはこれが最上の癒しなんだろう。受ける弟妹からすると、いつまでたっても自分たちは子どもではないという気持ちもあるのかもしれないが。
「私たち、明日からしばらく合宿だからね。まあたまには」
その口ぶりから察するに、いつもだったらわりと抵抗して拒否っていたのかもしれないが、今回に限っては嵐山の好きにさせているのかもしれない。ただやっぱり少しはうざいようで、言い訳がましくこの場に甘んじているとの声を出す。
「そう…だったよな。佐補も副もいない…明日から、俺どうやって生きて行こう………」
それを聞いた瞬間、嵐山は二人の肩に顔を落としたまま情けなくも撃沈した。その言葉が、冗談ではなく比較的ガチなことは去年の修学旅行事件で体験済とはいえわかりやすい男だ。
「だから今回は、私たちの代わりに新しい家族に来て頂きました」
えっへんと両腰に手首を当ててふんぞり返る姿は、少し前に見た小南と一緒だった。さすが遺伝か。
「ん?家族………?」
ようやく顔を少し上げた嵐山だったが、でも疑問声。まあ当然だろうが。
ここで双子から迅の元へと目配せが送られた。ああ、このタイミングで登場しろってことね。わかりました。玄関を隔てる引き戸を開けて、前へ進む。
「おかえり。嵐山」
よっと右手をあげて、なるべくいつもの調子で声をかける。
「………迅?」
心底不思議そうな顔をして嵐山は迅の名前を呼んだ。もちろん現状などそう簡単に把握できるわけがないから当たり前の反応だったが。
「兄ちゃん、前から双子の兄が欲しいって言ってたでしょ?だから、迅さんにお願いしましたー」
まるで、じゃじゃーんという効果音が付きそうなくらい大々的発表な言い方だった。なんだ。嵐山家は逐一こうなのだろうか。それとも双子の若さゆえの自信なのだろうか。わからないが、それでもこの場を盛り立てるには十分すぎる効果があったようで。
「本当か!迅、ありがとう!!!」
さっきまで項垂れていたその顔が一瞬でぱあっと輝いたと思ったら、盛大に叫ばれる。感激のあまりか、こちらに迫る気満々だったが、結局はそのままの勢いで双子を巻き込んだまま嵐山は迅の方へと突撃した。
「「「……うわっ!!!」」」
突然の事に、嵐山本人以外の三人分の悲鳴がうまく重なる。見事にバタリと玄関で倒れ込む四人が出来上がったのだった。アングル的に一番下敷きになった迅は、お…重いという言葉を何とか飲み込んだ。
突然、兄が出来るなんて無茶ぶりが通用するとはあまり思っていなかったが、案外嵐山は簡単だった。

ダイニングテーブルで夕食を取る嵐山は終始ご満悦で、笑顔だった。そりゃあ広報の仕事でも常に笑っているし、それは作り笑いではないし、且つ普段からボーダーやら大学でもにこやかにしていることには違いはないが、やはり大好きな弟妹の前では本心でそれ以上と比喩するしかないだろう。そして今日はその中に迅も加わったということで、いつも以上ににこやかとしていると言っても過言ではなかった。
本日の夕食はかなり豪勢だった。もちろんいつもこうというわけではなく、明日から合宿に行く双子の為にと母親が腕によりをかけて作った二人の好物が並べられたのだった。食べ盛りの子ども相手だろうか、量もかなり多く、迅一人が新しく加わった程度では消化しききれない程だった。
突然お邪魔した形となったが、嵐山の家族は全く気兼ねしていなかった。変に気を使われすぎず、ちょうど良い距離感。きっと大人組からすれば、子どもが三人から四人に増えてもあまり変わらないのだろう。ほどよく会話も振られて答えると常に笑いはこぼれた。そして双子からも随分と質問を振られた。今まであまり直接話したことはなかったが、やはりボーダー内の兄の様子などは気になるらしい。このぐらいの年代の子どもならば反抗期真っ盛りだろうが、やはり兄を尊敬している部分もあるようで興味津々のようだ。微笑ましい。むしろ嵐山の方がいつも以上に迅におせっかいをやいて来たような気がする。未だ理解はそれほど出来ないが、本当に迅が兄になってくれて嬉しいのだろう。未だに別に兄らしいことは何一つとしてしいないが、近くにいればそれだけで満足なようだったから、迅も普段通りにふるまっていた。

夕食後の歓談が済むと当然のことながら風呂を勧められた。えっ?そこまでと思ったが、うちは家族が多いから早くと唆されて借りることとなる。リビングに戻ると立ち代り入れ替わり他の家族も入っていく。誰か一人が抜けてもお茶を飲んだりと、賑やかにそして緩やかに会話は続いていた。全員が風呂に入ると、やはり明日から合宿で朝が早いからという理由で双子が一番にリビングを抜けていく。
「さ、俺たちも寝るか。迅」
同じく朝が早いと思う祖母も抜けると、次には嵐山が当たり前のように声をかけてきた。
「え?」
何だこの…おれは帰るけど?と言いにくい雰囲気は。まさか泊まるの?確かに双子にお願いされたのは嵐山の誕生日当日まで兄のふりをするという約束だったが、わざわざ泊まる必要性あるんだろうか…とも思う。だが、周囲の対応はそれが当然と物語っている。迅の認識としては、ボーダー内で会うときにただの友人というよりは少しは兄というか嵐山に対して家族としての演技をするという意識だった。しかし今更、自室に帰って寝た双子に確認できもしない。うーん、うーんと悩んでいるうちに、嵐山に腕を引っ張られて迅は二階へと続く階段を登ることになった。
六人家族とはいえ、一般的家庭な造りの二階はそれほど部屋数が多いわけではなかった。二階は子供部屋という意味合いが強いのだろう。兄弟三人がそれぞれの部屋を宛がわれているということで、三部屋。嵐山の部屋は一番奥の角部屋だったから、そのまま通される。
久しぶりに嵐山の部屋に来たが、相変わらず整理整頓されたシンプルな部屋だった。それこそ嵐山隊の作戦室をもう少しアットホームにした感じというか。別に広報だからと言って、自室まで公開しているわけではないから自分色を出せばいいと思うが、ここでも真面目だ。衣服はクローゼットにしまわれているのだろうから、必要最低限なテレビやオーディオにテーブルとベッドといった家具の他には大学の参考書らしきものが並んでいる本棚くらいだ。まあ迅もあまり人のことは言えない。自室には、ベッド以外にはぼんち揚の箱くらいしかマトモな物はないのだから。小南がよく人のことを趣味暗躍と言っているが、若干イメージ悪くもあるので、趣味ぼんち揚と言いふらして欲しいとも思う。そういえば嵐山の趣味って何だ?と頭を巡らせると…弟妹とか犬だとかそんな話ばかりしている気がする。趣味、家族か。だからこそ今回、迅もこんな事態に巻き込まれたわけだが。
ぼうっと迅が考え事をしている間に、テーブルが部屋の端へと寄せられてベッドの横に広がるスペースラグ上に布団が敷かれた。嵐山の家は家族が多いから広い客間を作るほどの部屋に余裕はないらしく、依然何度か泊まった時もこの部屋で寝させて貰った。もう双方、寝る準備は整っているので布団にもぐる。
「迅、冷房の温度は大丈夫か?暑いなら、リビングから扇風機を持ってくるが」
「いや…平気。おやすみ、嵐山」
「おやすみ、迅」
パチリと室内の電気が消される。普段迅が寝付く時間よりは大分時計の針は早かったが、嵐山一家のエネルギーに当てられてやはり普段より格段に疲れた気がする。布団を被った迅は、早々に寝付いたのだった。










【2014年7月24日 木曜日】



「迅、おはよう。もうすぐ朝食の準備が出来るんだが、起きられるか?」
夢の世界でまどろんでいる中、耳元で爽やかを体現する男の声が聞こえる。わりと突然耳に飛び込んできたわりには別に嫌だとは感じなかった。
「ん………今、何時?」
それでもあまりにもぐっすり寝入っていた為、意識の取り戻しが直ぐには出来ない。おかげさまで疲れは十分に取れたが、小鳥のさえずりと共にカーテンの隙間から差し込む光がまぶしくてぐだぐだする言葉が出る。
「もうすぐ5時半だな」
「早っ」
思わず叫ぶ。それで目がぱっちりと覚めた。一般家庭ってそんな早くから朝食取ってるもんだっけ?迅はボーダーに所属しているとはいえ、いわゆる完全週休2日制の日勤ではない。遠征は滅多に行かないが、普段の任務には夜勤も含まれているのでわりとギリギリまで寝ている方だし、それでも誰も文句言わない。持ち回り制の家事も出来る時に自由にやっているし、別に揃っての朝食を取るわけではないので誰かに起こされたりもあまりしない。
「どうする。もう少し、寝ているか?」
「いや、起きる。洗面所そこだったよね。借りるわ」
やや重い瞼のふちで、ふと嵐山を見ればもうすでに朝の準備は整っているらしい。何時に起きたんだ…特に目覚ましが鳴った記憶がない。ただ迅が爆睡していただけかもしれないが。とりあえず手早く二階のトイレ横に備え付けられた簡易的な洗面所で顔を洗う。朝からすがすがしくイケメンな嵐山を見ると自分の腫れぼったい瞼がどうしようもなく感じるが、これでもぐっすり寝たからマシだと思いたい。
普段着に着替えて軽く身支度を整えた後に階段を降りようとすると双子と揃って遭遇し、おはようございますと明るく挨拶される。中学生若いなやっぱり。嵐山以上の元気さが朝からある。全員揃っての朝食は、家族の中で出かけるのが一番早いのが父親だから時間を合わせたのかと思ったが、今日に限りはそうでいないらしい。それは朝食後の玄関で起きた騒動で速攻わかった。

「兄ちゃん、そろそろ離してよ」
キッチンで食後の洗い物を手伝っていた迅の耳にそんな声が聞こえて来たので、きりが良いところで抜けさせてもらう。そろりと玄関に向かうと案の定、嵐山と双子が押し問答しているのが見えた。
「佐補、副。本当に行ってしまうのか?兄ちゃんを置いて………」
双子は、もう靴を履いていてこれから扉を開けて外に行こうしている瞬間だった。それを嵐山が押しとどめている。そう…まるで今生の別れかのように嵐山は嘆いていたのだ。おいおい…出かける前からこんな調子でこれから先は大丈夫かと未来が不安になる幸先だ。
「たった五日間、合宿に行くだけだって。ほらっ、遅刻するから引っ張らないで」
双子は、部活用のマジソンバックの他に合宿用にボストンバックまで持っているのだから荷物も結構重いだろう。若い力で抵抗するにも嵐山はなかなか踏ん切りがつかないらしく、未だに諦めきれずにいた。最初から兄にこんなに体力を使っては、これから本格的に部活なのに大変だなと迅は同情する。
「じゃあせめて、学校の正門まで見送りに行ってもいいか?」
渋る双子に妥協点として仕方なく提案したように思えたが。
「駄目!去年の修学旅行で大騒ぎになったの覚えてないの?恥ずかしいから、絶対駄目!!」
そこだけは譲れないらしく、大否定してきた。知らなかった。前はそんなことまでしていたのか。修学旅行は荷物が多いから保護者が車で送迎するというのは聞いたことあったが、ボーダーの顔である嵐山が現れたら騒動になる姿が目に浮かぶ。
「いい加減、妹弟離れしなよ…あ、ほらっ。迅さんがいるから!念願の兄がそこにいるじゃない」
「え?」
さっさと逃げる為か、双子はこちらに標的を変えて来た。もはや時間が迫っているらしく形振り構うつもりはないらしい。
「迅!…佐補と副が!!」
悲しみのあまりにそう叫びながら、嵐山は思い切り迅に抱きついてきた。その勢いで後ろの壁に軽くぶつかるが、今回は倒れなかった。さすがに前回の反省をした迅の足が踏ん張った結果ではあったが、それだけだった。
よしっ、離れた!と小さくガッツポーズをした双子は玄関の鍵を開けて素早く出ていく。
「「じゃあ、行ってきまーす。迅さん、兄ちゃんをよろしくお願いします」」
軽く手を振って、さっきまで軽くげっそりしていた双子は元気に出かけていった。反面、その兄はより強く迅にしがみついたのだった。

「うっ…う、…佐補と副が………」
何とか玄関から横移動してリビングのソファまで連れて来たが、嵐山は迅のTシャツに顔をうずめたままその態勢から微動だにしない。正直、誰か助けとくれ…と思ったが、嵐山家では割とある光景らしく他の家族にもスルーされて職場に出勤する父親にも、准を頼んだよ迅くん。と声をかけられてから行かれてしまった。しばらくこうしていれば少しは復活するかな?と思い、テレビを見ながらリビングのソファで時間の経過をするだけだった。朝のテレビ画面はニュース番組と共に丁寧に時刻を表示する。不味いな…とだんだんと不安が積もる。迅だって今日は非番ではないから仕事があるわけで。
「って、嵐山。おまえ今日の予定は?」
そういえば迅より嵐山の方が余程多忙な筈なのに大丈夫か?と焦る声が出る。沈んでいる身体を軽く揺さぶって、起こす。
「…嵐山隊の作戦室で打ち合わせ」
そうぽつりとつぶやいたいだけで、やはり動かない。ずっと顔を下ろしたままだから時計も見てない。これはヤバい。
「ほらっ、嵐山。立って、もう一回顔洗って。準備して荷物持って、さっさと本部に行く」
迅から剥がすのまではうまくいかないが、ソファから嵐山の腕を持ち上げて何とか立たせることには成功した。それでも顔は下を向いたままだったが。
「………迅は?」
ようやくピクリと動いたが、それでもしゃべった口がそれだった。
「おれは玉狛に戻るけど?」
いくら大学に通っていないとはいえ、迅だって別に暇じゃない。嵐山家のおかげで、いつもよりは断然早く起きたとはいえ、色々やることはあるから結局は玉狛に戻るのが当然だった。
「じゃあ俺も玉狛に行く」
迅に付いて行くと、小さくぼそぼそとしゃべられる。
「なんでそうなるんだよ。あー とりあえず、本部まで送って行くから、な?」
「…わかった、準備する」
ちょっと嫌々といった感じだが、ようやく嵐山が自力で動いてほっとした。それでもいつもより動きは遅かったが、なんとか荷物を持って二人は家を出た。

もう少しマシかと思ったが、それでもボーダー本部に着くのは大分時間がかかってしまった。何といっても嵐山の足取りが普段より遅いので仕方なく、迅が嵐山の手を引いて連れてくるという格好になってしまったのだ。本部へと繋がる地下連絡通路も、本部内に設置してある階段やエレベーターもそれなりに人気の少ない場所を選んだつもりではあったが時期が悪かった。折しも夏休みに入ったばかりという時期では、学生の多いボーダーにとっては一番人が多い時期と言っても決して大げさな表現ではないだろう。この蒸し暑い中で、ボーダー本部の空調は効きまくっているし(主に人間の為ではなく機械の熱を冷ます為)そもそもトリオン体になれば暑さは関係ないので、うだったるい猛暑からの逃げ道としても活用されているのであった。そんな中で、向こうに対する面識は殆どないとはいえ、嵐山も迅もそれなりに有名人なので、なんでこの二人が手つなぎをして歩いているんだろう…と遠巻きに見られるのも仕方のないことだった。
「ほらっ、嵐山。トリガー出して」
そう迅が言うと、無言で嵐山は自身のトリガーをポケットから取り出して迅に手渡した。そう安易に他人に自分のトリガーを渡すもんじゃないと怒りたいが、今そんなことを説教しているテンションではない。一瞬だけ借りて扉の認証をするとA級嵐山隊作戦室に、迅は先に入った。
「あれ…迅さん?」
入口近くのテーブルで書類整理していた時枝と目が合い、驚かれる。そりゃそうだ。作戦室の認証は隊員以外だと開けられる人間は限られているのだから。
「あ!嵐山さん。どうしたんですか。いつもは集合時間の三十分前には来ているのに。どこか具合でも悪いんですか?」
遠くでたまたまお茶を運んでいたらしい綾辻の方が早く迅の後ろにいた嵐山に気が付き、驚きの声を出す。
「悪い。連れてくるの遅くなった。時間オーバーした?」
反応のない嵐山の代わりに迅が答える。落ち込んでいる嵐山相手に何時に集合かまでは聞きだせなかったし、そもそも時間がわかったとしても急がせる時間に変わりはないから仕方なかったのだが。
「いえ…まだ十分前ですから遅刻ではないですけど」
奥から出て来た木虎が怪訝そうにこちらを見ながら、答える。もう仕事をし始めているようだし、さすが嵐山隊の人間は真面目で早い。ただ、ざっとフロアを見渡しても佐鳥はいない。彼こそギリギリ来るタイプなのかたまたま出ているだけか定かではなかったが。
「迅さん…嵐山さん、どうしちゃったんですか?」
真面目で正義感が強く立派な筈の自隊の隊長が、今駄目駄目なのは一目瞭然だったのだろう。綾辻に説明を求められるのも仕方ない。迅は、全てを話すことにした。
「実は今日から五日間、嵐山の弟妹が揃って泊まり込みの部活合宿で」
「「「えっ?」」」
そこまで言えば十分だったらしい。三人の驚愕の声が見事に揃った。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんですか?ああ…もうスケジュールが!」
スケジュール帳らしき手帳を取り出した木虎が確認しながら困り顔をして、少し大きい声を出した。去年の修学旅行の惨事を思い出して、心なしか途方にくれているのだろう。
「おれも昨日聞いたんだよ」
恐らく嵐山本人はもっと早く知っていたのだろうが、それを口に出すという現実に耐えられなかったのか、それとも本人の為にわざと直前まで双子が隠していたのか知らないが。ともかくもう過去はどうしようもない。大切なのは今から続く未来だった。
「ほらっ、嵐山。おまえの可愛い後輩たちだぞ?さあ、仕事しよう、な?」
後ろに付いている嵐山に向き直って、迅は首が垂れていた顔を正面に向かせた。そのままの流れで掴まれた手を振りほどこうとしたが、動かない。なんだと?
「嵐山さん。迅さんに懐いていますね」
そんなべたべたした様子を見ても顔の表情が変わらない時枝はさすがだった。別にそれは求めてない。
「色々事情があって、嵐山の弟妹から頼まれたんだよ。だから一応、今回はおれが世話係というか…」
ここで嵐山の双子の兄になっただとか泊まっているとかそんなめんどくさい事情すべてを晒すわけにもいかなかったので、とりあえず端折って説明する。言っておくが、去年の修学旅行の際の迅は、ここまで面倒をみたわけではない。だが、嵐山の落ち込みっぷりは相当だったので、知り合いのボーダー隊員全員が漏れなく巻き込まれただけだ。それ以来、伝説となっている。
「じゃあ今回は、前回ほどではないんですね」
ほっと綾辻が肩をなでおろしている。一緒に仕事をする以上、一番巻き込まれるのは嵐山隊の面々なことは明確なので、多少の憐れみは感じるが…今の迅も他人事ではない。
「いや、あんまり変わんないと思うけど。おれも玉狛に戻んなきゃいけないし、とりあえず君たちの隊長の面倒は任せた。お願いっ」
パンっと両手で懇願のポーズを作って、頼み込む。このまま嵐山にまとわりつかれては迅も、そして嵐山自身も仕事が進まない。
「前回を考えても、私たちの手にはおえないと思いますけど…」
ようやくスケジュール帳から目を離して、やっぱりどうにもならないかもしれないというジト目をした木虎に言われる。
「それはわかっているけどさ。そうだ、佐鳥。今は佐鳥がいないけど、全員揃えばどうにかなる。うん、きっと。んじゃ、おれはこれで」
多分どうにもならないだろうが、ここでいつまでも会話をしていても根本的な解決にはならない。正直嵐山は使い物にならないかもしれないが、迅は自分の仕事を進めたいので逃げることとする。素早く嵐山の手を振り払って、扉へとダッシュだ。
「っ、迅!…迅まで俺を置いて行ってしまうのか?佐補や副みたいに………」
作戦室のスライドが閉じる瞬間、そんな嵐山の悲痛な声が響いたが、迅にはどうしようも出来なかった。

後ろ髪をひかれつつも、嵐山隊の作戦室から迅は颯爽と駆けた。後ろから付いてこられても困るからやや全力だ。そのままエレベーターで上層部がいるフロアへと向かい、本部長の忍田と広報担当の根付に何とかアポを取って、今回の嵐山の状態を報告した。二人ともに非常事態だと頭を抱えて、さっきの他の嵐山隊の面々と同じような質問を受けたが、どうしようもなかった。とりあえず迅は義務を果たしたのだから。その足で今度は、本部所属で嵐山と同じ大学に通っている面々を見つけては、根回しの言葉をかける。嵐山の行動範囲はほとんど家とボーダーと大学で占められているはいえ、日常生活すべてを迅がどうにかするわけにもいかない。さすがに大学まで迅が付き添うわけにはいかないからサポートをお願いしたのだが、大学生組だって嵐山と毎回同じ授業に出ているわけではないから、全部をフォローできるわけではないだろうが、伝えないよりは伝えておいた方がマシという程度。玉狛に戻る途中に近くの鈴鳴支部にも寄って、根回しをお願いしておいた。
ようやく玉狛支部に戻るとドッと疲れが出た気がする。普段は朝からこんなに働かないせいだろうか。まだ全然昼前でさえあったのだが、久しぶりに戻った感がある自室のベッドにぐったりとする。今日はたまたま防衛任務のない日ではあったが、だからと言って迅がやるべき仕事がないというわけではない。昨日わりと突然嵐山の家に引っ張られたので書類も溜まっている。支部長の林藤の机を見れば一目瞭然だが、玉狛は支部長決済で書類が溜まりがちなので、住み込みの木崎や迅が発破をかけなければどうしもない。これからしばらく夜は嵐山のところで寝起きしなくてはいけないことを考えると、今のうちにやれることはやっておかなければいけない。迅自身も相当久しぶりに真面目に机に向かい、稟議書類などに目を回しつづけたのだった。

ふと、投げっぱなしにしてあった迅の携帯端末が震えている音が聞こえた。午前中に本部で直接捕まえることが出来なかった大学生組のメールアドレスやSNSアプリに連絡していたので、その通知かと思ったのだが、案外長く振動が止まらなかったので、向かっていたノートパソコンからは目を外さずに迅は携帯電話を手に取った。やはりメールではなく電話だった。その宛先に表示された名前が…嵐山准なので、迅には電話に出るという選択肢しかなかった。
ピッ
「もしもし?」
「迅さん。今、電話大丈夫ですか?」
「あれ…時枝?」
相手先が嵐山なので当然彼からかと思ったが、予想より多少低い声が流れて来たので驚いて相手の名前を呼んだ。
「はい。嵐山さんの携帯電話を借りています。嵐山さんは、今電話出来る状況ではないので」
この光景が用意に想像できたので、内心あっちゃーと思いながら、迅は開いていた左手で顔を覆った。
「今日、迅さんは防衛任務のシフトに入っていなかった筈ですけど、そちらの仕事は一区切り付きますか?」
ようやくマトモに時計を見ると、折しも今は夕方に差し迫った時間であった。向こうもそれくらいの時間は嵐山の面倒を見てくれていたのだと思うと、偉いっと褒めたくなる。
「あー、うん。何とかね」
これからのことを見据えて頑張った甲斐あって当初よりは進行が進んでいることに安心しながら、迅は答えた。人間、やれば出来るもんだ。
「申し訳ないですけど、嵐山さんを引き取りに来てもらえませんか?うちの隊員が声をかけても全然駄目なんです。妹さんと弟さんと迅さんの名前しかしゃべらないので」
去年は弟妹の名前しか連呼しなかっただろうが、今年は迅の名前も加わったということで、孔明の兆しでも見出したのか、完全にこちらに振って来る。仕方ない。そういうふうに仕向けたのはあの双子だし、迅もそれを受け入れたのだから、行くしかない。
「…わかった。これから向かうよ」
「すみません。ありがとうございます」
ピッ
はあ〜と少々深いため息を付いてから、作成している報告書を途中で上書き保存して、ノートパソコンの電源を切った。これからしばらく本部を往復する羽目になるのだろうか…と少し気が遠くなった。

本日二度目の嵐山隊の作戦室。入口で呼び出しのボタンを押すと、直ぐに扉は開いて、木虎が待ってましたとばかりに出迎えてくれる。あの木虎が迅をこんなに大歓迎するだなんて、多分もう今後ない。
「嵐山ー」
投げやりな声でテーブルに沈んでいる嵐山に声をかけて、ぽんっと肩に手をかけるとピクリと反応する。そうして薄ら目を開いた嵐山は、がばっと身を起してそのまま迅の腰に抱きついた。
「迅!迅だ!!」
会えて凄く嬉しいという気持ち丸出しで、とても積極的だ。いや、迅を目の前にしているからいつもそうだと思っていたけど、周囲に誰がいようが別に嵐山は変わらない。随分と熱烈な歓迎だったが、もはやそれを見ても誰も気にしてない様子だった。きっと嵐山隊の面々も疲れている…
「はいはい。お待たせしました。実力派エリートですよ」
「帰りたい…」
そのまま縋り付く態勢で、嵐山は自らの要望を静かに訴えた。そんなに疲れることは何もしていないだろうに、やはりやる気はないみたいだった。
「まだ駄目。時枝。今日の嵐山の仕事、どれくらい終わった?」
もはや嵐山を剥がす努力は切り捨てて、相変わらず無表情な時枝の方を向いて質問をする。
「元々、嵐山さんは仕事を溜めたりしませんから…でも今日は殆ど進まなかったので、あと二割は残っていますかね」
そうして、いくつかの書類が挟まったクリップファイルボードを手に取り、時枝は示してくる。
「それ、おれが見ても大丈夫な系な書類?」
「ええ…むしろそのうち迅さんサイドにも廻る書類ですから、予め見てもらっても構いません」
そう言いながら、いくつかの書類をこちらに手渡してくる。持ちきれない分は、先ほど嵐山が沈んでいたテーブルの上にすかさず木虎が積み上げる。手早い。
「そっか。じゃあ、残りの仕事終わるまで嵐山の面倒見るからさ。おまえたち、もう帰ってもいいぞ」
こちらに電話があったのは夕方だったが、本部に移動するまでに良い時間となってしまった。全員まだ高校生だし、帰宅するに十分ふさわしい時間だ。嵐山隊の普段の忙しさから考えればまだまだ夜は始まったばかりなのかもしれないが、学校がない夏休みくらいは早く返してやりたいと嵐山本人が常々言っていたのだから、本人が死んでる今、その気持ちは汲み取ってやりたかった。
「え、いいんですか?」
「あ…佐鳥いたんだ」
「最初からいますよ!」
今まで視界に入っていなかった佐鳥がぴょんっと飛び出てきて、思わずそう言ってしまう。
「ありがたいですけど、明日はどうしましょう… 今日はありませんでしたが、明日は広報の仕事が入っているんですけど」
不安そうに綾辻が訴えてくる。この美人の顔立ちに影を落とすだなんて嵐山もなかなか罪な男だが、そういう意味じゃないきっと。
「うーん。何とか明日までに今日よりはマシに出来るように努力するよ。保証は出来ないけど」
どうせ昼間あれやこれやと嵐山隊の面々がどうにかしようとしただろうが結構はこの有様なわけで、これ以上いつまでも嵐山対策を話し合っていても建設的な答えは出なそうだったので、各自の課題ということなり、その場は解散した。

とりあえず今は考えるより目の前の書類を処理しなくてはいけない。迅の裾を持って離さない嵐山を何とか机に向かわせて座らせると、頑張らせた。午前様の覚悟さえしていたが、基本嵐山はやれば出来る男なので迅に促されながら進めた仕事はそこまで時間はかからなかった。というか、早く迅と一緒に帰りたかったらしい。仕事中に何度も念押しされた。
ようやくの思いで嵐山の家に帰宅すると、合宿に出かけている弟妹以外が出迎えてくれた。そして驚かれた。これでも、嵐山がそれなりに人間として動いているという現状にだ。どうやら今までは帰宅すると、もっと酷かったらしい。弟妹がいないという現実が突きつけられる家こそ鬼門だとでも言うのだろうか。それでも嵐山が迅からべったりくっついて離れないことは一切気にしてないのは何故だろう。とにかく、迅くんのおかげで助かりました的なコメントしかもらえない。昨日のように夕食をごちそうになりあまつさえ風呂まで借りて、ああまたどう考えてもこのまま泊まるルートだと、薄ら思っていたがやはりそうなった。当然顔をした嵐山に自室に引っ張られた。こんな状態になっても、こういう時だけは行動力があるもんだから不思議だ。
「あれ…嵐山。布団は?」
今朝起きてから畳んで端に置いた客用布団が見当たらず、迅はきょろきょろしながら尋ねる形となった。
「片づけた」
「ああ、そう。どこにしまった?おれ、自分で敷くよ」
大きさ的にクローゼットの中かどこかと見当をつけるが、勝手に開けるわけにもいかないから探し求める。
「迅。今日は、俺と一緒に寝てくれないか?」
そんな迅の思惑など露知らず、ベッドサイドに座った嵐山は真摯な瞳で、こちらに向き直ってそう言って来た。
「は?寝るって、まさか同じベッドに?なんで」
ふと、嵐山が座るそのベッドを見ると何度見ても変わりはしない。紛れもなくただのセミダブルベッドだ。シングルじゃないだけマシかもしれないが、どう考えてもそれなりの身長と体格の男二人が寝るにふさわしい場所ではない。
「迅は、俺の兄なんだろ?佐補と副はよく一緒に寝てくれた」
さらりととんでもないことを真顔で言っている。どうやら全く全然冗談ではないらしい。まあ元々嵐山はそんなに冗談を言うタイプではないとはいえ。表面的には提案という言い回しだったとは思うが、嵐山の中ではきっと確定事項だったのだろう。
「それ子どもの頃の話だろ?」
昔のベッドがどうかは知らないが、今のベッドのサイズ的にどう考えても三人は無理だろうと見当をつけて、答える。
「うっ、う……そうなんだ。副はまだ抵抗していなかったのに、佐補は直ぐ恥ずかしがって…一緒に寝てくれなくなった」
「あーまあ、女の子は仕方ないね」
性別は違えど、嵐山は一切男女差別をせず双子に分け隔てなく接している。五歳も離れていては兄と一緒に寝るのに疑問を感じ、きっとそこでやめてしまったのだろう。それはわかる。
しかし答えながらもヤバいな、失敗したと感じた。迅に気を回していたというのに、弟妹がいないというトラウマを引きずり出してしまった事にだ。
「迅はそんなことないよな?一緒に寝てくれるよな?」
さみしくて寝られないんだと訴える瞳。一緒に仕事して、少しはシスコンブラコンから復活したと思ったのに、また逆戻りされたら困る。仕方ない。
「わかったよ。一緒に寝ればいいんだろ。寝れば」
ちょっと最後はやけくそ気味に答えた。絶対狭いだろうけど、どうしようもない。
それでも落ちるといけないからと言われて、ベッドの奥である窓際の方へ先にと促されてやむを得ず、迅はベッドに上がる。布団をちょっと握りクッションにして、なるべく身を縮めて壁に引っ付くようにした。横向きに寝ると完全に目の前には壁だが、もう頭にぶつからなければいいことにした。ピッと、リモコンで電気が消されると嵐山もベッドに乗っかって来る。二人分の重みでギシリとベッドのスプリングが鳴り、マットレスがゆるやかに沈む。そうして、そのまま。
「………嵐山。何で、おれ抱きつかれているんですかね?」
正直、暗闇の中で漠然と声をかけるのはマナー違反だと思ったが、わざわざ背を横向きに向けて寝ていたというのに、嵐山にぴたりと後ろからしがみつかれて、これで疑問の声を出さない方がおかしかった。
「俺は今日ずっと迅に抱きついていたけど、何が駄目なんだ?」
「いや、確かにそうだけどさ」
それはベッドの中まで必要か?と言いたい。確かにベッド自体はそれほど広くないとはいえ、迅にわざわざ抱きつかなくても嵐山が落ちる程ではないと思う。もはや後ろを振り返れる態勢じゃないけど。
「もしかして、暑い?冷房の温度下げようか」
「いや、いいよ。もうこのままで…」
なんだか見当違いの反応を受けたので、早々に諦めた。自分が犬か抱きぐるみになった気分を味わえば、我慢すればそれで終わりだろう。寝ればそれもすぐ考える必要はなくなる。でも、誰かと一緒に寝た記憶なんてないから少しむずがゆい。別に嵐山のことを嫌だと思わなかったから、多分大丈夫とはいえ。迅は一人っ子だから、兄弟を溺愛し甘えたいという気持ちがイマイチわからない。だから嵐山の行動も考えるより甘んじて受け入れた方が楽な気がしたのだ。
「おやすみ。迅」

その夜は、嵐山が言うように暑かったわけじゃなかったと思う。ただ、後ろに感じる熱にどうも迅は寝心地が悪く、なかなか寝付けなかった。










【2014年7月25日 金曜日】



その時、迅を起こしたのは朝の木洩れ日でも電線に止まる鳥たちの鳴き声でもなかった。ただ、じんわりとした暖かい温もりが背中から失われたという喪失感だった。
「ん…あらしやま?」
後ろで見動く気配を感じて、まだ瞼も完全に開いていない状態ではあったが、その名前を呼ぶ。
「ああ、すまない。迅。起こしてしまったか?まだ寝てて大丈夫だ」
首だけ回して後ろを見ると、するりとベッドから起き上がっている嵐山が見えた。
「ど…したの。朝食の時間?」
眩しさに霞む目を少し擦って口元を隠すと、ふぁっとあくびを一つしながら尋ねる。それでもまだ壁時計を見るほどの余裕はない。
「いや、飼い犬の散歩に行こうと思って」
「もしかして昨日もしてたの?」
昨日、朝食に起こされた時は、一緒に寝ていなかったから嵐山が起きた瞬間を全くわからず、その時には既に身支度がすんでいたからこそ聞く。
「昨日は佐補と副がしてくれたんだ。犬の散歩は持ち回り制だから、今日は俺の番」
「そうなんだ。おれも一緒について行っても平気?」
ここでようやく迅も身を起して、明確に朝日を浴びる。腕を伸ばして、伸びを一つ入れると背筋に正常が戻る。抱きつかれていて自由に寝返りをうてなかったせいか、やはり身体が少しきしんでいる。でも一度寝付いた後はぐっすりだったからまだいいけど。
「それは大歓迎だが、結構歩くぞ?」
「頑張ってついていくよ」

洗面所を借りて交互に身支度を軽くする。まだ早い時間帯だったが、嵐山の母親は既に庭で洗濯物を干ししていた。昼間にはパート仕事もあるというのにさすがだ。軽く朝の挨拶をしてから、嵐山家の飼い犬へと向かう。散歩が待ち遠しかったのか、ワンワンと元気に吠えていた。それでも伊達に嵐山家に飼われているわけではないので、嵐山が散歩用リードの付け替えをしている最中とてもおとなしくしていた。尻尾だけは張り切れんばかりぶんぶんと振られていたが。
嵐山が飼っているだけあって、よく躾けられた犬でとてもお利口さんだ。朝の運転の荒い車が近くを通っても、安全なルートをゆるぎなく歩いていく。嵐山に進められてリードを持つか?と言われたが、とてもうまく出来る自信がなかったので、迅はその横に並んで歩くだけだ。電車の始発へ向けて歩く人もちらほらとは見かけたが、やはり圧倒的にすれ違うのは散歩をしている人だ。嵐山のように犬を連れている人も見かけるが、やはり年配の方が健康の為に散歩をするというのが意外と多いようだ。その中には自然と知り合いがたくさんいるらしく、犬も歩けば声をかけられるようで、嵐山は次々と挨拶しながら進んでいく。迅も軽く会釈をしながら進む。
おっ、もしかしてこれは昨日よりはマシじゃないか?前の日はどうなることかと思ったが、嵐山は弟妹には勝らないものの犬も大好きなので、こうやっていれば別に部屋で落ち込んだりはしていない。良かった。これで今日の広報の仕事は大丈夫だろうと思いたかった。そんな事を考えながら歩くと、段々と風景が立ち代る。このあたりは核都市のベッドタウンでもあるので長く続く住宅街を抜けると、三門市の中心部を流れる川に道が当たったのだ。そのまま折れて、川沿いの河川敷を歩くこととなる。
「あれ…もう玉狛支部まで歩いてきたのか」
馴染みの基地を見つけて迅は驚いた声を出した。直線で歩いてきたわけではないし、それなりに嵐山の家からは距離がある印象だったが、人通りのあまりない早朝にさくさく歩いていると案外早く着くものなのだなとびっくりする。
「ああ。ちょうどここを目印に折り返して、いつもの散歩コースは終了なんだ」
「へえ、じゃあいつもうちの支部に来てくれているようなものなのか」
「そうだな………今日は随分と早く着いたから、少し遊ばせても構わないか?」
犬のリードを留めながら嵐山は言う。まだ若い犬は、自由に遊びたい盛りなのだろう。素人目にもどこかそわそわしているのがわかる。
「もちろん」
迅の言葉を受けて、嵐山は犬のリードを長く伸ばした。そうして、木陰にもなる大きな木にリードの端を巻き付けた。河川敷の周囲にはまだ他に人がいないからある程度放っておいても大丈夫なのだろう。ぽんっと持ってきた小さいボールを投げ入れてあげれば、勝手に一人でボール遊びをして芝生の上で転がっている。
二人は玉狛支部を背に、土手にあったベンチに座り、その様子を眺めることとなる。

「そういえばさ。今更だけど…本当におれが兄役で嵐山はいいの?」
ずっと疑問に思っていたのだ。弟妹が決めて来たことだから嵐山は文句なんて言わないだろうけど、双子からその理由を聞かなかったので改めての質問だった。
「もろちんいいに決まってる。もし…兄が出来るなら迅みたいな人がいいってずっと言ってたからな」
やはり公言していたのか。得体のしれない根拠が満ち溢れる声を嵐山は出した。
「どうしてそうなるかな」
嵐山の交友関係などまるで把握していなが、それでもあまりやる気のない自分よりはもう少し適材適所がいるのだと思うのだが。そもそも結局まだ一度たりとも兄らしいことはしていないというか、兄弟のいない迅にとって兄らしい振る舞いというのがよくわからない。だから、結局なんとなく嵐山の面倒を見るだけにとどまっている。
「迅は、自分に自信がないのか?」
それが不可解な回答だったような顔をしながら、改めて聞かれる。
「まあそれも一理あるけど。嵐山は友達多いから、別におれじゃなくてもいいんじゃないかなって」
嵐山は、ボーダー内で一番の人気者で人格者。善意の塊みたいな男だ。そんな彼が望めば立候補者なんて数多に出てくると思ったのだ。
「迅は俺の一番の友達だし…そうだな。多分、うちに泊まりに来たことがあるの迅だけだから、佐補と副も迅にお願いしたんじゃないか?」
「えっ、そうなの?他には誰も泊まったことないの?」
意外な発言に盛大に驚いて、迅は声をあげた。もしかして案外友達少ないのか?と一瞬思ってしまう。嵐山ほどの人間が友達少ないとか言い出したら、学生時代の友達とほぼ連絡が途絶えている迅なんてもうどうすればいいのかとなるので、あまり詳しくは突っ込まなかったが。
「たまに佐補や副の部活友達は泊りに来るが、俺の友達で家に来たことがあるのは迅だけだぞ?」
「なんで?」
改めての確信を口に出されて、迅は疑問の声を続けるしかない。どう考えてもそれは不思議だったから。
「なんでと言われても…じゃあ迅は誰かを家に泊めたことあるのか?」
どうやら当たり前のこと過ぎて嵐山はうまく説明出来ないらしい。自分の身に置き換えられることが出来ないとすると、こちらに投げられる。
「うちは、ほらっ…支部だし。ボーダー関係者以外入れないし」
いくらアットホームな玉狛支部とはいえ、腐ってもボーダーであることには違いないから、そのあたりは一応弁えている。支部長である林藤の息子である陽太郎は、まあきっとセーフだ。あそこは林藤の家みたいなものでもあるし。
「じゃあ。俺も同じ理由だな…身内以外は泊める気がしないんだ。特別だかな。
迅だって支部のみんなをとても大切にしてる。だから俺も迅にとって大切な人間になりたいんだ」
「…おれは、そんな出来た人間じゃないよ」
それだけは間違いなく言えたから嵐山には悪いが、迅は即答した。本当はひどい人間なんだ。嵐山にそんな事言って貰う資格なんてない。
確かに玉狛支部は大切だ。だからこそ、玉狛支部が少数精鋭なのは迅が本当の意味で守り切れる範囲を決めているからで、この未来視は結局すべてを知りえても取捨選択するしかないから、手に持てる範囲が限られている。第一次大規模侵攻時もそうだった。本当は嵐山も気が付いているのかもしれない。嵐山一家が第一次大規模侵攻で家も家族も何の被害を負わなかったのは、嵐山が小南のいとこだったからということを。彼女が悲しまないように、迅が…未来視で知っているからこそ、そう仕向けたのだ。ただ迅が助ける人間に小南のいとこである嵐山が入っていた。それがなかったら、彼は今自分の隣に座っていることはなかったかもしれないのに。今はこんなにも大きな存在になってしまった―――

少し河川敷で会話をした後、同じコースを逆戻りして嵐山の家へと戻った。いくらかおしゃべりが過ぎたようで、もう随分と良い時間となっていた。急いで用意された朝食を食べ、出かける準備を整えた後は飼い犬のおかげで嵐山はいつも通りになったと思ったのだが…また背中にべったりと貼りつかれた。
「ちょっ…と嵐山。どうしたの?」
「俺じゃなくて…なんだか迅が元気ないから。代わりに抱きついてる」
「………ありがとう。でもおれは大丈夫だから、ほらっ本部に行こう?」
とにかく今日は大切な広報の仕事が朝一番に入っているから、遅刻は絶対に許されない。いつもより少し早めに家を出た二人は、急ぎ足でボーダー本部に向かった。
昨日と同じく嵐山隊の作戦室に連れて行き、そのまま置いて行くつもりだったが、どうしてか嵐山は昨日以上に頑固だった。佐鳥もきちんといてフルメンバーの嵐山隊がどんなに言葉巧みに揺すぶっても、迅の服の裾を離さなかった。
「ちょっと、迅さん。昨日、嵐山さんをマシにするって言っていませんでしたっけ?」
あまりの事態に佐鳥から追及が入る。普段からキラキラと全力で生きている嵐山が駄目になった時の反動のひどさに、佐鳥からでさえ口を挟みたくなるらしい。
「これでも朝は結構、元に戻ってたんだよ」
犬か。犬が足りないのかと、迅は頭が痛くなった。なんでボーダー内はペット不可なのかと真剣に考えたいくらいだ。いや…そういえば確か後輩の雨取の友達で猫を持ち込んでいた隊員がいたような…あのサイズならばOKなのかと、妙なことを考えはじめる。
「今、これからが大切なんですよ」
結局は佐鳥の言う通りだとはいえ、ぶうぶうと文句言われるとちょっと釈然としない気もする。
「んーじゃあ。これはどうだ?ほらっ、嵐山。おまえの大好きな弟妹の写真だぞ?」
仕方なくここで秘密兵器を投入した。こんなこともあろうかと昨日、嵐山の母に頼んで探してもらった双子の子どもの頃の写真のアルバムを借りて持ってきたのだ。嵐山からすれば愛する双子は小さい頃でなくとも可愛いと連呼しているが、やはり実物がいない限り写真は効果的だろうという目論見だ。
「佐補…副…かわいい」
よしっ、釣られたぞ。効果てきめん。顔を上げた嵐山は、そのアルバムへと視線を移した。ゆっくりページをめくってあげると、次々と双子の写真が流れていく。意識もそちらへと動く。よしっ、今こそチャンスだ。この隙に迅はその場から抜けようとした。アルバムは残していくから、これで広報の仕事も頑張って欲しいと願って。だが。
「迅もかわいいよな」
とんでもない発言をかまして、また迅へとぎゅっと抱きつく。それを見ていた嵐山隊の面々は、駄目だなこれはという悟った顔をしていた。
「時枝ー。何か良い案ない?」
眺めていないで助けてくれと、一番表情筋が変わらず冷静な時枝に投げる。もはや迅の手の内では限界を感じたのだ。
「そうですね…他の仕事はともかくとしても、今日はどうにか雑誌の取材だけはこなしてもらわないといけませんので。
迅さんの防衛任務って確か午後からでしたよね?」
「あ、ああ…」
なんか嫌な予感がするが、事実なので頷く。ていうか、いつの間に迅のシフトを確認したんだ?目ざとい。
「では決まりました。嵐山さん」
そのままの状態で少し嵐山に近づいた時枝は、いつものように呼びかける。
「ん?」
いつもよりは薄らとした反応だったが、一応時枝の呼びかけに嵐山は少し顔をあげた。
「迅さんが取材に同行してくれるそうですから、行けますよね?」
「…迅が?」
それを聞くとひょこりと顔を上げて、嵐山は顔をぱあと明るくした。その瞳にいつもの光彩が戻っているようにさえ見えた。それは喜ばしいことだが、しかしだな。
「ちょっ、、、!勝手に」
なんでそういう話になるのか迅は慌てた。いくらボーダーに所属しているとはいえ、迅にとって広報は部外者で素人にも等しい。だいたい普段、裏舞台を暗躍する迅にとってそんな目立つところ好きじゃないから無理とも言える。
「迅が一緒なら、頑張れる。行く」
しかしその嵐山の言葉が決めてとなって、迅の午前中の予定は見事に決まったのだった。

それからの隊長以外の嵐山隊の行動は素早かった。戦闘以上の連繋プレーを見せつけてくれたといってまず間違いなかった。今日の取材内容についての改めて電話確認を取った木虎は、要所をまとめて綾辻へと回した。綾辻がポイントを流れるように文章化し、佐鳥が嵐山隊長っぽくかつ一般市民受けしそうな口調に直す。最後に時枝が誤字脱字をチェックして原稿完成。ボーダー本部には一般人は入れないので、記者が待っているホテルのラウンジまで、迅含めて急いで移動させられる。
取材内容は、かなりありきたりだった。元々ボーダーは機密事項が多いので、そんなにべらべらと喋れる内容なんて少ない。そんな中でも、市民に関心やイメージの向上を図っているのだから嵐山隊は本当に凄いと思うが。先ほど、他の隊員はどうやらそのテンプレートを作っていたようで、記者が嵐山へと質問を投げかけると、該当する答えを見つけ出し、クリップボードに書類を挟み込んで嵐山に答えさせていた。いつもの嵐山が言うような台詞を読ませるのだ。さすが嵐山隊。そのあたりのサポートは完璧だ。普段よりだいぶ嵐山の声のトーンは低かったが、それは仕方ない。そこは雑誌の編集する側の補正でどうにかして貰おう。
対して、迅はとても居たたまれなかった。ラウンジのソファに座る嵐山と手つなぎで横にいなければいけなかったのだから。最初に女性記者にぎょっと見られたときは今すぐ帰りたいと思ったが、阿吽の呼吸で女子二人に道をふさがれては逃げようがなかった。「あ、気にしないでください」と何でもないように記者へと伝えた時枝には勇者の称号を授けたかったが、視線を受ける迅に対するフォローも欲しかった。比較的マジで。佐鳥は、にやにやしてながらこちらを見ていた。ボーダーはみんな仲が良いですよ。アピールか?嵐山隊のムードメーカーはそういう役目でもあるのだろうか。ていうか、一緒にいて欲しいというから、後ろで見守っている程度を想定していたのに、嵐山の唯一の妥協が手つなぎだったのだから、悲しい。作戦室では思い切り抱きついていたのでそれよりマシと言えばマシだったが。とりあえず針のむしろは終了した。取材風景はともかく内容はそれなりだったんじゃないかと思うが、正直あまり迅の頭の中に内容など入ってこない。最後は根付さんのチェックを受けるわけだから、きっと大丈夫だろう。うん。
ただ座っていただけなのにとでもない疲労を蓄積した迅は、午後の防衛任務をいつもより張り切って出来るわけもなかった。ただゲートが開くのも少なかったので、自分が未来視のサイドエフェクト持ちで良かったと久しぶりに心から思った。

防衛任務が終わり次第、その足で嵐山の家に戻る。
嵐山隊の面々はもはや今日、雑誌の取材以上の仕事を嵐山にさせるのは無理だと早々に判断したらしく、嵐山は早めに帰宅をして勉強をするということになったらしい。ここ数日ボーダーでの仕事が続いたが、嵐山の本業は大学生である。いくらボーダーでの任務があるからと言ってある授業が程度免除されている部分はあるとはいえ、生真面目な嵐山は出来うる限りきちんと授業に出て課題をこなしている筈だったが…
「嵐山。課題やろう」
迅がその部屋に入った時、嵐山はテーブルに参考書やいくつかのノートを開いたまま、ぼうっとしていた。決して今が真夏へと入り始めた時期で、暑いからという理由ではないだろう。だって、迅が声をかけたら嵐山は動いたから。
「迅〜」
「ほらっ、抱きついていないで、机に向かって。横に居てあげるから」
おそらく冬はこたつにもなるのだろうと思われるスペースラグの上にある四角いテーブルの目の前の位置に、嵐山をきっかりと戻す。
「一緒にいてくれるなら、ここに座ってくれ」
先ほどまで自身が座っていた細長いシートクッションの前を少し空けて、嵐山はそこを示した。
「おれがそこに座ったら、嵐山が勉強出来ないだろ」
つまりそこはテーブルと嵐山の間ということだ。迅が、嵐山より小さい子どもならともかく、身長も体格もほぼ一緒ではどう考えても邪魔としか思えなかった。
「出来る。というか、迅がいてくれないと出来ない」
はっきりと断言されたのでやれやれと思いながら、迅は指定された場所に試しに座った。テーブルを前に、膝を立ててやや前のめりになると、やはり後ろからぎゅっと抱きつかれた。予想通りだから、もはや一言を口にする気力も出ない。
それでもさすが、腕を回されまま嵐山は右手ではシャーペンを取りノートに記載し、左手では参考書をめくるという器用さを見せた。有言実行というか、黙々と課題と思われるプリントを書き進めている。角度的に否が応でも迅の視界にも見たことのない数字の羅列が入る。正直、ちんぷんかんぷんだ。よくわかんないけど多分記号的に理数系だろうか。嵐山は昔から、勉強もスポーツも格段に出来た。迅はごくごく平凡だったので、義務教育以上は勉強したいという気持ちになれなかったから、そこは大学生全員を感心している。だから悪いが、それ以上に嵐山の勉強に興味もない。仕方なく、迅はポケットから携帯端末を取り出した。後ろから拘束されている状態で迅が出来ることなんて限られるから苦肉の策ではあったが。
「…迅が、俺にかまってくれない………」
携帯端末にぽちぽちと文字を打ち始めたら、嵐山は後ろからぽつりと愚痴垂れた。
「あのね。別に遊んでいるわけじゃなくて。嵐山、明日から大学行くでしょ?だから準備してんの」
マトモに相手してると首も痛いので、メール画面を見たまま返事をする。
「迅も大学に通ってくれるのか?」
そうして、また後ろから心なしか期待に膨らむ声がかかるのだ。とにかく耳の横でしゃべらないでほしい。ぞわぞわするから。
「そんなこと出来ないよ。おれは部外者なんだから」
ボーダー本部はまだアウェイではないから歩き回っても自然だが、そもそも迅は大学に在籍していない。本部の時と同じく、無理やり授業に引っ張っていくのは不可能だった。
「じゃあ、誰にメールしてるんだ?」
「おまえと同じ大学に通ってる人いろいろだけど…あ、今。連絡来たな。喜べ。最初の授業、柿崎が同じの取ってるから面倒見てくれるってさ」
一安心しながら来たメールに素早く返信をする。やはり持つべきは同年代の友人だ。後で何らかの借りを返さなければだが、迅の手におえないのだから仕方ない。
「迅じゃなきゃ、嫌だ」
「そんなこと言われても、おれしばらく嵐山と一緒にいられないよ?明日から、二日連続で防衛任務が夜勤だし」
だからこの家に帰って来ることはないと、はっきり伝えた。しばらく嵐山は大学に通う予定だということに嵐山隊的はなったので、迅がいない間は大学に縛り付けておこうと思った。というか、それしかない。
「え………どうして?」
それを聞いてピタリと嵐山の右手が止まり、シャーペンをころりと落とした。テーブルの下を転がるのを、もはや気に出来る筈もない。仕方なく身を少し屈めて、それを拾い上げてあげるが、それに対しては全くの無反応だった。
「どうしてって。中高生にあんまし夜勤させられないから、元々おれのシフトの半分は夜勤だし」
嵐山も当然知っている筈の事実を告げたが、今の彼には逆効果だったらしい。
「………迅…に、会えないのか?明日も。明後日も…」
そうつぶやいた後、よほどショックを受けたのか、そのまま拾い上げられたシャーペンを持ちなおすことはせず、ただひたすらぎゅっと迅の背中にしがみついた。肩の後ろに、顔をうずめてぐりぐりしている。ヤバい…この調子じゃ今日中に課題が終わらない。出かける直前に言って逃げるルートにすれば良かったと後悔が始まる。
「わかった。夜は無理だけど、明日の昼ごはん一緒に食べよう。おれ、大学の学食に行くからさ。だから、頑張って大学に行こう。な?」
嵐山の通う大学の学食は一般にも開放されていた。三門市が運営しているため、近所の主婦などがランチ替わりにも使うことがあるらしい。迅もこの大学にボーダー隊員が多いせいか、何度か誘われて学食くらいなら足を運んだことがあったからの提案だ。
返事は特にせずに、嵐山はこくんと頷いた。そうして何とか課題をやらせたが、それ以上にはやる気はないらしい。仕方なく、そのまま寝床に着くことになる。

やはり同じベッドで寝ること以外の妥協は許されなかったわけだが、さあ今日こそはと嵐山をベッドの奥にころがして、迅は手前に横たわった。これで昨日よりはぎゅうぎゅう詰めで寝なくてもいいだろうという見当だ。さくっと電気を消して、さあ寝ようと意気込んだ。しかし、やっぱりそんなうまくはいかないわけで、昨日と同じく後ろに抱きつかれる。真っ暗な中での完全な不意打ちだ。
「危ないから。おれ、落ちるから」
昨日は壁側だったからしがみつかれても壁とベッドの隙間に布団が落ちる程度だったが、嵐山の勢いが強いので洒落にならない。別にベッドの高さがそれほどあるというわけではないが、安心して眠ることが出来ないことに違いはなかった。
「迅、こっちを向いてくれ」
「いや…確かにその方が安定性あるけどさ」
嵐山が逆方向を向いてくれるなら検討する余地があるが、きっとそれはないと知っているからこそ、遠慮する言葉を出す。
「迅の顔が見たいんだ」
そう言いながら少し上半身を起こした嵐山は、迅の右肩を掴んでやや強引に自分の方へと転がした。反動でこてんと身体が回転し、嵐山の望み通りに向き直ることになる。ああ…やっぱりこうなったか。もうっ。
「こっち向いても暗くて顔なんて見えないだろ?」
ベッドサイドのランプもつけてないし、カーテンの隙間から差す月明かりもない中では、いくら暗闇に目が慣れても顔なんて視認できるものじゃなかった。
「近づけば見える」
ぐいっと迅の身体を引き寄せて、嵐山は真正面から抱きついた。上からかぶさられるようになると、それはまるで嵐山に包み込まれているようだった。確かにそうすれば、うっすら見えるが、顔が近い。近い。近すぎる。
ああもうこれはさっさと寝るに限ると思い、あまり意識しないように迅は無理やり目をぎゅっとつぶる。そして寝ろという暗示を自分にかけたのだった。










【2014年7月26日 土曜日】



それほど重くない瞼を迅が開こうとしたとき、まだきっと早い時間なんだろうと思った。カーテンの向こうの太陽がなんだかまだ低い気がする。普段の迅がこんな早くから起きることなんてまずなかったが、ここ数日嵐山と生活を共にしたせいか身体が勝手に早起きに変わったようだった。早寝早起きとは素晴らしいが、そう簡単には慣れない。
パチリと目を開けると、眼前にはもちろん嵐山がいた。いるとわかっていた筈なのにちょっと驚いた。声を出さなかった自分偉いと思うほどには。嵐山は寝ていても端正な顔立ちをしていたから、つい眺めてしまう。整った眉毛の角度で安心して眠っているのがわかる。伏せられた睫の先の瞳が今は見れないのは残念だけど、今は閉じているが綺麗に並んだ白い歯を見せる口もあるし、パーツ一つ一つがしっかりしているというか、やっぱり文句なしの男前だ。うちの京介もイケメンだが、嵐山はまた方向性が違うなと思う。この安心しきった顔が昼間も続けばいいけど、どうだろうか。嵐山が静かに呼吸をする一つ一つの動作さえ吸い込まれそうだった。いつまでも見入っている場合ではないから、ベッドから降りようとしたが、身体が動かなかった。何事かと、布団の中を首だけ動かしてみれば、嵐山にがっちりホールドされていた。
「嵐山、朝だよ」
視線を壁時計に目をやれば、そろそろ嵐山の母親が朝食を作り終える時間が近づいている。間違っても起こされに来て、ベッドの中で抱きつかれている状況を目撃されるわけにはいかない。だから今は嵐山を起こして離れて貰うのが一番ベストだと思った。
「ん…」
声をかけただけでは嵐山の行動と言う反応はなかった。べたりとこちらにひっついているのは変わらずで、寝ているというのにこの力は凄いと思った。仕方なくかろうじて動かせる左手で嵐山の肩を柔らかく押し、その頬を軽くぺちぺちとたたいた。
「…、……じん?」
ろれつが怪しい感じの声はもたらされて名を呼ばれたが、その瞳は少ししか開かずうつらうつらとしている。まだ酩酊に浸りたいかのようにベッドに沈んで、何度か頭をぱさぱさとふっていやいやとしていた。
「起きよう。嵐山」
そう声をかけた瞬間だった。それでも迅に呼ばれたから何とか身を起そうとしたのだろうか。とろんとした覚醒が完全ではない嵐山の顔が迅の迫り、そのまま二人の唇が軽く触れた。
「なっ!」
驚いた迅は急いで身を離して、触れた自身の口元を指で覆った。そんなことは露知らず、嵐山はそのまま迅の胸の中に頭をうずくめてまた寝ている。
な、何だ…というか。今のはアクシデントだよな?そうだと思っていても勝手に顔が赤くなる。冷房は効いているのに暑い。偶然だ。嵐山はただ寝ぼけていただけだ。それでも迅は顔の火照りを冷やすのに精いっぱいだった。ただ、もうこんなことはないように一緒に寝るのはやめようと固く誓った。
結局ベッドに沈んでいる嵐山を直ぐに起こすことは出来ず、母親が二階への階段を登る足音が聞こえて慌てて迅は嵐山を無理やり起こして離れた。

正直、甘やかす余裕もなくなったので、朝の準備が整うと半強制的に大学に行くようにと命令した。案の定、迅が冷たい…とまた落ち込んでいたが、さすがに取っている授業を休むわけにはいかないと思ったのだろうか。しぶしぶという形で嵐山は大学へと向かった。
夜勤の前にやらなくてはいけないことがあるので、玉狛へと戻った迅はこの前中断してしまったパソコンの続きへと向かい、作業を再開する。途中、柿崎から連絡が入って嵐山を無事に教室へ入れられたと連絡があったので安堵の息を漏らした。普段の嵐山は真面目な大学生だが、その大学生の中でも不真面目と言える学生がたくさんいることを迅は知っている。城戸が作った規律の厳しいボーダーにいるよりは、少しの緩さが許される大学にいる方がまだ今の嵐山にはまだいい方だろうとやはり感じた。
そうして昼ご飯を食べると約束した時間より少し早めに着くようにと、迅は見計らって玉狛を出た。嵐山の通う大学は、新しく出来た新弓手町駅の目の前にある。三門市に人を集める為には駅に近い方がいいだろうと、三門市立の大学なのだが、もともと東三門にあったのを警戒区域の外へ移すと同時に駅の移転と共に唐沢の謎の助言を得て新築したのだった。裏のお金がどんなに動いたのだか、迅は知らないがあまり知りたくもない。交通の便がよく、広く新しい設備の整った校舎は市外から通う学生も数多くいた。高校などと同じくボーダーと提携している学校の為、迅の見知った隊員の大学生殆どがここに通っていた。嵐山は高校時代から非常に勉強が出来たため、頑張ればもっと上の大学を狙えただろうが、他の大学に行くという選択肢は特になかったらしい。大学に行っていない迅が深く追求することはなかったが、嵐山は昔からある程度のことはなんでもそつなくこなすことが出来た。だからこそ、これと言って専門的な何かに興味を持つことはなく、大学にはそんなに執着がなかったようだ。ただ…ボーダーを両立すること、そして弟妹や家族と会う時間を減らさないために近くのこの大学を選んだに違いなかった。それでも普段ならば真面目に大学には通うし、単位もきちんと取得しているから誰が文句を言う必要もないのだが、迅はそのことが少しだけ寂しく感じていた。
この大学に来るのはもう何度目かなので、さっさと約束の食堂を目指す。明るい光が射し込むカフェテラスを素早く通り抜けて行く。確実に部外者であることに違いないが、大学には色々な年代の人間が通っているので、本当だったら大学に通っている年齢な迅が歩いていても全く浮きはしなかった。それでも気持ちとしてはあまり堂々とはしていられないので、学食につくと端っこの方のなるべく目立たない席を選んで座り待つことにしたのだった。

「あ、いたいた。迅!」
人賑わう学食でぼっちの手持ち無沙汰は悲しいので、外の風景を眺めながら売店で買った馴染みのぼんち揚を軽く食べていると、後ろから明るく名前を呼ばれたので振り向いた。
「あれ?太刀川さん」
右手をあげながらこちらに進み寄ってくるのは、ここの大学生でもあり仕事上の同僚でもある太刀川だった。本部ではよく見かけるが大学で遭遇したことはなかったので、何か変な感じがする。
「おまえ、こんなとこにいたのかよー 探したんだぜ」
やれやれと言った言葉を含められながらも、こちらに近づいて来る。
「あ、もしかして。嵐山を連れて来てくれたの?ありがとう」
太刀川の後ろに薄暗くいた嵐山を見つけて、状況を察した。身長と体格的に、大学で嵐山を連れてこられる人間は限られているので、それが本当に太刀川で良かったと思っている。迅を見つけた嵐山は、そのまま太刀川から離れて迅の左腕にすがりついた。
「あ、ホントに迅なら大丈夫なんだな。たまたま教室で死んでるの見かけてさー 事情よく知らない大学の奴らは驚いて近づかないから拾っておいた」
自然に迅の懐に入って来ることに少し驚く声を出しながらも、やはり太刀川相手でも嵐山は少々厄介だったらしく、安堵してこちらにバトンタッチしてくる。
「助かるよー ていうか、太刀川さんが大学来てるなんて珍しいね」
普段の嵐山とは対照的に、学業にあまり興味ない太刀川の噂は別に大学に通っているわけでもない面々の中でも非常に有名だったからこその言葉だ。逆に言うと大抵本部にいるので便利といえば、便利なのだが。
「おまっ…随分な言いぐさだな。
教授に怒られてさー 今日来ないと単位はやらんって言われたからな。仕方ない。このあっちーのに」
空調は十分かかっているがその長身のせいで窓から差し込む光が眩しいのだろうか、遮りながらもパタパタと手で団扇する。それにしても文句を言う割に、理由は相変わらずである。しかしその偶然が重なって、嵐山を連れてきてもらったのだからこれ以上は言うまい。
「太刀川さん、お昼まだでしょ。一緒に食べない?お礼におごるからさ」
これからがお昼の本番というべき時間なので、学食には腹を空かせた学生がちらほらと増えてきた。今朝方のこともあり、このまま嵐山と二人で昼食をするのも何だか気まずいしという含みもあり、誘う。
「おっ、じゃあ食べるかな」
ラッキーと言わんばかりに太刀川のテンションがわかりやすく上がったので、助かった。嵐山はもちろんのこといくら幽霊学生気味の太刀川もボーダーに所属していることはそれなりに知れ渡っているから、このメンツに混じる分だけでも傍から見ての違和感は少なくなるだろう。
「はい。じゃあ、おれたちの分も買ってきて」
迅は自分の財布から千円札を何枚か取り出して、太刀川に手渡してそう言った。
「結局、俺がパシリかよ…」
先ほどから一転として、一喜一憂とする声が出された。
「仕方ないでしょ。おれは、嵐山引きずったままじゃ、トレー持てないんだから。
メニュー何かオススメある?魚とかあるといいんだけど」
チラリと迅の左肩に密着する嵐山を見るが、多分聞こえていてもこれをやめるだなんてことはしてくれないので観念しているが、相変わらず微動さにしていない。気を取り直して楽しい?昼食に意識を移すことにした。
「確か、ねぎトロ丼とかはいつもあったと思うけど…」
一つ頭を巡らせる動作を入れて太刀川が答える。言い方がかなりうろ覚えなのは、あまり大学に来ないせいだろうか。もう通って三年目だと言うのに大丈夫だろうかという心配もあったが、今の迅には他人の心配などしている余裕はないから、あえては言わない。
「じゃあ、嵐山にソレ。おれは、日替わり定食でお願い」
メニューが表示されている場所なんか見ずに来てしまった為、他に何があるのかさっぱりわからなかったが、迅も以前の記憶を辿って注文する。別に迅はぼんち揚以外の好物はないから、食べられれば何でもいい。
「俺も好きなの頼んでいいんだよな?」
二人のメニューを聞いた後、少しの期待を含めた言葉が入れられてくる。
「どうぞ。ご自由に」
「やりっ」
そう言うと差し出された千円札を受け取って、軽くステップしながら太刀川はトレーを取りに言った。結局三人分の食事のトレーとお茶を持ってくるのにこの場を三往復する結果になったが、自分の好きな物を食べられるということで太刀川はそれなりにご機嫌だった。そうは言っても、持ってきたのはきつねうどんと肉じゃがコロッケ二個だったので安いもんだ。太刀川は長らくA級隊員だし別に金銭的に困っているわけではないが、人のおごりで食べる食事はいつもより美味しい気持ちは迅もなんとなくわかった。
ちょうど空いた四人掛けのボックス席に移動して、三人で座って昼食にありつく。さすがに昨日の取材の時のように手を繋がれては食事が出来ないので、嵐山はもくもくと箸でねぎトロとご飯をすくいながらも、迅の肩によっかかっていた。それを見ていた向かいに座った太刀川は食事のきりを付いたところで、声をかける。
「で、おまえら付き合ってんの?」
「ぐ…!」
ちょうどのんびりと食後のお茶を飲んでいた迅に、その質問はいささか不意打ちすぎた。正しく食道を通り過ぎようとしていたお茶がその衝撃で若干気管の方に入り込んだので、けほけほと少しの咳を出した後に息を整えて、改めてお茶を一口飲む。
迅がそれだけの慌てようなのに嵐山はまるで聞いていないのか、ぼうっとしながらもくもくとねぎトロ丼の続きを食べている。もちろん寄りかかる迅の肩から己の頭の位置を変えようとはまるでしていない。
「ちょ!そんなわけないでしょ?ていうか、おととい本部で会った時、説明したよね?」
いくら学食が賑わっていてそれなりに騒々しいとはいえ、人目をはばかっていないその発言に軽く怒りさえする声を出す。そしてあまりにも直接的なからかいに返事するのもどうかと思い、少し話をすり替える。
「あー嵐山の弟と妹がどうとかいうやつ?」
うーんと頭を少し傾げて記憶をたどっているかのように声を出すが、きっと太刀川は自分が悪いことを言ったとは微塵も思っていないだろう。ただ、直接思った事をズバリと口に出したに過ぎない。
「わかってんじゃん」
そうだ。迅はそこが一番釈然としなかった。事情を知らない人間が、この状態を見てああだこうだと変な勘ぐりをするのは、まあ仕方ないと思えるほど嵐山のスキンシップが少し過度だと、それくらいはいくらなんでも迅にだってわかっている。が、太刀川は違う筈だ。迅が仕方なくこの状態に甘んじていると知っているのに、その発言は何なんだ。今はちょっと嵐山の精神安定剤係りをやってるだけだ。
「俺は去年の騒動知らないからなー というかだからこそ付き合ってる迅にべったりなんだと思ったんだが、違うの?」
その心から信頼している様子を指さしながら、太刀川は指摘する。そういえば魔の修学旅行事件の時、ちょうどたまたま太刀川隊は遠征で本部にはいなかったような…。直接的な被害者でない限り、後で間接的に騒動を聞いた限りなのだろう。羨ましい。幸せだな。
「付き合うわけないでしょ。おれと嵐山だよ?」
あまりの天秤釣り合いのとれなさに眩暈がしながら、その仮定を否定する。しかもおかげさまでさっきまで少し忘れかけていた早朝のアクシデントを思い起こす…あれは別にキスとかじゃなくてたまたま偶然起きた事件だったけど、ぶわっと迅の頭を沸かせるには十分な案件だった。
「おまえら、普段から仲良いじゃんっ」
そんな中でも、一体何が駄目なんだという考えをこちらに押し付けてくる。だが、太刀川の言う今までの普段の嵐山と迅は、ただの友人で、こんなにひっついていなかった筈だ。きっと太刀川の目が突然悪くなったんだと思いたかった。
「同い年だからだよ。太刀川さんにとっての二宮さんとかと同じだって」
ボディションは違えども隊長同士で多少は立場の似ている人物の名前を挙げる。個人総合成績1位と2位の関係で同学年の二宮が一番に思い浮かんだのは、迅にとっては自然なことだった。
「俺と二宮は、そんなに仲いいか?」
はてなという顔をして、何やら二宮の事を連想する太刀川は心底不可解だという顔をした。確かに二宮は太刀川と正反対で、ニヒルで真面目だからタイプはまるっきり違うが。
「じゃあ、堤さんとか…二人ともよく加古さんのチャーハン食べて死んでるじゃん。仲いいじゃん」
もう仕方ないから、太刀川と同学年で残念なエピソードを小耳に挟んだことがある面々の名前を出した。そもそも迅は悪評の高い加古のチャーハンを絶対に食べないように、サイドエフェクト使って逃げているから詳しくは知らない。あっ、チャーハンが当たりのときはありがたく頂いています。ただ未来視があるのにわざわざ外れチャーハンを食べるのはナンセンスだと思うだけだ。
「結局うちのタメはなー 腐れ縁ってやつだ。あ、来馬は良い奴だぞ?」
何か変に納得したらしく、太刀川はうんうんと一人で頷いている。
隣でそんな話が炸裂しているというのに当事者である嵐山はマイペースにご飯を食べ続けていて、ようやく箸を置きお茶を一口飲んだあと、やっぱり迅と一緒だとご飯がおいしいなと呟いた。台無し。

おごった分くらいの働きはして貰おうと、嵐山を次の教室に連れて行くよう太刀川に頼んで、迅は本部へと向かった。別れる時に嵐山が嫌々としたような気もするが、もう慣れた。
夜は慢性的に人手不足なので夜勤のシフト設定は昼より長めだ。合間に短い休憩と長い休憩が用意されていて、その時間を利用して仮眠を取るのが一般的だった。ずっと夜勤ならともかく、昼勤と夜勤を繰り返しているとどうも人間の身体は調子を狂わせてしまうのでなるべく日常生活に近い環境でいられるようにという配慮だった。夜勤は慢性的に着ける人間が限られているせいもあって、悪く言えば有り合せのメンツになることもある。そして元S級ということで、迅は昔の防衛範囲をそのまま引き継いでいる。チームで防衛任務に当たる隊員も多いが、玉狛第一を抜けて随分と経つ迅にとってはソロでいる時間の方がトータルすると長い方だった。それにS級でいたときでさえ、滅多なことがないかぎり風刃を起動させて戦うなんてことはなかった。遠距離攻撃は苦手な専業アタッカーとはいえ、生まれ持った未来視のサイドエフェクトと自らが開発に携わったスコーピオン。それに玉狛独自開発のトリガーを組み合わせれば、平時ならば問題など起こらなかった。
長めの休憩時間となり、いつもならば玉狛支部の自分の部屋に帰って仮眠を取ったりもするのだが、ここ最近どうも嵐山に振り回されてわざわざ玉狛まで戻る気力がなくなってしまった。それなので夜勤の隊員に宛がわれている当直室で、アラームをセットし次の時間まで眠ることに決めた。
久しぶりに一人の夜。それが寂しいだなんて…どうして思ってしまったのだろうか。仮眠の時間はそれほど長くは取れな いから早く寝なくてはいけないのに、迅はなかなか寝付くことが出来なかった。










【2014年7月27日 日曜日】



ピピピピ・・・
そのアラームの音が耳に入って来た瞬間、迅は簡易ベッドから飛び起きた。
「嘘、だろ…………」
右手で軽く顔を覆いながら、冷静に現実を確認しようとする。ここは当直室できちんと時間通りに起きたからそう…現実は問題ない。一番の問題は、迅が見た夢の内容だった。

おぼろげでもなくはっきりと―――夢の中で迅は嵐山とキスをしていたのだから。
それも昨日のように寝ぼけ眼というわけではなく、しっかりくっきりとだ。迫り来るその光景がいやに生々しく脳裏に焼きついている。眠りが浅い時に滅多に夢なんて見ないというのに、ここ最近わりとぐっすり嵐山の家で寝ていた反動だろうか。夢なんて媒体が、どこかから無理やり引きずりだされたのだ。それでも具体的な内容なんて覚えていない。前後もわからず、とにかくキスをしていたというか………いや、わからなくていいんだが…昨日の太刀川さんのせいだ絶対と一つの恨み節を込めるくらいしか出来なかった。

おかげさまでうだうだと悩まなくて良いのは、直ぐに次の防衛任務の時間が差し迫っていたからで、いつもは浴びない寝起きのシャワーをさっと浴びて頭を冷やしてから改めて迅は任務へと向かった。その結果は普段からすれば芳しくなかったが、それでもトリオン兵を取り逃がしたり不用意なケガをするというヘマは別にしない。ただ、いつもより動きに繊細さは欠けていたが、いくら迅だってたまには調子が悪いときだってあると自分を納得させながら対応した。
夜勤が終わった後は、ようやく玉狛に戻ることが出来た。最近不在気味だったので、たまには頑張る後輩たちの様子を見ようという気持ちになったのだ。それにやっぱり今は嵐山とは顔を合わせにくいから、そちらに行こうとはあまり思えなかった言い訳にもなったが。それでもまた昨日のように大学に昼食でも一緒に食べに行くべきかとすごく悩んだ。別に今日は約束しているわけでいないから、どうしようかと思ったら、タイミング悪く根付に強制的に呼ばれて、また本部にとんぼ返りした。
「迅くん…嵐山くんは、もう少しどうにかならないかな?その…サイドエフェクトとか使ってさ」
その内容は予想していた通りの案の定だった。嵐山が沈んでいるから何とかしてほしいというアレだ。冷や汗が止まらない根付がこちらに真に迫る顔をして訴える。
「さすがに、おれのサイドエフェクトも万能じゃありませんから。嵐山の弟妹好きが治った未来は視たことないです」
それは永遠に至る無理難題だと根付に告げる。希望を持たせても結局はどうしようもないのだから、だったら明瞭に伝える方がまだせめてもの優しさだと思っている。
「はぁ〜じゃあ今後もこういうことがあるってことだね」
がくりと深いため息をついて、机に手を突いた。
「まあ、双子のどっちかがいればなんとかなりますし、学校行事以外で同時にいなくなるってことはないとは思いますが」
双子の高校の進路は聞いていないが、もし同じ学校に進んだらまた行事がまるかぶりになるなとは思った。だが、今でも相当な根付の様子にこれ以上の追い打ちをかけるわけにもいない。
「今度は、絶対予め教えてね?必ずだよ」
どうやら軽く胃痛がするらしく、みぞおちのあたりに手を当てながらも根付は力説した。
「いや…おれは今回双子に頼まれたから面倒みてますけど、そんな毎回は」
そうは言われても迅だって自分がやれることは最大限やっているつもりであったから、これ以上は無理だと言っておかないと今後も意気消沈している嵐山世話係りに任命されそうで、怖い。予防線を張る。
「嵐山くんの広報の仕事たまって大変なの。死活問題なの!」
くわっと目を見開いてテーブルに両手を付き、こちらへ迫り訴えてくる。確かにあんな状態の嵐山を広報の場に出せるわけがない。それはこの前、取材に付き合って十分にわかった。
「あ、明日の夜には双子が戻ってくる予定です。それまでの辛抱ですから」
ちょっと後ろへと引きながらも、根付を堂々となだめる。もはや、時が全てを解決してくれることに望みをかけるべきと言う言葉だ。
「明日の夜かー 嵐山くん、明後日は非番だしな」
まだ先は長いと根付は窓の外を見て、とても遠い目をした。まだ昼間なのに黄昏るのは凄い。
「仕事ため込んでるなら、出勤させればいいんじゃないですか?」
ここ数日使い者にならなかったのは事実だし、双子が戻ってくれば嵐山も冷静になるだろう。ためこんだ仕事があるなら嵐山だって休日出勤?は別にするだろうと思ったからの発言だったが。
「なに言ってんの。明後日は嵐山くんの誕生日でしょ?」
部屋にあるカレンダーを示されてトントンと指摘される。
「あ、そういえばそうでしたね」
言われて、ぽんっと思い出す。ボーダー隊員は総じて忙しいので、社則の中に一つの規約が設けられている。余程の緊急事態でない限り、誕生日の隊員はその日は非番になるという制度だ。特にエンジニアあたりからボーダーってブラック企業じゃね?と言われるのを防ぐために、せめて誕生日くらいは…という配慮だった。制度自体は知っていたが、迅は自分の誕生日などあまり気にかけるような性格ではなかったし、祝うような身内もいないので別段気にしたことがなかった。実際、シフトを組まれても勝手に非番になっているだけだし、自宅兼職場なので、非番だろうがやることがあるなら勝手に仕事していた。しかし双子のあの口振りでは、きっと嵐山家では誕生日になにかするんだろう。今嵐山もそれを唯一の生き甲斐として過ごしているに違いなかった。
結局、根付の心の影を迅には晴らすことが出来なかったが、仕方ない。というか、さっきからなんかポケットに入れた携帯端末が震えまくっているので、早々に部屋を退散することとなった。
「う…わ………」
こちらも予想通りというか、画面を開くとメールとSNSアプリの通知がたくさん入っていた。一応今日の午前中は、同い年の月見に嵐山の面倒を頼んだのだが、彼女のようなドライな女性に全てを賄えるわけがなく、嵐山を大学の保健室にまで行くのは見届けたという連絡が入っている。これで少ない同い年の絆は潰えた。他の通知は、一つ下の今年大学生になったばかりの後輩たちからの嵐山の目撃情報だった。一年生なら他の学年よりは大学にいる率が上がるだろうと思って気を配るようにと連絡しておいたのだが、やはり無理だったらしい。悲痛な叫びが入っている。そうは言われても、こちらも今日はまた夜勤で本部詰めである。今から大学を往復していれば防衛任務の時間には間に合わない。どうしようかと考え抜いている時、ここでもう一通のメールが入った。メールの主は一つ上の来馬で、やはり嵐山のダメな目撃情報だった。助かったと思った。おそらく知っている限り、一つ上の学年の中では来馬が一番後輩の面倒見がいい。後でこのご恩は倍返しをしますからと精一杯の心を込めて、面倒を見るようにお願いした。送った。それ以降の返信画面を見る暇はなかった。きっと来馬なら、仏の顔で嵐山を介抱してくれるのだろうと勝手に一人で祈った。

嵐山という雑念はいろいろあったが、防衛任務中はそれなりにこなしてきちんと過ぎた。今日もまた仮眠の時間だ。そうか、また仮眠か。ああいう夢見なきゃいいけど…と一瞬思い出して、またすぐさま頭をぶんぶんと振って忘れる。今日も玉狛に戻るほどの頭にはなれなくて、昨日と同じく本部の当直室に入ろうと扉の前に立った瞬間だった。
「おいっ、迅」
右足を踏み出したところで、聞きなれた声に呼び止められた。
「えっ…風間さん?ていうか、なんで嵐山いんの!?」
振り向けば、二人が立ち並んでいて相当驚いた。いや、風間がここにいるのは別に間違ってない。隣のエリアで、今日の夜勤シフトが一緒なのは知っていたから。引継ぎ確認の時に普通にいた。だが、嵐山は確実に違うのでどうやって本部に来たのかと軽く混乱する。
「来馬から連絡があってな。途中から俺とシフトを交代することになった。そこらへんで死んでいるよりは使い物になるだろ」
冷めた目でありのままの事実を伝えてくる。ていうか、風間さんの体格でどうやって嵐山を連れてきたんだと思っていたら、迅を餌に吊ったのか。納得というか、さすがというか。それにしても、あのボーダーで一番優しいと有名な来馬の手に負えないほど嵐山は酷かったのか。申し訳ない。後で手みやげを持って、きちんと謝罪に行こうと思った。しかし、それはそれ。今は今だった。
「あの…おれに被害が全部来るんですが」
そう言う前に嵐山がこちらに歩み寄り、一日ぶりの迅だとつぶやき、抱きついてきた。相変わらず折角の男前が台無しな仕草だろうが、もはや本人が気にするわけでもない。風間もそれを見ても無反応だ。なにこれこわい。どんだけ噂広がってんの?
「俺の手には負えんから、あきらめろ。最後まで面倒をみるんだな」
ばっさり切り捨ててる言葉を出した後、風間はこちらを見捨ててスタスタと本部通路を行ってしまった。普段はクールという印象の風間がこのときばかりと、一段と声をかけにくいオーラを醸し出していた。

「嵐山、少し離れて。歩きにくい。おれ、仮眠とる時間なんだけど」
その場で、いつまでもひっかつれてさすがに困る。迅もまだ若いつもりだが、それでもここ最近の惨事を考えるに寝ないでこのまま防衛任務に当たるほど自己管理がしっかり出来る余裕はない。
「俺も寝る」
よく見れば、嵐山の方もどうやら少し寝不足のようで、もったいない。その整った顔立ちの目元の下に少しのくまが見える。しばらく見ていないうちにやつれている気さえした。
「じゃあ、ベッドまで一緒に行くよ。どこの当直室予約してんの?」
休憩の時間帯がかぶることもあるので仮眠ができるベッドが完備されている当直室は、いくつか用意されていて基本は交代で仮眠を取っている。敵も24時間体制でやってくるから少しは休んでくれないかなとは思うが。
「予約してない。迅と一緒に寝るから」
「は?いや、待って。当直室のベッドは一人用だよ?二人も寝れないから」
正直なところ嵐山の部屋で、セミダブルベッドに一緒に寝ていた時も結構な窮屈だった。大変だった。当直室のベッドはまぎれもなくシングルだ。それも長時間寝ることを想定していないとても簡易な作りだから小さい。迅でさえ足の長さ的にギリギリと言ったところで、もっと長身の面々はどうしているんだろうと思うくらいなのだ。
「大丈夫だから、寝る」
嵐山は勝手に一人で納得してそう言いながらこちらを巻き込んでその当直室の中へと入ると、そのまま迅をベッドに押し倒した。薄いマットレスの簡易ベッドに二人分のスプリングが結構な大きさでギシリと鳴る。さすがに壊れはしないだろうが、結構な衝撃もあったので心配するくらいだ。それにしてもこのモードの嵐山の行動力には感心するが、出来たら弟妹のみに発動してもらいたかった。結局のところのらりくらりと嫌だと伝えても容赦なく構い倒されることとなる。
ようやく迅に会えて安心したせいか、嵐山はどうやら半分眠いらしい。腰元に抱きつかれて、頭をぐりぐりとされる。は、激しい。こりゃ、昨日の夜も顔だけでも見せにいった方が良かったなと圧倒的な後悔をした。そのままベッドの上でぎゅうぎゅうと強く抱きしめられる。
「いや、やっぱり無理だろ。おれこのままじゃ、重くて寝れないし」
もはやこのベッドに寝ることは確定事項のようなので、諦めた。だからせめて環境を整えたいと思うのも当然のことで、しかしどう考えてもこの場は1.5人分程度の横幅しかない。たとえ二人が横になったとしても、確実にどちらが通路側に落ちる自信があった。別に嵐山の体重が過度に重いとは言わないが、迅と同じ程度の体重がのっかかれて大丈夫といえるほどではない。
「じゃあ、逆になろう」
言われて身を起こした嵐山は、少し上へとずれて抱きついていた迅の腰を視点にぐるりと回転させた。
「うわっ、」
突然天井への視点が切り替わり、思わず声が出る。そうして体勢が入れ替わった二人は先ほどとは正反対になり、ベッドに寝転がる嵐山の上に迅が乗ることとなった。これなら重くはないのは確かで、でも嵐山は自分が重くないのか?と思ったが、本人は満足顔をしているからこれでいいんだろう。きっと。しかし男の身体の上とか…骨ばっていて寝心地はまったくよくない。身体がきしむのが容易に予想できる。だが、嵐山にこちらの背中をそして腕を回されてはろくに動けないのだから仕方ない。はあ…とここ数日何度目かのため息をつく。
「嵐山。明日には双子が帰って来るだろ。それでもダメなの。寂しいの?」
角度的に仕方なく上目遣いで見上げながら尋ねる。これが最終段階とは言え、かなり無理あるなと思うのだ。
「うん…寂しいんだ………迅。頭なでて?」
やっぱり甘えられる。今こんな状況で、仮眠から目覚めた後に離されなかったら困るから、言うとおりにする。はいはいと、羽根のように軽い髪をなでると、指の隙間を薄く通るのが心地よい。
「去年、双子がいなかったときは、ここまでじゃなかっただろ。何かあったのか?」
薄々と気になっていたことを、迅は口に出した。さすがに前回は付きっきりだったわけではなかったが、最低ラインでそれなりに嵐山一人でも活動していた筈だ。少なくともこんな行動不能にはなっていなかった。だから迅も油断していたというのはある。たった一日、乗り切ればいいのも我慢できないなんてちょっと尋常じゃない。
「去年の、冬…」
「ん?」
ぽつりと嵐山が言いにくそうにしゃべりだしたので、迅は促す声を出す。
「去年の冬に、佐補と副の学校が襲われたことがあっただろ?」
「…確かかイレギュラーゲートが発生して、うちのメガネ君が…、いや本当は遊真がか…倒したっていうやつだっけ?」
ぐるりと頭を巡らせて、その事件を思い出す。迅は人づてで聞いただけなのでそこまで明確な情報は持ち得ていないが、嵐山からすれば確かに当事者だろう。
「あの時はたまたま本当に運がよくて、誰も犠牲にならなかったし、二人もケガをしなかった。あの時は三雲くんたちが、第一次大規模侵攻の時は迅が俺たちを…助けてくれた。俺自身、佐補や副や…家族を守りたくて市民を守りたくてボーダーに入ったんだ。でも、本当に大切なモノを俺は守れるのか…近くにいなくなるとわからなくなる。俺は贅沢者なんだ」
その時を思い出したかのようにちょっと顔を引きつらせて嵐山は語った。きっと苦しかったんだろう。一気に寂しくもなったんだろう。こうやって弟妹が近くにいないことが不安で、また実感した言葉になったんだと思う。
迅は、頭を撫でていた手でぽんぽんっ、とあやすように繰り返す。
「それで…いいんじゃないか?そこが、嵐山の良いところだし。
それに嵐山は一人じゃないだろ?嵐山隊のみんながいる。ボーダーのみんながいる。もちろん、おれも」
その輝かしい未来が視えていると、迅は瞳に込めて言う。もう不安になることなんてないと、安心させたかった。
「迅は…ずっと俺と一緒にいてくれるよな?」
「ああ」
「良かった…」
心からの安心を一言に込めて、嵐山は吐き出した。それだけで胸の安らぎを幾ばくか得られたようで、こちらを抱え込んでいた指の力が少し抜けるのが見えた。
「だから、おやすみ。明日になれば、大丈夫だから…」
迅に促されて、部屋に入る前からうつらうつらとしていた嵐山の瞼が優しく閉じた。それを確認して、迅もちょっぴり暖かい彼の腕の中で眠ることが出来た。










【2014年7月28日 月曜日】



「迅、そろそろ時間だぞ?」
その涼やかに通る声を耳に受けて、迅はパチリと目を覚ました。
今日は夢を見なかった。良かった。昨日の夢の内容も十分に問題だが、嵐山と一緒にいて見る夢など変に勘ぐってしまうから、見ない方が幸せに決まっている。一晩というほど長い時間でなかったが、それでも数時間も乗っかっていて重くなかったのかなと未だに思うが、迅の下にいる嵐山はけろりとした顔をしている。やはり今日の夜、弟妹が帰ってくるということが活力になったのだろうか。わりといつも通りに見える。負担をかけないように嵐山の上から降りて、ベッドの縁に腰かける。昨日は直ぐに眠れたことで身体の回復は成されたはずだが、やはり不安定な体形で寝ていたことに違いはないので、節々に違和感がある。身体がちょっとぱきぽきとする。軽く伸びをして身体の調子を整える。
「嵐山、おはよう」
迅が上からどいたので嵐山もその横に座って来たので、改めて朝の挨拶の声をかけた。ただ、それだけのはずだった。
「おはよう」
嵐山はそう言いながら軽くこちらの肩を掴んで首を向かされると、何でもないかのように頬に一瞬だけの軽いキスをされた。
「なっ、なっ、な…………何で、キス!?」
驚いて直ぐに顔を離したが、現実は目の前に落ちている。
夢?夢じゃないよな。微かに感触あったし。あ、一昨日。そうだ、一昨日…寝ぼけた調子で唇にキスされた。あれか?いや、でも今嵐山は普通に起きているぞ。はつらつとしているぞ。意識あるのに、なんでだ?と慌てるしかない。
「うーん。そうだな… したくなったから」
嵐山自身もあまりよくわかってないように答えが来る。無意識って余計にどうかと思うが。
「…それ、双子にもしてんの?」
瞬時に一つの疑問が思い浮かび、追求をする。というか、そうでなくては困る。それ以上の意味はないのだとわかっているのだから、不用意に慌ててはいけない。
「昔はしてたな。でもこれは佐補だけじゃなくて副もわりと直ぐに嫌がって、あんまり出来なかった」
残念そうに肩を落として言う。
しかし兄弟って何だ?距離感がイマイチわからない。迅は一人っ子だし、母親も早くに亡くしたから余計に家族がわかっていないせいなのだろうか。どこか自分が間違っているのかとさえ思う。
「そ、そりゃ。そうだろ… で、何で突然いきなり?今日に限って…」
これが兄弟間の親愛のキスだとはわかったが、最後の…双子が帰って来る日にわざわざと頭を悩ます。多分一緒に寝るのも今日が最後だと思っていたので、安心して油断しきっていたことも原因の一つだろうが。
「ああ…そう言えば今まではしてなかったな。じゃあ昨日の分も、しよう」
そう言って張り切って立ち上がった嵐山は、空いている迅のおでこにまたチュッとキスをした。
「ちょっ、、それは!おれじゃなくて、双子にやりなよ」
これ以上は勘弁して欲しいと迅は泣きそうになった。なんとか逃げないとと、口実を付ける。
「でも最後に嫌がってから随分と大きくなったから、もう駄目だと思うんだが」
今までの行動とは裏腹に、嵐山は割と冷静だった。弟妹に対しては普段見境ないくせに、さすがに嫌がられるとショックだからそのラインだけは見極めているのだろうか。だったら迅に対してもそうして欲しかった。
「いーや、わからないぞ。明日はおまえの誕生日なんだから、受け入れてくれるかもしれない。よしっ、おれのサイドエフェクトで視てやるから…ちょっと離れて」
こんなところで無駄にサイドエフェクトを使うもんじゃないとは思っていたが、今嵐山から逃げる為には持てるもの全てを使わなくては無理だと思い、話を飛躍させる。
「そうか。迅ならわかるんだったな。じゃあ、頼む」
そうは言われても多分未来の双子は拒否っているだろうが、自分にこれ以上の被害が降りかからなければもう何でもいいと迅は思った。
嵐山の瞳を直に視ると捕まってしまうので、少し距離を置いてサイドエフェクトを使用する。その…嵐山のほんの近い未来をだ。意識が一瞬遠のく―――
「……………」
「どうだ、迅。佐補と副の反応は?」
いつまでも黙りこっている迅に、きょとんとしながら嵐山は答えを求めた。そんなに芳しくなかったのかと、どこか心配そうだ。
「……あ、…ああ。うん…やっぱり、無理………みたい。残念だったね…」
迅はサイドエフェクトに関して絶対に嘘は付かない。だからそれは真実だったのだが。確かに嵐山は可愛い双子たちにすることは不可能だった。それなのに…迅のサイドエフェクトでは―――

嵐山と迅がキスをしている未来視が、はっきりと見えたのだった。



仮眠後にはそんなに時間の猶予はないからして、急いで防衛任務の続きとなる。嵐山はこの時間から入ったのだが、本来ならば迅とは隣のエリアを担当していた。風間がそうしていたように、別々に別れようとしたが案の定、なんで一緒に組んで二人分のエリアを見ないんだ?という話になり、結局のところ押し切られてしまった。元々嵐山は単独行動するより複数で連携して行動する方を得意としているから、当然と言えば当然の行動だったのかもしれない。迅も一人で行動することが多いとはいえ、誰かと調子を合わせることが別に不得意というわけでもないし、相手が気安い嵐山相手となればそれも難しいことではなかった筈なのだが、今回に限っては散々だった。迅の方が調子出ない。ううっ、ここ数日、弟妹がいなくてダウンしていた嵐山を揶揄してはいけなかったと本当に思った。そんな迅を見て嵐山も思うところはあったのかもしれないが、今日までの自分の行動を振り返り今までを挽回するかのように頑張ったので、何とか二人はバランスを取れて防衛任務を終わらせることが出来た。
そのまま本部で復活した嵐山とあれこれと溜まっていた仕事や挨拶周りをやっていたら、あっという間に夕方になってしまった。嵐山隊の隊員がここぞとばかり仕事を廻して来たのは仕方ない。明日、誕生日の嵐山は非番が確定しているのだから。もちろん今日も、双子が帰宅する前に帰る。そして、その流れで嵐山の家に一緒に帰るというのはもはや当然という形になってしまった。
もうホント情けないことに今日一日ずっと迅はうだうだ考えていた。迅は今まで自分の未来視を疑ったことはない。それくらい自分の中である程度未来視の精度が取捨選択できるくらいには、馴染んでいた。残念ながら迅が嵐山とキスをするのは確定事項っぽい。どうしよう。いつもならば自分にとって不利な状況に陥ると視たならば、あれやこれやと画策に廻るのだが、今回限りはそれをする勇気がなかった。それにもう一度視てそれがどうしようもなく逃れなれないものだったら、そこまで確定したら嫌だ。罵ってもらってもいい。回避するには最低でももう一度嵐山の未来を視なくてはいないのだが、それはとても出来なかったのだ。だって、視るということはまた嵐山とキスしている可能性があるということである。それを何度も何度も見て、あれやこれやと頑張るほど迅は冷静に対応できる自信がとてもなかったのだ。だからこそ、噛みしめて思い出すのもどうかと思ったが、それでも与えられた情報はほんの少し。よくわからないが、周囲が明るかったので多分昼間。凄く近い未来に迅は嵐山とキスをする。それしかわからない。たったそれだけでどうやって回避しろというのか…とりあえず、今日と言う昼間は全力でなんとかした。そして何もなったから、良かった。昼間が安息ではないとはハードルが高すぎる。
だいたい、なんだ。何でこんなことになってしまったんだ。ここ数日、こんなことばかりな気がする。最初はそうだ…何日か前だったか………寝ぼけた嵐山にキスされた。あれはノーカンでいいと思う。本人は覚えてないし。それで太刀川さんにからかわれて…いつか今度はこちらがおごってもらおうと思った。絶対に。でもそれは蛇足。そうだそうだ。一昨日は夢の中で嵐山とキスしていた。まさか正夢だったのか?さすがに未来視を酷使しようが、夢との違いくらいは区別がつく。あくまでもあれは夢だ。だから無し。そして今朝…きちんと意識ある嵐山から頬と額にキスされた………これもノーカンでいいよね?そうだよね。二度あることは三度あるというが、これ以上はいくらなんでも…と、自らの未来視が覆ることを信じたかった。

もはや当たり前の如く嵐山の家のリビングソファに座っていたところで。
「「ただいまー」」
小走りで帰って来たのは、念願の双子だった。今、ちょっとだけ嵐山の気持ちがわかった。本当に無事に帰って来てくれてありがとう。迅は自分の事のように、とても嬉しく感じた。これでやっと今までの苦労が報われる。
「佐補!副!おかえり」
素早くソファから立ち上がった嵐山は、これ以上はないという満面の笑みで可愛がっている弟妹の帰宅を歓迎した。
「合宿はどうだった。疲れなかったか?」
嵐山の方が背が高いので少し目線を落として合わせて、明るく声をかける。はたから見ればとても良いお兄ちゃん風景だ。
「もうっ、ヘーキだよ。さすがに疲れたけど楽しくもあったし」
きゃぴきゃぴととても中学生らしく双子は答える。いつも不安がる兄に対しての強がりも幾分は見受けられるのかもしれないが、それでもご満悦気な顔をしていた。
「そうか、なら良かった。安心したよ」
ほっと一息つくと、嵐山もようやく本当の意味で落ち着けたのだと思う。自分の目と耳で確認をして、気が抜けたのだろう。それは安堵の声だった。
「今回、兄ちゃんは大丈夫だったみたいだね?」
嵐山の様子を見上げて、少し考えた後に双子からその言葉が出された。
「え?」
その声を挟んだのは迅だった。嵐山が大丈夫だったという弟妹の感想に、どこが!?と突っ込みたかったからだ。口に出しては言わないが、心底驚く。ボーダーの面々にも言われていたが、ここ数日の嵐山は軽く死んでいた。まあさすがに普段はしっかりした兄の駄目さを、まだ直接目にしたわけではないからその言葉だったかもしれないが…
「どうしてだ?兄ちゃんは佐補と副がいなくて寂しかったぞ」
その通りだと、迅も思わず勝手にうんうんと頷いてしまう。その嵐山の様子は身を持ってたくさん体験したから、迅にはここで同意する資格があると思う。
「だって、いつもだったら…絶対抱きついてくるし、もっとすっごいうるさいし」
今度は、うんうんと双子の片割れが盛大に頷いている。確かに…双子が出かける初日は感動感激からの悲しさが相当なもんだったから、帰宅も同じ…と考えるべきか。そう思うと、大人しいと評価されるのも納得出来るような…それでも嵐山の反応は平均以上だとは思ったが、そうでもないのかと、よくわからない。
「ああ。まあ、今回は迅が一緒にいてくれたから」
少し照れながらも嵐山はそう答えた。
「そっか。迅さんのおかげだね…本当にありがとうございます」
そう言いながら、双子は迅に向かって軽く頭を下げて来た。真面目なのはさすが嵐山の弟妹と言ったところか。しかし確かに双子に頼まれたとはいえ、こっちが気恥ずかしい。嵐山に釣られるようになってしまう。
「いや、おれはそんなに………まあ嵐山も明日は誕生日だし、大人になったんじゃないかな?」
そうだ。ようやく終わった…長かったな、この五日間。大変なことばかりというわけではなかったが、予想以上に色々な方向に神経を使った気がする。もうしばらくこんなことがないように、根付の言う通り双子の動向だけは細かくチェックをしようと心に決めた。世話を見る見ないはまた別問題だ。それこそ最悪の場合はサイドエフェクトで逃げることも可能…だと思いたい。
もう自分の役目は終わった。さあ、帰ろう…玉狛で寝るのも久しぶりだ………と思っていたところだったが。
「そうだ。明日の兄ちゃんの誕生日は、何時に出かけるの?」
わくわくといった様子で双子が嵐山に向かってしゃべりだす。嵐山の誕生日だから出かけるのかと、もはや他人事の迅にとっては心が和むように聞こえる。今度こそ本物の兄弟で仲良く過ごして欲しい。
「今日まで合宿で疲れただろう。そんなに早く起きられるのか?」
やはり心配な部分もあるらしく、少しの首をかしげて嵐山は聞いている。
「部活の平日休みは明日を逃したらしばらくないし、思いっきり遊びたいから早起きするよ」
「そうそう。今年初めての海だもん!」
揃って声を上げる双子は嬉しそうだ。ああ海に行くのかと耳に入ってくる。このあたりから海へは電車を何駅か行った先にあるから、そこまで気軽にというわけにはいかない。たしか先週あたりは海の日だったはずだが、夏休み初めての土日祝日は混むだろうから、変な休日よりこのあたりがちょうどいいのかもしれない。嵐山も誕生日で非番だし、家族で行くのかと微笑ましく感じた。
「迅さんも、朝早くても大丈夫ですか?」
ひょいっと顔をこちらに向けて、双子の片割れが訪ねてくる。
「え?」
なぜこちらに話が降られるのか一瞬では理解できなく、迅は目を丸めた。
「迅さんも明日、お仕事ないですよね?」
「あ、うん」
頭の中で自分のスケジュールを確認する。確かに双子の言うとおり、休みだが…なぜそれを知っている。嵐山ならともかくだ。ここで、はっと気が付いた。今週のシフト希望表が廻ってきたとき、小南が目敏く動いたことを「迅はいつ休みでもいいわよね?」と決定事項のように告げて勝手にシフトに×をつけていたことをだ。夏休みに入りボーダー内も人が増えたので休みが断続的に取れるから別に迅には希望などなかったのだが、謀られたことには気がつかなかった。というか、これも双子の要望か。
「迅がいてくれて助かった。いつもは父と母もついて行ってくれるんだが、今年の平日は休みが取れなかったから不在なんだ」
迅のシフトを知っていた嵐山も当然のようにそれを受け入れている。なんで?
「そうなんですよ。うちの兄ちゃん、過保護だから…自分一人で二人の身の安全は保障できない。何かあったらどうするんだ?と渋って。でも、迅さんも一緒についていってくれるなら心強いです」
まあ割と海まで距離はあるし、中学生だけで行かせるようなもんじゃないから成人二人が保護者という構図は間違っていないが。ああ、そうか。双子が最初に、誕生日当日までと何度も連呼したのは、海について来て欲しかったからなのかとようやく納得した。
「わかった。明日で最後だし、付き合うよ。おれも海は久しぶりだしな」
そう伝えると、わーいと賑やかに喜ぶ双子の声が入り混じった。もう一泊することは決定したが、これから最後だからとこの時、迅だけは思っていた。
「最後?…最後ってどういうことだ?」
騒ぎはしゃぐ双子の声の合間に、謎めく嵐山の疑問が間に挟まった。そう嵐山だけ反応が違ったのだ。
「おれが嵐山の兄役するのは明日で最後だろ?だから…思いっきり………」
迅の言葉は最後まで続けることが出来なかった。口が止まる前に嵐山の「えっ?」という声がすかさず乱入する。
「………なにそれ、聞いてない。どういうことだ?」
「そういえば確かに明確にいつまでとは言わなかったけど」
それが当たり前じゃないのか?という言葉を飲み込む。一瞬で辺りは不穏な空気に包まれる。迅は双子の代わりでピンチヒッター。それ以上でもそれ以下でもないという認識。でも嵐山は違ったようで。
「じゃあ、明日まで………なのか。迅は、俺をだましていたのか?」
これで自分の役目は終わったと、迅は思っていた。でも嵐山はどう思っていたのだろうか。一生とか言われても、さすがに一生は無理だ。じゃあどうやって終わらせると考えると、余計にわからない。
「そういう…わけじゃないけど」
なんだか今更何を言っても言い訳にしか聞こえないような気がして、迅は思わず押し黙った。
「俺は…迅が家族になってくれたと思っていたんだ。でも、違った。そうだよな。すまない…勝手に勘違いして」
自己嫌悪に陥るように嵐山は押し黙った。
そのまま家族の会話は打ち切られて、場が沈んでしまった。

海へと行く明日の出発時間を確認し、起きる時間を逆算するとやはりいつもより早めに起きなければいけない。公共の場でもある海は、早く行かないとビーチにシートを広げる場所もなくなってしまうから仕方ない。だから普段より随分と早く寝ることとなる筈なのだが、随分と長く嵐山が風呂から帰ってこない。双子が帰って来たばかりで歓談が弾むはずの食卓でも嵐山はどこかいつもより元気がなかった。まさか双子の事が解決したと思ったら、次は迅のことでこんなに沈むだなんて。双子が戻ってくれば全て元通りだと思っていたのに。お役御免というか、ただ前の関係に戻るだけだ。でもだって仕方ないじゃないか。嵐山と迅は所詮他人だ。そこから少し仲の良い友人関係は築いてきたけど、そこが限界だった。確かに嵐山の言う通り、今回は兄として家族として演技をしていた部分もあったとは思う。でもそれは嵐山の為だったんだ。嵐山を騙したり嘘をついたりする気持ちは迅にはなかった。しかし、ほんの些細なかみ合わせが間違った認識が、嵐山の心を鎮めるには十分だったんだろう。
嵐山の部屋のベッドに座ってもくもくと考えていた迅だったが、ガチャリと扉が開く音がして一瞬ビクリと肩を震わせて立ち上がる。
「あ、嵐山。えーと、………明日早いから、もう寝ようか。な?」
やや自分でもわかるほど挙動不審になりながらも答える。ていうか、寝ないと絶対間が持たない。寝る前に和やかに話をするなんて雰囲気じゃとてもない。嵐山の手首を軽く掴んでベッドへと示す。
「…また一緒に寝てくれるのか?」
そのままの状態で動かないで、嵐山は無表情で尋ねて来る。
「ああ、寝よう。だから、元気出して」
本当は双子が戻って来たのだから、初日みたいに布団を敷いて別に寝る気だったが、こんな状態の嵐山から尋ねられたら肯定する以外なかった。
「…迅。俺、ようやくわかったんだ。本当は、迅と家族になりたかったわけじゃないって」
迅が再度促しても嵐山は棒立ちしたままで、そして思いつめた顔をして、そう告げてきた。
「そ、そうなの?良かった…」
なんだ。ようやく嵐山もわかってくれたのかと、その言葉を受けて迅は少し安心した。そう、家族は無理だ。どんなに親密な友人関係を築いたとしても限界がある。多分それは嵐山が想像するような仲良くまで到達することは出来ない。迅にはとても出来ない。
この状態で嵐山と直には向き合えなかったが、しばらく二人は黙ったまま立ち尽くしていた。そして、嵐山の次の言葉が部屋に響く―――
「俺は、迅と恋人になりたかったんだ。好きだから、ずっとこうして抱きしめていたかった」
流れるようにそう耳元で喋られながら、嵐山は迅へと覆いかぶさった。今までも何度もやられたが、それが明確な意図をもっての行動だと思うと。理解できなかった。
今、嵐山はなんと言った?恋人…?そんな考えたこともない関係が突然降って沸いてきて、頭で整理することも出来ずに迅はただただ呆然と立つ。普段なら、いつも迅が一言二言口にするなり、身動いて剥がすまで嵐山はそのまま迅に抱きついたままだったが、今回に限ってはそれはほんの数秒で終わりを告げた。するりと嵐山は直ぐに迅から一歩離れて。
「ほら。また、迷惑をかけた。俺の方が、迅の優しさにつけ込んでずっとだましていたんだ」
とても落ち込んだ悲しそうな顔をした。無理を言って悪かったと謝られるから、こちらの胸の奥の方が余程チクリと痛む。
「え…と」
なんと声をかければいいのかわからない。あり得ないことが起こったくらいしか、自分にもまだわかっていない目の前で、ただ迅の驚愕の瞳がやはり嵐山にも伝わったんだと思う。
「今日はここで寝てくれ。俺はリビングで寝る。迅に俺の気持ちを伝えて、それでも一緒の部屋で寝られるほど俺は大人じゃないから」
そう言うと嵐山は静かに自分の部屋を出てった。そこには、もう甘えないという自己完結の言葉が含まれていたようにさえ思えた。
まだ迅の思考がそこには追いついておらず、ただ茫然と見送ることしか出来なかった。嵐山の部屋に飾られた家族写真の存在感が、いつにも増して視界に入った。










【2014年7月29日 火曜日】



朝が…その朝がやってきてしまった。それは同時に酷く長い夜でもあった。
嵐山の言葉を考えたくないようなでもそうもいかなくて、肝心要の頭は利口に動いてはくれなくて、そんな狭間でずっとベッドの中にいた。正直、あまり眠れなかったというか、寝たという認識は全くなかった。ただ瞳を閉じてじっとしていれば睡眠の半分程度の休息は取れるらしいから、それにかけるしかないというか。それでも色々な方向へと思考が動く頭が無意識のうちにでも働いているだけでもうまくはいっていない気がした。安息を得るために寝るには、身体を楽にしなくてはいけないとわかってはいたが、それでもシーツをぎゅっと握って瞼を固く閉じることをやめることは出来なかった。アラームなんて元々セットしていなかったが、それでも外から聞こえる小鳥の鳴き声と新聞配達のバイクの音でなんとなく今という時間を知り、迅はのそりと身を起こした。やはり昨日の身体の疲労は回復した兆しがあまりない。だが、そんなことはもうどうでも良かった。身体よりもっと痛むものがあったのだから。昨夜、嵐山が退室するときに見せた顔。そんな顔をさせたかったわけじゃないなかったけど、引き止める言葉を出すことさえ出来なかった。今日で一週間目の朝。今まで嵐山とは色々な朝を迎えたが、現時点で紛れもなく一番歯切れが悪い朝だと思った。
だるい身体を半分引きずりながらなんとか身支度をすませ、階段下に降りると、ちょうど少し前に双子も起きて来たらしくリビングにいる嵐山に誕生日おめでとうと盛大に伝えていた。そうだ。今日は嵐山の二十歳の誕生日だ。双子に対する嵐山の反応は喜びに満ち溢れているとまではいかないが、それでもとても嬉しそうに可愛い弟妹からの言葉に感謝を述べていた。そんな様子を見てやはり一歩引いてしまった迅だったが、それでも嵐山がこちらに気が付き、「おはよう、迅」と挨拶をしてくれたから、こちらもなるべく普段通りを装って、言葉を返した。ただ、それだけ…
一般家庭の朝は総じて忙しいもので、それが会社に出勤する父と母、そして遊びに行く子どもたちという構図になると、一気に増す。一歩先に出かける嵐山の父親に、自分の代わりに子供たちの海に付き合ってくれることを感謝されつつ、気をつけて行くんだよと言葉を貰った。嵐山の母親は自分たちより後にパートに出るので家事をしつつも合間に、優しく玄関まで来て見送ってくれた。夏の暑さに涼む祖母に行ってきますと伝えて、最後に飼い犬をめいいっぱいなでてから、準備が整った四人は駅に向かって歩き出した。

通勤ラッシュを少しずらした時間の電車で揺られる中、聞く話ではどうやら嵐山の誕生日に海に行くことは、毎年の恒例行事らしい。迅はあまり遊びの為に遠出をしないので、ボックス席に座りながら少しの外の景色を楽しむ。隣に座る嵐山はもうお菓子を食べようとしている双子を咎めたり、でも一緒に食べたりとしていたが、やはり迅に話しかける時は一泊の間が存在していた。仕方ない。でもこちらとて昨日のことをとやかく言うつもりもなかったから、合わせた。
「着いたー」
「海だ!」
電車内も賑やかではあったが、ここ一番の双子がはしゃぐ声が響いた。素直で純粋で羨ましい。
海辺近くの駅前で下車すると、今年一番の夏を感じる光景が広がっていた。さすがもうすぐ八月と言ったところだろうか、とにかく暑いの一言。ギラギラと照り付ける太陽がさんさんと身に降り注ぐシャイニングレイ容赦ない。空も海もどこまでも澄み渡り青かったが、それでも太陽から砂浜へともたらされる日光が照り返しているようだった。サングラス焼けしたら海に行ったのがバレバレだなと、迅は気をつけようと思った。さすがに早めに出たおかげでビーチにはまだそれなりの人々しか集まっていない。太陽がもっと天へと昇りつめればそのうち人混みで足の踏み場もなくなるだろう。それでも夏休み真っ盛りという平日なのでこちらと同じく、子どもや学生が中心であることに違いはないが。
ビーチサンダルに履き替えて、四人は砂浜を歩くとちらほらと視線を向けられる。やはりこの程度電車で移動しただけでは嵐山の有名人ぶりはぬぐえない。それでも嵐山のシスコンブラコンぶりはわりと知れ渡っているので、弟妹と一緒にいれば家族団欒を邪魔するような輩はいないようで、遠巻きに見られるのだけが幸いだった。
どうやら毎回嵐山家が借りている海の家があるらしく、そこからビーチパラソルやサマーベッドなどの用具をレンタルして着々とテキパキと準備を整える。
「佐補、副。きちんと準備体操をするんだ。あと日焼け止めもしっかりな」
既に服の下に水着を着ていたので、Tシャツを脱いで意気揚々としている双子を留めるように嵐山は声をかけた。
「「はーい」」
それでも気は流行るようで、二人の動作は幾分早く進められる。
「迅。悪いが、二人の様子を見ていてくれないか?俺はちょっと買い物に行ってくる」
「わかった。いってらっしゃい」
急ぎ足の嵐山をちょっと見送った後は、準備が整ったパラソルの下で迅は双子の様子を見ることとなった。さすがにビーチで服を着込んでいるのは不釣合いなので、迅も水着と薄手のパーカーを着ている程度だったが、それでもじわじわと暑さはある。対して目の前の双子たちは凄く元気だ。とても五つしか違わないとは思えない程にエネルギッシュである。これが二十代と十代の違いだろうか…いや、迅も二十歳になったのはほんの数か月前だとはいえ。
嵐山によく言いつけられているせいか、二人は無理に沖に行ったりはせずに迅の目の届く範囲で遊んでいてくれた。ありがたい。それでも仲の良い姉弟なので、互いに水を掛け合ったりビーチボールの取り合いをしたり泳ぎの競争をしたりだとかはしていたが、それも許容範囲だろう。とにかく楽しんでいることに違いはなかった。暇なので迅は大き目なドーナツ型の浮き輪を手動のエアポンプで膨らましていた。空気を入れる場所が2箇所あるそれなりの大きさなのでなかなか大変だったが、何かしていないとやはり色々と嵐山のことを考えてしまうから、多分これでいい。さざめく波の音を聞きながら、しばしの時間は過ぎた。

「迅さん。兄ちゃんは?」
最初から全力ではしゃいで少し疲れたのだろうか、双子は揃って駆け足でこちらにやってきた。きょろきょろと辺りを見渡して兄の姿を探している。
「そういえばまだ戻ってこないな…買い物に行くって言ってたけど」
そういえばあまり考えないようにはしていたが、どこまでいったんだ?と多少謎めく。海の家は割と近いし、駅前にはコンビニなどもあったが、それほどの距離ではなかった筈で、確かに帰ってくるのは遅く感じた。
「あ、多分。早めにお昼の予約をしに行ったんだと思います。いつも昼は海鮮バーベキューしてるんで」
どうやら思い当った節があるようで、説明してくれた。
「ああ、そういえば嵐山は海の幸が好きだったな」
しかしバーベキューかと。いかにも家族や大学生の集まりがやりそうな行事だと納得する。いつもボーダーにいてあまり警戒区域周辺から離れない迅にとって、積極的に遊びに誘われることはほとんどなく、いわゆる年相応の遊びということをあまりしなかったせいか、普通のバーベキューでさえ未体験だった。
「すみません。色々と巻き込んで…」
「いや、おれはおれで楽しませてもらっているよ」
家族のいない迅にとって貴重な体験をさせてもらっていることには違いがないから、それは素直に出た言葉だった。他人である子どもをはたから見る分には何とも思わないが、嵐山の双子の様子は年相応に素直で可愛く感じるから、見ていてそんなに飽きない。
「でも…迅さん。少し元気ないですね。やっぱり昨日までの間に兄ちゃんがいろいろと迷惑をかけてたから」
しゅん…と少し落ち込んだ声で心配される。その嵐山と反応が一緒なので、迅も少し苦笑した。
「そんなことないよ」
確かに少し大変だったが、それでも双子がいない間はそれなりにうまくやっていた気がする。
「それに兄ちゃん、昨日ちょっとおかしかったですし。すみません。私たちがきちんと説明をしなかったから、あんなことになって」
なんでもないふりをしたが、それでも二人のぎくしゃくが一目瞭然だったのだろう。引きずっているのを見抜かれていたから、どこか気まずくなる。
「いや、なんかちょっと…嵐山がおれになつきすぎただけだから…さ」
確定的な問題はそう…昨日の夜に告白されたことだったが、別にそのことに関しては双子が悪いわけでもないから責めるつもりはない。悪いのは曖昧な態度を取り続けた迅の方だ。きっと、もっとしっかりはっきりと対応すべきだったのだ。だが別に特に嫌でもなかったから、嵐山を甘やかした。その結果がこれだ。嵐山が弟妹に対する気持ちを迅へと摩り替えてそれであの告白となってしまったんだろう。あれは間違いだ。
「あんな不甲斐ない兄ちゃんですけど、これからも仲良くしてほしいんです。すみません。こんなこと頼めるの迅さんしかいなくて…」
それでも双子にとっては死活問題らしく、更にお願いを重ねられる。ちょうど迅が嵐山から距離を置こうとしているのにタイミング悪い。離れれば、嵐山が迅に抱いたと勘違いした感情もいつかは気が付くと思いたかったのだから。
「えーと、なんでおれなのかな。小南とかいるんじゃないかな」
ちょっとさすがに逃げたくて、仲の良い印象を受ける小南の名前をあげる。
「もちろん仲良くしていますけど、それは従弟妹ですから。私たち、兄ちゃんの友達って迅さんしか知りませんし」
「あーそういえば、泊まりに来たことあるのっておれだけなんだっけ?」
あれは家族のいない迅に気を使って誘ってくれただけじゃないかなと未だに思っているのだが。そんな昔から別に嵐山は迅に大して別段思っていたことなんてなかっただろう。嵐山は優しい人間だから、迅に声をかけただけだ。多分。
「それもそうですけど、兄ちゃんって私たちに気をつかってばかりで、普段はそんなに自分の友達のことをあんまり話さないんです」
「嵐山らしいな」
といってもそれは嵐山自身に問題があるわけではなく、特別な問題がないからこそわざわざ話す必要性を感じていないのかもしれない。基本的に嵐山は自分のことは後回しというか、他人の心配ばかりをしている気がする。
「私たちが兄ちゃんに話を振って聞くと、もちろんボーダーで同じ隊の隊員がとか後輩がとかあの先輩がとかそういう話はたまにしてくれますけど、迅さん以外の人の名前を聞いたことないんです。だから、あのボーダーの広報サイトで名前とか出てますし、嵐山隊の隊員の名前も雑誌とかでは知っていますけど、よくは知らないというか」
きっと嵐山は、ボーダーでのことを心配かけまいとわざとそういうふうにして言っていないのだろう。
「きっと兄ちゃんは広報の仕事の兼ね合いもあって、誰かを特別扱いしないようにしているんだと思います。でも、昔から迅さんの話は大切そうにしてくれたので…だから」
嵐山の平等気質は、全ての抱え込まないための自己防衛策なんだろう。特定の誰かを作らないことで自身の負担を軽減する。それでも、特別なんだと嵐山は迅に言った。そう…前からずっと嵐山はそうしてくれた。今回の事がひな鳥の刷り込みだと勝手に思っていたのは迅の方だったのだ。それを年下に気が尽かさせるだなんて、まだまだだなと迅は思った。
「教えてくれてありがとう。大丈夫。今まで…嵐山とはうまくやってきたから、これからだって仲良くするさ」
そうだ。きっと元通りになれると…自分自身に言い聞かせるように迅は言った。
そんな内緒話をしていると、ようやく嵐山が片手に買い物袋を持って帰って来るのが見えた。双子も休憩に上がってきたようだし、もう様子を見るのはいいかと思い、迅はよっと立ち上がった。今はまだ会う勇気がない。
「せっかく来たから、おれも少し海に行ってくるよ」
「私たちはもう少し休んでいますので、どうぞゆっくり」
ペットボトルでスポーツ飲料を飲む双子に見送られながら、迅は薄手のパーカーを脱いで海へと向かった。

海辺に立ち、波がやってくるぎりぎりの際までやってくる。どこまでも暑いからと油断をしていたが、足元にかかる波は少し冷たく感じた。軽く手で水をすくうとそうでもないような気がして、意を決して少し足を進めて海へと入った。やはり最初は冷たいと思ったが、腰ほど浸かれば段々とその温度にも慣れて、逆に海に入っていない上半身が太陽に当たって暑いくらいだった。泳ぐのは相当久しぶりだった。中学の頃は授業でプールがあったら強制的だったが、高校になってからはそうでもなかったし。別に迅は泳ぎが得意なわけでもないし不得意というわけでもない。ただ最低限人並みに泳げるという程度ではあったが、それでも無限に広がる海を相手にするのはなかなか気分が良かった。
水に浮きながらぼんやりとビーチの方を見れば、やはり嵐山が甲斐甲斐しく弟妹の面倒を見ており、タオルで髪をふいてあげたりと節介をやいていた。何だかんだといってもやはり仲の良い兄弟。その関係を迅も求められて仮初めの兄として簡単に振る舞った筈だが、今はどうしてこうなってしまったんだろうと心の中で嘆く。嵐山から受けた告白は嬉しいとかなんだかそういった漠然としたものとは違って、未だに迅の心の中に不安定な感じで残っていた。そもそも何で嵐山が自分を?だとか。男同士だとか。色々問題が山積み過ぎて、どうしようもない。それにちょっと忘れかけていたが、昨日嵐山を視た時に得たサイドエフェクトという問題もある。自分たちはキスをしていた。それはもう間違いなく。あれ以来、嵐山はもちろんのこと周囲の人間のサイドエフェクトを視るのもどこか憚って、何だか使えなかった。迅の能力はそんなに信用できないものではなかった筈なのに。結局のところ整理できていないのは自分の気持ちなんだ。そうして何も言えずに、ただ嵐山を傷つけるだけで自分は酷い人間なんだと結局はそれだった。
今、あまり人には近づきたくないので頭を冷やそうと無意識にぱちゃぱちゃとビーチから離れるように泳いでいたら、いつの間にか足が全く立たない程度のところまで来ていた。ちょっと泳いで来るだけのつもりだったが、意外と進んでいたのは波に流されたせいだろうか。遠くのビーチにいる人間が豆粒くらいに見えて、個別の視認をすることはもはや難しい。沿岸にいけば自然に人も少なくなる。それでも、少し先には海の中にはぽつらぽつらと岩石や岩場の影が見えるので、せっかくだからあそこまで行き上へと登って、ちょっと休憩でもするかと思った。思い切り身体をよじり、近場の岩を目指そうとした瞬間だった。
「つっ、!」
足にわずかに違和感を覚えたと思った次の瞬間に、迅の右ふくらはぎが悲鳴をあげたのがわかった。これは…きっと足をつったに違いない。無理に変な方向に曲げたわけでもないのに。海の中で普段あまり使わない筋肉を酷使したせいだろうか。そういえば迅はマトモに準備運動さえしていなかったから、それは当然の出来事だったかもしれない。ただでさえ、水中でバランスの取れない中、右足の不規律な痛みを得れば、身体の自由が利かなくなるのは当たり前だった。
身の危険を感じれば直ぐにトリガーのことを思い出したが、それも瞬時に悟る。あまり海に濡れて良いものではないからと、羽織っていたパーカーのポケットに入れたまま置いて来てしまったことをだ。普段の運動はトリオン体の方が慣れている迅にとって、それは致命的で。水の抵抗が突然やってきたかのように全く言う事を聞かない。浮力どこいった。バタバタとしばらくはその場で何度か水中にもぐったり水面に顔を上げたりして凌いだが、混乱してあっという間に意識は薄れていった。
ああ…何て無様なんだ。誰かに助けてもらうだなんて事、嫌だったけど…この時ばかりは迅は彼の名前を無意識のうちに呼んでいた。





「……………っ!」
「…、……ん…………!」
「じ、ん!………迅!!!」
出来の悪い耳栓をずっとしていたような曖昧な音がとても遠くで響いているような中、ようやくその固有名詞の認識が出来たのは、それが自分の名前だったからだ。それでも名前を呼ばれている程度でははっきりと意識が戻ってこなくて、でも強制的に引き戻されたのは肩を軽くゆすぶられたからだった。
「………ぅ…っ、………」
ガンガンと頭の中で酷い眩暈がする中、ようやく眉間に少しだけしわを寄せた。身体全てが自分のものでないようなちぐはぐ感でなんか気持ち悪い。
「迅!大丈夫か?」
その言葉でようやく自分を読んでいるのが嵐山だという認識を得た迅は、ああまた朝がやって来たのかと勘違いして、いつものように瞳を開けばそこは嵐山の部屋で隣にいてくれているんだと安心して、ゆっくりと目を見開いた。
「………あ、らし…やま?」
嵐山の顔はとても近かったが、別にそんなこと一度や二度ではなかったので驚きはしなかったが、それでもおかしかった。いつも寝起きは、穏やかな笑みを浮かべてくれる嵐山の表情が真に迫る様子だったからだ。
「意識はあるか?どこか痛いところはないか?」
謎の質問攻めをされたので、迅は即座に怪訝な顔をしたが、どうしてだろう。思い通りにあまり声を出す気力が出ない。
「良かった!迅さん」
次には双子の声が飛び込んできたので、あれ…なんでだ?とようやく嵐山の顔以外の外を見る余裕が出来た。ふと視線を外すと一番近くにはもちろん嵐山がいたが、その横には双子が居て………あと少し遠くには全然知らない人間がわらわら集まっているのが見えた。しかも今は早朝ではなく真昼間。もちろん嵐山の部屋でもない。それどころか、ここはビーチの砂浜の上ではないか。そこにあおむけで寝ている。そうだ…自分は溺れかけたのだと思い出した。何てことだ。恥ずかしさに顔を覆いたくなるが、なんだろう…あまり身体の自由がきかない。酷くだるい…胃の中が気持ち悪くて、軽くえずく。海の水は塩辛いだけではなく不味いとかそういうもんじゃないと別に知りたくはなかった。
「患者の容体はどうですか?」
しばらくするはバタバタと大勢の足音がやってきて、何事かと確認したかったがあまり頭も動く気力がない。ただ、明確に嵐山以外で視界に入って来たのは白い服を着た救急隊員だったことが分かり、思わず迅はゲッと声を出した。
「なんとか意識はあるみたいですけど、しばらく溺れて水中にいたみたいで」
「わかりました。直ぐに搬送します。すみませんが、どなたか付き添いをお願いします。車内で詳しい状況を確認したいので」
「俺が行きます。彼の友人ですので」
「では服を来て準備をして来て下さい」
「はい」
「兄ちゃん…迅さん大丈夫だよね?」
「ああ。きっと大丈夫だ。すまない…佐補、副。俺は迅について行くから、二人だけで家に帰れるな?」
「うん、私たちは大丈夫。そっちも病院について落ち着いたら、携帯に連絡ちょうだいね。心配だから」
「もちろんだ。じゃあ、行ってくるから、後は頼む」
どこか…他人事のような会話が目の前で繰り広げられているが、そのすべてに迅は反応することが出来なかった。何の抵抗も出来ずにクッションの硬いストレッチャー付の担架に乗せられて、そのまま救急車に乗せられた後、またぷつりと意識を失った。



次に明確に意識が戻った時には、白いベッドの上にいた。何だかぼんやりとする意識の中で、あれこれとあった気がする。何度か見知らぬ機械の中に入れられたりしたが、あれは多分検査だったのだろう。虚ろな意識がようやく頭がしっかりしてくると、救急科の当直医だという医者からいくつかの問診を受けた。どうやら迅がボーダーに所属しているので、普通の患者より念入りに身体の様子を調べてくれたらしい。結果はとりあえず大丈夫でしょうとの事。いくらか海水を飲んでしまったので、薬を出されて説明を受けたが、そのあたりはあまり覚えていない。ただ薬の説明が書かれた紙も手渡されたので落ち着いたら読むようにとの事だ。あまりにも気分が悪かったら洗浄処理などしてくれるらしいが、そこまでではないので丁寧に断った。そうして念のため、とりあえず一泊だけそこに入院することとなった。後でボーダーが提携している病院に行ってきちんとトリオン体の検査を受けるようにと言われて、診断書と紹介状を書いてもらった。身体のだるさはぬぐえなかったが、歩けないほどではない。それでも一応ベッドごと移動されて個室に連れていかれた。軽く室内の説明とナースコールの場所を教えられると、ようやくそれですべてが終わったようだった。
自業自得とはいえ、疲れた。こんな大げさにしなくても大丈夫だとは思ったが、助けられた直後はあまり身体が自由に利かなかったし、しゃべる余裕もあまりなかったから周囲の対応も仕方なかったのかもしれない。ただやはり胃がむかむかするので気分はあまりよくないのは事実だが。

コンコンコン
「あ、はい。どうぞ」
また直ぐに扉を叩く音がして、あ…看護師さんまだ何かあるのかなと返事をしたところだった。
「迅。具合はどうだ?」
「あ、嵐山!」
驚いて寝ていた上半身を慌てて起こした迅は、飛び起きるようにベッドの上で座る形となる。そうだ。救急車で付き添ってくれたのにマトモな返事も結局は出来ず、まだお礼の一つも言えてなかった。
「起きて大丈夫なのか?」
案外こちらが元気なことにほっとしたのか肩をなでおろしながら、嵐山はベッドの横に備え付けられていた簡易パイプ椅子に座ってこちらを見た。
「うん、平気。念のために今日一日だけ入院するだけだし」
身体はまだ全く全快ではなかったが、心配をかけまいと迅はなるべく気丈に振る舞い、いつものように声を出した。
「そうか。良かった… これ迅の荷物。あと水は飲めるか?」
それほどない迅の荷物を立ち上がり備え付けられている戸棚に閉まった嵐山は、次に500mlのペットボトルをこちらに差し出してきた。
「ありがとう。貰うよ」
キャップを緩く空けてから手渡されたのでありがたく、そのままごくりと喉を潤す。診療中に検査の為にうがい等は何度かしたが、どうも胸の中の吐き気は治まらなかったので、何だかそれでようやく落ち着いた気がする。そうして、ボトルをベッド脇の小さなテーブルに置いた迅は、意を決して伝える。
「ごめんな…嵐山。折角の誕生日なのに、迷惑かけて」
本来ならば、双子と楽しく海で遊んで昼は嵐山の好きな物を食べてそんな和気あいあいと過ごす予定だったのに、全て迅が台無しにしてしまった。もうどうしようもないとはいえ、人生一度きりの二十歳の誕生日だというのに、こちらの完全な不注意で巻き込んでしまって本当に申し訳なかった。
「気にするな。迅が無事なら、それでいい」
固く頷いて、そんなことはいいからと嵐山の瞳が言ってくれる。
「でも…」
取り返しのつくようなことではないとはいえ、迅がそう簡単に納得できるものでもなくて、続くのは後悔ばかりだ。今思えばあんなことにならないための予防策はいくらでもあったのに、それを全て怠ったのは迅自身だったから。
「俺だって、昨日まで迅に情けないところをいっぱい見せて助けて貰っていたさ。だから、おあいこだ」
こちらの気を紛らわす為か、わざと軽く笑ってそれを言う。
「それは…双子に頼まれたからやってただけで、嵐山のせいじゃないし」
何となく後ろめたくて、そう答える。同時に、どこか胸の奥がズキンと震えたような気がした。
「そうだな。俺ももう迅に迷惑をかけないようにするから、お互いに忘れよう。明日からは元通りにするよ。もう迅を好きだとか恋人になりたいとか言わない。だから今までみたいに仲良くしてほしい」
そうだ…それがきっと互いにとって一番最善で、嵐山もそう思ったのだろう。迅も最初はそうするつもりだった。嵐山と気安い友人関係を築いているのが当たり前で、直ぐには元の関係には戻れないけど、時間がたてばこのぎくしゃくも解消されていくだろう。時間がすべてを解決してくれるということではないだろうが。それでも、以前に戻るだけなら容易だと思いたかった。
でも、本当にそれでいいのだろうか。今までずっと嵐山サイドのことを考えていたが、迅自身に自問自答をしたことがなかった。自分はそれでいいのだろうか。満足するのだろうか。迅と嵐山は同じボーダー隊員とはいえ、本部と玉狛支部で所属も違い、互いに広報やら暗躍やらと忙しい身だ。それでも今まで良好な友人関係を築けていたのはきっと嵐山が何かと迅に気を使ってくれて、時間を作って会ってくれたり携帯に連絡をしてくれたからだ。それに気が付かず、迅は何の努力もしていなかった。成すがままに過ごしていた。この心地の良い時間をだ。それはきっと平等じゃない。
だって、もう迅の心には新しく芽生えた感情があったのだから。
「嫌だ…」
自然にぽつりと出た言葉があった。
「迅…駄目なのか、俺たちは。友達にも戻れないか?」
軽くショックを受けたような顔をして嵐山が尋ねて来る。きっと、せき止めることは出来なかったのだろう。
「違う。だって、おれまだ嵐山の告白の返事してない」
今まで沈んでいた顔を思いっきりあげて、訴える。そうだ。ずっと嵐山が察してくれて、直ぐに身を引いていてくれた。でもそれじゃあ駄目だって、前に進まなければと思って、震える手でシーツをぎゅっと掴んだ。
「それはもういいんだ。わかってるから」
「おれの答え聞いてないのに、勝手に納得しないで」
再度の自己完結した言葉を出されたので、少しの怒りと共に迅は手を伸ばして嵐山の胸倉を僅かに乱暴に掴んだ。彼が着ているシャツが伸びるのもいとわず、ぐいっとこちら側へと引き寄せた。
「っ!あぶなっ、…」
無理やり迅の横たわるベッドに引き寄せられた嵐山は、きっと迅の身体の上に倒れ込まないようにと必至だったのだろう。ベッドに開いている両脇に手をつけて、自身のバランスを取ることに集中していた。
だからこそ、迅はそのまま嵐山の顔を無理やり引き付けてその唇にキスをすることに成功した。
それは柔らかいものではなく、もうぶつけたというような軽く乱暴なものではあったが、しばらくその状態で二人はとどまった。そして、離れる―――
「…迅………今…のは?」
ようやく目の前の事態を察したのか、慌てた顔をした嵐山に戸惑いながらもゆっくりと聞かれる。
「誕生日プレゼント。おれ、何も用意してなかったし」
それは事実だった。そもそも友人関係とはいえ、普段から嵐山とはプレゼントのやり取りなどはしていなかった。ただその日が近づけはおめでとうと言ったり食事をおごったりする程度の気安い関係。それを今、迅は壊したのだ。自分の都合の良いようにと。
「…俺に同情したから、キスしてくれたのか?」
複雑な顔をした嵐山が、質問を続けてくる。同時に少し悲しそうな目もしている。
「そうだって、言ったら?」
「迅の優しさが残酷だなって思う。
本当は俺だって、諦められないんだ………やっぱり迅と一緒にいたい。また手を繋ぎたいし、もっとキスもしたい。あと…抱きたい」
本当の気持ちを吐露して、嵐山は迅へと訴えかけた。
「いいよ。好きにして… おれも嵐山のことが好きだから」
ああ、改めての言葉がこんなにも嬉しいものだなんて知らなかった。だから、迅は笑って自分の本当の気持ちを告げた。このどうしようもない気持ちがやっとわかって、明確に口に出したのだ。
本当には、とっくにわかっていた。好きになってしまったこと。それでも素直になれなくてずっと自分の気持ちを誤魔化していたのだ。迅だって嵐山と一緒にいたいという気持ち。迅も同じことを思ったのだから、受け入れたいと思った。この一週間ずっと一緒にて、別に迅は嵐山に呆れたりはしなかった。頼られて嬉しかった。戸惑っていたけど結局は居心地が良かった。だから、そのぬくもりを失うのは嫌だ。
だから今度もまた自分へと微笑みかけて欲しくて、今度は必死に嵐山に飛びついた。多分、迅から抱きついたのは初めてで。
「本当…なのか?本当に、迅も俺のことを?」
どこか嬉しいような信じられない瞳を見せて、嵐山は驚いている。それでも迅が自分を求めてくれるからと、抱き返えして背中に腕を回してくれて、それはまるでこれが現実かと確認しているかのようだった。
「おれは嵐山に嘘はつかないよ」
「俺は、これからも迅の隣にいていいんだな?」
強く…苦しいくらいにぎゅっと抱きしめられる。それが迅も求めていたものだったから、嬉しいなんて言葉以外は見つからなくて。
「大丈夫だって。俺のサイドエフェクトもそう言ってる」
それだけは間違いないから、いつもの調子で答えて教えてあげる。
「ありがとう…迅」
「誕生日おめでとう。嵐山」
これが夢見た迅が望んだ未来なのだから、間違えるはずがない。今なら確実にそう言えた。
ようやく迅は初めて、その祝いの言葉を伝えることが出来たのだった。

そうして今度こそ二人から成る真実のキスを。



未来視は迅を裏切らない。だから、さらに広がり続ける未来を、迅は嵐山と共に歩んで行こうと思った。それを自らの力で掴みとった。多分これが正しい。
きっとこれが、迅が視た未来視の結末なのだから―――





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