attention!
嵐迅でオメガバース設定な筈なのですが、捏造がとても多いです。そして死ネタなので悲恋です。ご了承ください。







迅が、そうやって嵐山の元を訪ねるのはいつものことだった。だからこそ、未来への疑問なんて浮かぶことさえ不可能だった。

「よう、嵐山。ぼんち揚、食う?」
そう言いながら当たり前のように軽快な声と共に、迅は嵐山隊の作戦室へとやってきた。お馴染みの袋菓子を片手なのは譲れないトレードマーク。自分の好物を話のキッカケに声をかけるという損得が必要とされるのは、未来視のサイドエフェクトをもっているからこそだ。迅がこの言葉をかけるのは誰にでもではあったが、ボーダーで全く打算なく声をかけるのは嵐山だけだった。忙しい最中の差し入れがいつもコレでも嵐山は本心からニコニコしている。
「いつもありがとう、貰うよ。もう少しで作業がひと段落するんだ。そしたら一緒に食べよう。ちょうど木虎の家から美味しい玉露茶を頂いたんだ」
作戦室を入った最初のフロアのテーブル前でどうやら書類整理をしている嵐山は、こちらへ顔をあげてくれなから少し先の休憩を示唆する。その定番をありがたく食べることは、迅らしいなと笑っているかのようでもあった。
「あれ…そういえば、他の隊員は?」
このフロアはさして広くないので迅が軽く左右に首を振るだけで見渡せる程度だったが、嵐山以外の隊員の姿はなかった。もちろん奥にはパソコンなどをきちんと完備した別フロア等が存在をしているが、嵐山隊はボーダーの中でも特に仲が良いので、基本的にこのみんなが集まれるフロアで何かしらの作業をしている事が多かった。
「十時を過ぎたから、みんな帰ったよ」
軽くアナログの壁時計へと目配せした嵐山は的確に答えた。嵐山以外の隊員は全員十八歳以下。労働基準法で就労は夜の十時までと定められている。大規模侵攻などの緊急時ならともかく平時ならばきちんと時間内に自宅へと帰すようにしているのはさすがだった。
「もうそんな時間か…嵐山は帰んないの?」
ちょっと時間を失念していたと迅は軽く驚く声を出した。ボーダーに勤めていると、時間の感覚がどうも不安定だ。外部へつながる窓は基地の端に限定されているし、嵐山のように大学に通っていない迅は本部に来ると、どうしてもそうなってしまう。
「俺は別件で取材が入ったから、まだ一回しかオリエンテーションの資料を確認していないんだ。もう一度、論点を絞って目を通しておこうと思って」
トントンと規則正しく書類を整える音がフロアに響く。
「相変わらず真面目だね。そうだな…折角だから、おれも手伝おうか?」
目下、かなりの量があるように見受けられたので、迅は助力の声を入れた。
「いいのか?」
「うん。一人でぼんち揚食べるより、嵐山と一緒に食べる方が楽しいし」
唯一空いているローテーブルに菓子袋を積むと、迅は嵐山の了承を得る前に向かい側の椅子に腰かけた。
「ありがとう、助かる。じゃあ、そっちの書類の束をポディション別に分けてくれないかな」
軽く指で未決済のような山を示されたので、さっそく迅は引き寄せて中を確認する。
「了解。って、これ。新しい訓練生のデータか」
よくよく見ると人事部からの決済印が右上に羅列してある。迅自身は今のように大々的に入隊指導をしたことがなかったので、こんな事までしているのかと少し驚いたのだ。A4サイズの書式に簡単な履歴書のようなものが記載されている。といっても、一般的に見られるであろう住所だとか学歴だとかそういうものが書いてあるわけではなく、希望ポディション・初期ポイント・トリオン量測定記録・基礎の体力と学力テストの結果など、ボーダーならではの項目で埋められていた。
「迅の御眼鏡に適う人材がいたらすぐに報告してくれよ」
少し笑いながらも嵐山は、使用トリガーレイガストの書類ケースに手を進めていた。それなりにボーダーからすると個人情報の塊だが、いずれは迅も直接なり間接なり指導していくことになるのが未来の訓練生なので、将来を見据えて目星をつけているのも悪くないだろう的な言葉のようだ。
「うーん。そうだな…でもこれ写真さえ付いてないしなぁ」
そう簡単に見当つかないし、まあはっきりいってちょっとつまらない感。ボーダーの採用条件に容姿は入っていないので、こういう書類も写真の添付は必要とされていないから仕方ないことなのだが。
「写真でもサイドエフェクトは視えるのか?」
「いや、写真じゃわかんないな。さすがに直接顔みないと視えない」
そんなやりとりをしながら迅も書類を凝視したが、嵐山の処理速度の方が早い早い。少し遊んでないで早くそちらに書類を回さないと真剣に進める。
「ん?えっ、今って三種類の性も申告義務あんの?」
驚きの声が混じる。書類の一番右下の比較的大きな欄の中に、その記載はあった。何気なく見たそこには『アルファ(α)』と書かれている。
「いや、義務じゃないぞ。任意だ。向こうが申告してくると一応記載されるみたいだ」
当然、名前の次に男女の性別欄は存在していたのだが、近年…三種類の性にも注目が及んでいた。昔から存在はしているが、最近は検査によって比較的簡単に結果が知れることもあり、血液型のように気軽に周囲に漏らすものは多かった。聞かれれば答えるという程度の認識でいるのは、圧倒的にベータ(β)が多いからだ。
三種類の性はアルファ(α)・ベータ(β)・オメガ(Ω)に分かれる。ベータは普通の人間と殆ど変らず大多数を占める。アルファは、エリート気質を持っていてとても優秀だが数が比較的少ないので見かけると珍しい言って過言ではない部類だった。オメガに関してはアルファより珍しく、繁殖をする為に発情という厄介な病気なようなものを抱えていることもあって希少性だけは高いが、男性でも妊娠することが出来るという特異性も兼ね備えていた。
「ふーん。だからアルファね」
自己アピールってやつかと納得の声を迅は出す。己の将来性の誇示をするとは若いが羨ましくもある。
「A級隊長はアルファが多いと、どこかで聞いたのかもしれないな」
ふむ…と少し考えた後に嵐山はしゃべる。アルファは特にリーダーシップを発揮しやすいと言われている。元々ボーダーに受かるだけのトリオン量があるというだけで、一定ラインを越えている人材ということだが、世間的に言われている比率から考えるとボーダー内にはアルファが多かった。特にA級隊長はアルファが勢ぞろいだ。
「そうだねえ。太刀川さんとか、もうまさにそうじゃん」
A級隊長代表ということで、迅は一つ年上の太刀川の名前をさらりとあげる。あの人こそ、アルファという名札か何かでも付けて歩いているんじゃないかと思うくらいだった。
「そう言われてみると、アルファだと記載されている隊員は稀には見かけるな。それでもさすがにオメガは見たことないが」
世間的に少し問題があると言われているオメガを自己申告してくる人間はさすがにいないだろう。そもそもオメガ性は絶滅危惧種とまで言われているから、見かけなくても不思議ではないと嵐山は思っているのかもしれない。
「あー俺も知らないかも。そういう嵐山もアルファだもんな」
それは当たり前のことだったから、流れるように迅は口に出すことができた。この流れで周知の事実に口を出さない方がおかしいだろという認識だ。
「別に自分がアルファだからと言って何か感じたことはないな。ベータだって優秀な人間はいるだろ?」
「ごもっともで」
書類を仕分けする手は止めずに軽くうなずきながら、迅は声を出す。さすが嵐山はそういう差別は全くしない。気にしていない。自分を特別な人間だとも思っていないし、周りにも求めていない。以前、意気揚々とアルファ申告してきた新人をいつも通りの調子で対応していたのを見かけたから、相手は拍子抜けしていたようだった。
「そういえば、迅もアルファなのか?」
だから、この言葉も何気ない会話の一つとして用意されたのがごとく、嵐山は尋ねてきたのだろう。
「…いや、おれも別に興味ないからわざわざ検査受けてないけど…なんなら嵐山と一緒がいいからアルファ希望ってことで」
一瞬だけドキリとした後に動揺の色を顔には出さず、いつものチャラけた声で伝えた。ようはごまかしたのだ。それに明確な嘘はついていない。きっと嘘をついても見抜かれることなんてなかっただろうけど、嵐山に嘘はつきたくなかったから。そもそも迅悠一は、嘘をついてはいけない。未来視というサイドエフェクトがあるからこそ嘘をつくことはしてはいけないのだ。それに、迅に三種類の性をわざわざ聞く人間だなんてボーダーにはいない。サイドエフェクトを持つほどの有望な人間はアルファなのが決まっているという認識が染み渡っている。だからこそ今まで迅に直接聞いたものはいなかった。
だが、実際。迅悠一はオメガだった。どうしてだろう…とほんの少しは思ったのは当然で。自分は頭がそれほど良いというわけではない平凡だからこそベータならば理解ができた。迅がボーダーで今の立場を確立しているのは旧ボーダーから所属している古参であることと未来視というサイドエフェクトを持っているからで、本当の気質を考えれば別にベータであろうと不満があるわけではなかった。それでも実際はオメガで、わざわざ検査しなくてもわかる。オメガには約三ヶ月に一度の頻度で発情期があるのだから。だが、迅はその発情を己の身で体感したことはなかった。十代後半から訪れるといわれる発情期も抑制剤があれば事足りる体質だったから。今の医療社会はオメガには優しく比較的重度な症状でなければ市販の抑制剤と避妊薬で十分抑えることが可能になっていた。あとは発情が終わるまで一週間、服用しつづければいい。迅の行動範囲はほとんどボーダーに限られているので、注意深く人々の未来を読んでいけば自分の周期を掴むことは難しい事ではなかった。だからこそ、わざわざ厄介なオメガであることを隠すのは生活の一部としてもはや馴染んでいた。

上辺だけは上手に整えられるとはいえ内心、この話題は迅にとって良い話ではなかった。特にアルファである嵐山に感づかれてしまうのが誰に知られるよりも嫌だったので、少し無理やり気味ではあったが話題を切り替える。
「この右下の欄は備考みたいなモンってことだよな。あとはどんな変わった事、申告されて書いてあったりするの?」
つんつんと指で先ほどの訓練生はアルファであると記載されていた欄を示しながら尋ねる。ちなみに今、迅が指さしている訓練生は空欄だ。特にアピール?なり伝えるべきことはなかったらしい。まあいくつかの書類をざっくり眺めてもそれが大半のようだが。
「そうだな…一番よく記載されてるのは…………あった。これだな」
少し言葉を長引かせ、すでに確認済の書類の中から嵐山は一枚の紙を拾い上げた。それは既に先に嵐山が確認していたから迅が見るのはこれが初めてという形になったのだが、差し出された書類の右下の欄には『入隊希望理由:サングラスをしたボーダー隊員に命を助けられた為』と簡素に書かれていた。不意打ちのようなその記載に思わず目を丸くする。
「…ふーん、サングラスしたボーダー隊員か。駿とかもしてるよなー」
直にコメントするのは憚られた為、とぼけるように歳の少し離れたA級隊員である緑川の名前を迅は出した。
「そうだな。おまえの真似をして、助けられた隊員はサングラスをする子が増えたな。派閥でもつくるつもりか?」
迅の気持ちを汲み取ってか、嵐山も少し軽い様子で疑問を投げてくる。
「VS、おれが助けられなかった身内のいる隊員で派閥作られたら嫌だから遠慮するよ」
少しの自虐を含めて笑いながら言葉を返す。どうもこうやって褒められるような事を言われるのは未だに慣れない。確かに迅は未来視のおかげで、普通のボーダー隊員より人を助けることも多かったが、それより先は別に望んでいなかったのだから。
「そういう言い方をするんじゃない。彼らにとって、迅はヒーローなんだから。現にそうやって、おまえに助けられたからと訴える人間は何人もいるだろう?」
広報に出ている嵐山こそ直接市民から声を聞く機会が多いだろう。迅はわりとボーダーという組織に引きこもっているし、そんなことで声をかけられそうになっても、どこか…すべての気持ちを受け入れられないということもあり、接触しないように努めているのだが、その様子も嵐山からすれば心寂しく思えるのだろう。
「おれがヒーロー………か。なんかすごい違和感。それにおれのは、局地的だろ?嵐山の方がよっぽどヒーローっぽいけど」
事実、後に第一次侵攻と呼ばれる四年少し前にゲートが開いたときは、助けた命より三輪の姉のように助けられなかった命の方が余程多い。あの日あの場所でゲートが開くと知っていたのに、あの有様だ。全ての命を救い上げようだなんて傲慢なことは思っていないが、逆に迅の未来視を知っていればこそなぜ自分の身内を助けてくれなかったと恨んでいる人間だっている。それが言い訳もできない目の前に落ちてくる事実だ。すべてを察していれば、すべてを救い上げることはできない。
対して、嵐山は常に努力をして人々に勤めているし、まぎれもなく平等だ。自分にはとてもそんなことはできないと迅は憧れる。昔は冗談で周囲から、見た目や後姿は少し似ているとか言われたことはあるが自分と嵐山は正反対だと迅は思っている。趣味暗躍といえば裏だ。光と影。結局は光の中に生きられるものではない。互いが相反するからこそ存在するとしてもだ。
「俺こそヒーローだなんて相応しくないさ。それに、俺はきっと誰かの一番にはなれない」
嵐山はボーダーの顔として独り歩きしている部分もあると思っているのだろう。偶像崇拝とはいわないが、イメージを作らされている部分があることも事実だった。本人はレールの上をただ言われるがままに歩いているつもりもないが、他人が求めているものには応えたいと思っている。それが嵐山という人間だ。それを求められている。
「そんなことない…と思うけど。それに、俺のヒーローは嵐山だよ?」
少し子供っぽいかもしれないけど、誰かの心の中に目標のような人物がいるのは悪い事ではないと思っている。比喩表現的にも少しうまいものが見つかれば良かったが、それは確かなので迅は口に出した。
「え?」
本当に驚いた顔を向けられて、こちらも驚きをつられたように少し身体が跳ねる。
「あ…駄目だった?」
思わず迅は少し気落ちした声になってしまう。突然そんなこと言ったのは、まずったか…と、軽く口元を抑えた。いやだって嵐山なら一番そういうことを言われていそうだろうという見当があり、自然に出てしまったのだ。そんな言葉が。でも、先ほど自分にも向けられて微妙な気持ちを得たことも事実なので、気恥ずかしい気持ちもわかる。
「いや、そうじゃないけど…迅にとって、そうだな。ヒーローと呼べる人がいるとしたら、それは最上さんかと思ってた」
やはり相手が迅だからこそ、戸惑いの色を見せた感があるようだ。
「あー最上さんか。確かに恩人ではあるけど、おれをこんな性格にした人だし、ヒーローは似合わないな。対して、嵐山はきちんとボーダーのヒーローだし」
師匠である最上のことは今でも尊敬しているが、それはヒーローか?と言ったら何か違う気がする。もっとこう輝かしい存在のイメージというかビジョンというか、そんなものを連想させられるのだ。
「そうだとしても、やっぱり俺が迅のヒーローだなんて相応しくないと思う」
謙虚だ。きっと嵐山のことだ、あれだけ尽力を尽くしていてもそれでもまだ満足など到底せずに、そんなに大したことはしていないと思っているに違いない。まだそこまでの自信はないという様子が見える。それは純粋な好意に戸惑う部分もあるのだろう。
「大丈夫。きっと嵐山は本当の意味でボーダーのヒーローになるから」
なるべく綺麗に笑うように努めて、その確信を伝える。
「それは…サイドエフェクトか?」
「ううん。俺が信じてるから…だよ」
迅の瞳の奥の力すべてを嵐山は過信してるわけではないだろうが、断言されたのでそう尋ねたのだろう。
かぶりを振って迅は本心を示した。これだけは本当の意味で守りたくあった。
「わかった。じゃあ頑張って、いつか絶対迅に胸を張ってヒーロー言えるようになるよ」
迅の為にと一つ頷いてから、どこまでもまっすぐな顔。そう思える笑顔を見せてくれた。
「うん。期待してる」

迅にとって、嵐山准は唯一の友達だった。
誰だって自分が知りもしない未来を他人に視られたくはないだろうということで、なるべく他人とは距離を取って生活してきたという経緯もある。玉狛の人間や他のA級隊長たちを筆頭とする隊員とも仲が良いといえばそうだったが、良くも悪くもライバルだったり腐れ縁だったりと何か少し違った。迅は大学に行っていなかったし、ボーダー関係者以外では知人と呼べる人もいない。そんな中で同い年で性格の良い嵐山は、忙しい最中でも迅をよく気にかけてくれた。嵐山には広い意味でも友達が何人もいるから、その中の一人でしかなかったのかもしれないけど。迅にとって嵐山は友達で…恋愛感情も込めた好きな人だった。それを本人に言えるはずもないけども。好きだからこそ、自分の気持ちを伝えて心配や迷惑をかけたり重荷になりたくはなかった。もしかしたら告白をすれば、嵐山は迅と付き合ってくれるかもしれない。優しい人間だから…それが辛かった。だからうまく立ち回らなければいけない。そうしなければいけないとわかっていた。
迅の未来視に、嵐山と共に歩む未来は視えていなかったから。





その日、迅は珍しく開発室に呼ばれた為、本部を訪れた。
玉狛支部を厄介と思う人間もいないわけではないので、そんなに大々的に本部へは足を運ばないのだが、上層部に呼び出されることは決して珍しい事ではない。それでもこのところ、相当重要な案件以外では意見を求められることはなかったので遠のいでいたのだ。通常任務以外で迅が必要とされないということは、有り体にいえば世界は平和ということである。きっとそんな日々がもう少しは続くのかもしれないと、迅は思いたかったのかもしれない。
迅を開発室に呼んだのは旧ボーダー時代から所属している上役だった。開発室の中では一番付き合いが長いと言っても過言ではない。互いに年数だけは長くいるので地位がどんどん勝手にあがるものだと、二回り以上年下の迅に冗談を言うぐらいには親交深かった。開発の人間はあまり派閥とかを気にしたりしないのでフランクな人も多い。この人はその代表みたいなもんだなと迅は思っていた。
案件事態も、それほど火急なものではなかった。迅が関わったスコーピオンの開発による細かい調整に関する事項の説明を受けただけだ。スコーピオンは確かに迅が要望を出して制作されたものだったが、もう随分と前の話と言ってもいい。あの頃は耐久性の低いスコーピオンを自在に操れる人間など限られていたが、今ではオールラウンダーのサブウェポンに採用されたりと、多種多様に富んでいる。長年使い込むことで、器用が増えたとも言えるのかもしれない。それはスコーピオンに限った話ではなく、シールドも性能が向上しているし、日々色々なトリガーが切磋琢磨している。今は基本トリガーより新しいオプショントリガーの開発の方が急がれているし、スコーピオン自体がある程度の自由がきくから、この案件で呼ばれたのは相当久しぶりだった。若い頃は迅もトリッキーに使っていたりもしたが、少し懐かしいものだと、新しい仕様変更に了承を口にした。
迅のポケットに入ったスマホートフォンがわずかに揺れる――― メール画面の新着を伝える点灯だった。
『本部にいるんだろ?これから食事でも一緒にしないか』
嵐山はいつもタイミングの良い男だった。こちらが無理に気兼ねしないようにと気にかけてくれる。そちらの方が大変だろうに。広報担当の嵐山は上層部を除けばボーダー防衛隊員の中で一番忙しい。そんな合間を縫ってのお誘いだ。嵐山自身は迅の方がいつも忙しそうにしていると訴えるが、こちらとは忙しいの方向性が違う。スケジュールつめつめのそちらとは違って迅は未来に流れるまま行動しているだけだ。
カフェテリアに行くと返信すれば、直ぐに『了解』と再びメールが届いたので「んじゃ、おれはこれで失礼します」と周囲の面々に軽く声をかけてからフロアを後にした。
嵐山と直接会うのは随分と久しぶりだった。もしかしたら半月とかそれくらい。嵐山を無理に見かけたいならテレビや雑誌を見ればいいという一般気質もあり、メールや電話はたまにはしていたが、わざわざというタイミングがなかったのだ。



開発室のあるフロアはボーダー本部の中でも奥まった場所にあったが、カフェテリアのように多くの人間が集う場所は手軽な入口近くにある。わりと歩くがそれほどの距離を感じないのは、この廊下にあまり人がいるような場所ではないからだろうか。開発室の人間というものは本人が望んでいてもいなくとも引きこもりのように研究室に缶詰となってしまうことは悲しいことだ。防音はしっかりされているとはいえ、あまり騒がしいと神経を尖らせるタイプもいないわけではないので、わざわざ行きかう通路として採用している人がそもそも少ない。迅も足を進めていても行きかう人間は誰もいなかった。まあ、深夜に差し掛かっているという時間帯も悪いのかもしれなかったが。
軽快に進む筈の足に違和感を覚えたのは、それほど多くの歩数を重ねるより前だった。
何か今日はおかしい。どこか身体の調子が悪いのかもしれない。でも変な未来は視えないから大丈夫だろうと、迅はそのまま足を進めようとしたのだが、そのうちにふらふらとおぼつかない足取りになる。まるで突然、足が吊ってしまったのかと思うくらいだった。飲酒なんてしたことはないが、飲まれているとしたらこんな感覚なのだろうか。無意識のうちにそれほど広くない通路の左の端の壁へと軽くぶつかり、止まる。何もないところでつまずいたのかと思ったが、そうではない。これは明らかに内側から感じる何かによる作用だった。
段々と胸が息苦しくなり、空いた左手でシャツを掴む。はくはくと酸素を求めるがの如く口が開くが、解消される目途も立たないくらい段々それは酷くなっていく。急に汗が吹き出すかのような、もあっとした熱さを体感した後に、お腹の奥がじくじくと訴えを起こしたことでようやく、この症状の合致に至る。
これはオメガの発情期だと理解したのだ。
「ど…うして」
思わず疑問の声が漏れる。以前、発情期を食らったのはちょうど二か月前だった。手帳につけるほどのマメさはないが、それでも重要なことなので間違える筈がない。一般的に言われる三か月に一度と言われるオメガの発情期周期から、迅は一度も逸脱したことがなかった。だからもちろんこれを本部で迎えるのは初めてで、未来視という予兆も感じなかった。読み流したというよりは何のトラブルもなかったからこそ視えなかったのかもしれない。
これが発情…
今まで一度も発情期をマトモにくらったことなんてない。それまで全て抑制剤で抑え込んでいた反動だろうか。生まれて初めて味わうその衝動に、迅の足ががくがくと揺れる。水平感覚を失ったように頭も一瞬で馬鹿になってしまったみたいに動かない。これが、こんなにも…辛いものだなんて知りたくなかった。求めるのだ、ただひたすらに。本能にあらがうなと全身が叫んでいる。
このままずっと、とろとろの飴玉とずっと向き合わされているかのように、下半身がじくじくとくすぶり続けていくようだった。

「迅?」
迅を現実の世界へと引き戻したのは、今一番会いたくない男の声だった。おそらくカフェテリアからわざわざ迎えに来てくれる為に足を運んでくれたのだろう。予想できなかったことではなかったけれども、今の迅には逆効果でしかない。よりにもよって嵐山と遭遇してしまうだなんて。
「どうしたんだ?」
通路の壁に寄りかかって返事どころか、顔を上げることさえできない迅に再び声がかかる。
「…、な…んでもない」
喉の奥からようやく絞り出した声がいつもの迅のトーンと違うことは、誰から見ても明白だった。たったこれだけのことでも、今の迅には相当なエネルギーを消費したこと、嵐山に伝わるはずもなくて。
「なんでもないなんてことないだろ?具合が悪いようなら医務室に行こう。さあ」
その返事だけで明らかに尋常ではない迅の様子を汲み取ったようで、嵐山は正当な言葉を続ける。そうして迅の身体を支える為に近寄るのも本人にとっては当然のことだろうが。
「っ、!…ごめ、ん。………今、触らないでくれ」
傷つけた。初めて、嵐山に対して拒絶の言葉を向けたかもしれない。今まで、嵐山と一緒にいるということは安心したし落ち着く存在だというのが迅の中の認識だったが、無理になったのだ。そうだ。どんな失態を見せたとしても泣きたくてもここはうまく立ち振る舞わなくてはいけない。今までだってそう立ち回っていたのだから、すればいい。しなければならない。
「あ…すまない」
圧倒的な善意による純粋な心配を無下にしたことで、心はどこまでも痛んだが、嵐山はこちらへと伸ばした手を寸で引っこめたようだった。
「…本当に、大丈夫……だから。でも、ごめん…………帰る、用が出来た…んだ」
振り絞って、なるべく声をいつもと同じ調子に擬態して、その全てを伝える。相手が嵐山だからこそこんな失態を見せられない。
そうだ。早く自分の部屋に帰らなくてはいけない。オメガである事を露見させる要因を排除するために、迅は抑制剤を携帯してはいない。あるのは…自分の部屋とあといくつかの場所で、本部から一番近いのは玉狛支部だ。少なくとも今は帰りたいという事実を情欲にしなければならない。
「………わかった。そのかわり、気を付けて帰ってくれよ」
少し観念してくれたのか、たっぷりの余白の後にわずかに頷いたかのように嵐山はこちらの要望に応える声をだした。
「…あぁ」
自分が頼んだのにそれでも名残惜しいと感じたのはきっと、今発情しているからだと思い込ませた。そうして結局、迅は一度も顔を上げずに二人は別れることとなった。



だが実際は嵐山の横をうまくすり抜ける自信などなく、迅は元来た道を戻るように進むしかない。とにかく嵐山から離れなければと、もはや壁にもたれかかりながらもずるずると歩いているだけだ。一番の目的地は玉狛支部ではあったが、とてもそこまで至るのに平時を保つことなど無理だった。それでもこんな何もない通路で倒れるわけにもいかず、何とか性欲方向にばかり働く頭の切れ端でマトモな解決策を模索した結果、そこまでおぼつかない足で歩く。
ようやくたどり着いたのは開発室付属の仮眠室だった。通路に近い一番端の部屋が空いていたことは迅にとって幸運と言っても良かっただろう。この時ばかりは開発室の面々がわざわざ仮眠室まで来ず、よく自分のデスクで寝落ちしていることに、悪いが感謝した。
やっとの思いで得た安息の場所。めったに使わない開発室付属の仮眠室の構造なんて今更頭に入ってはいない。とにかく入口を入ったところから最初に見えた簡易なソファに向かって、遂に迅は膝をついた。それほど上質な素材を採用していないのでいきなりガクリと膝を付けば、通常ならば多少の痛みを感じたのかもしれないが、今はそれどころではない。そのままソファになだれ込むかのように迅はうずくまった。ここで少し休もう。この何度も何度も絶え間なく来る波を相手に、耐えられるかどうかはまた別の問題であったが、今はそれくらいしかもう出来る事がないように感じたのだ。ぐっと胃を抑えるように白いシャツを掴んだが、本当はもっと下がその中がうずく。
しかし、一人きりになれたという安堵は、そう長くは続かなかった。
先ほど迅がこの部屋に入ってきた時と全く同じ音―――仮眠室の扉がスライドする小さな響きが確かに聞こえたのだ。驚いている暇などなかったが、なぜ?という疑問は浮かんだ。確かに鍵をかける余裕まではさすがになかったから誰かがくれば呆気なく開くのは仕方ないことで、それでもなんとか使用中のプレート表示にすることだけは最低限忘れなかったのだから。
電気など付いてない薄暗い中でも、誰が入っていたのか本能が教えてくれた。アルファがオメガの為にやってきてくれたのだと。
「……ど、…ぅして」
なんとか対峙するために腰をソファに落ち着けたが、それだけだった。もう迅は指一つ、逃げるために使うことは出来ない。ただそれでも何とか抵抗できる声を微かに出した。さっき振り切った筈の彼がなぜここにいるのかと。
「…匂いが、………匂いがしたんだ」
嵐山の声でしゃべったその人間が、いつもとは違う短く切った声を出す。匂いと言われてオメガである迅だからこそ思い当る節があった。自分自身でさえわかるくらいひどく甘い何かが周囲を漂っていることを。それは、通路とは違いすでに部屋に充満するフェロモンのことだろう。アルファである嵐山は迅のフェロモンにあてられたのだ。だから残り香に惹きつけられたかのように正確に追ってきた。
嵐山自身も何かに作用されているのをどこか感じているらしく、どこか口元を軽く押さえて呼吸を均等にしようにも、それでもこちらのソファに迫ってきた。だが、一気に頭が痛くなったように体調悪いかのごとく、ふらふらとしている。だめだだめだだめだ。今、嵐山に近寄らせてはいけないだなんて、思春期の子どもでなくともわかるようなこと…でも迅にもはや抵抗する気力などなかった。嵐山のために払いのけないといけないのに。迫りくる嵐山の顔が、仮眠室のソファに押し倒れしていた迅に近づいた。これがいつものように何の他意も感じさせない行為の筈がなかった。
弟妹に見せるスキンシップの激しさとは確実に違う…何かを探り当てるかのように、近づく嵐山の頭。ふわふわとしたその黒い髪の一房が微かに迅の頬を撫でたかのように触れる。
「…ぁ………」
直接触れられたわけじゃないのに、たったそれだけでぶるりと身もだえて小さな声が出たが、それは序章に過ぎなかった。そうして迫られた迅の右耳に、嵐山の呼吸の一つでしかないはずの吐息がふきかかかった。
「ここから…匂い、が」
そうつぶやいた次の瞬間には、髪をかき分けられて耳の裏側の薄い皮膚がぺろりと舐められた。
「……ひゃ、……んっ!」
まるで突然後頭部を鈍器のようなもので殴られたような衝撃だった。あまりに驚き、声を押し殺すことなんて不可能で。自分でもそんな頻繁に意図を持って触るような場所ではないとはいえ、傍から見れば子犬がじゃれて軽く舐めた程度の認識だろうし、実際そんな程度の感覚の筈だが、迅の身体は一瞬で全身が喜んでしまった。離れた筈の舐められた箇所が、その風でぞわぞわと騒ぎつづけた。
フェロモンの出処を見つけた嵐山は満足そうに顔を上げる。そこでようやく二人の視線がかち合った。いつもは端整な嵐山の顔は、わずかにしかめてどこか苦しそうだ。きっとそれは迅の顔もそうなのだろう。そして、互いの瞳を見いやった瞬間、天啓が訪れた。
意図して使おうと思ったわけではない迅のサイドエフェクトが強制的に啓示を告げたのだ―――それは、自分の身に降りかかる中では今までで最悪の未来だった。それも自らの介入を許さないものだと直感が知らしめた。今までだって未来が視えたとしても、母の死も師匠の死も迅は覆せなかった。あらがえない…のだ。これがアルファとオメガの絶対的な関係。
そうして、迅の理性は焼き切れてしまった。
「……くる、しい。あらしやま、………くるしい…、たすけ…て」
後から思い出してもわかるほど、ろれつが回らないうわずった声がする。自分の出した単語たちだったのに、どこか他人事のような、そんな言葉がひとりでに口から飛び出たのだ。
どこまでも息苦しい中でもアルファがやってきてくれた嬉しさ。それも最上級の。迅が最も求めた彼がだ。喉が渇いたから水を求めるように口づける。すでに半開きだった自分の唇を迅は押し付けた。そして嵐山の首の後ろに手を回して全身でねだる。どこか頭では駄目だとわかっている筈なのに、欲望にあらがってはいけないと身体が勝手に動くのだ。欲しい。あらしやまが欲しい。そのことで頭も身体も全てがいっぱいになって止まらない。何がなんだかわかるはずもない。どうしても目の前の雄が欲しかった。
初めて触れた嵐山の唇は想像していたものよりずっとずっと甘かった。もしかしたら驚愕の瞳をされたのかもしれないが、すでに浸るために目をつぶっていたからわからない。ただ、触れた先からじんわりと麻痺していく感覚がとんでもなく気持ちよかった。勝手に割り入って迅は自らの舌をねじ込んだ。そちらに集中しようとすると元からソファでぐったりしていた身体が、もっとずるずると落ちた。それが合図となったのか、揺らぐ背中を強くソファに起き止められた。
「…ふ、…ぁ………」
応えてくれた。迅の頬を軽く担いだかと思ったが、次の瞬間には唇の下を押されて開かれ、嵐山の熱い舌が絡んだのだ。甘いだけの筈の舌が、深く求め合うたびにピリピリとひりついた。決して嫌ではないその苦しい気持ちにねたぶられて、もっともっとと声に出さなくともわかるそれを続ける。唾液が口の端から漏れるのも気にせずに確かめ合う。それが例えオメガのフェロモンに引きずられてだとしても、本物ではないとわかっていても、ちろちろとまさぐられるのが、熱い吐息を飲み込むほどに、しゃべる間もなく突き動かされた。
人肌より熱いシャワーに浴び続けたような、とても蒸し暑い空間だった。迅の口内がもう感覚もなくなってしまったようにどろどろになると、ようやく二人の顔が離れたが、それを良しとしないのがオメガの性だった。迅は嵐山の首の後ろに回した腕を再び精一杯引き寄せる。じわりと後ろが勝手に塗れてくるのをどうにかして欲しい。とろけるように砕けたヒクつく自らの腰を押し付けて、その足を絡ませて、これ以上を望む。
それが引き金となって…あとはなし崩しだった。



ずるりと迅の体内から嵐山の性器が引き抜かれた。そうして白濁が迅の内股を伝う。すでに互いに何度も達していたが、嵐山を受け入れるようになったとろけている器官の痙攣が、ようやく収まりを見せたのだ。それまで互いの興奮状態が納得するまでずっと搾り取り続けていた。理性の糸が切れた人形になった迅は、初めて雄を受け入れた喜びに何度もうち震えた。アルファを受け入れる事を何の疑問も感じないように出来ていることを思い知ったのだ。なんて…浅ましい。その間、譫言みたいにあえぐ嘆声を繰り返えし、いやらしい粘着質な水音だけがずっとこの空間に響いていた。すでに痛みは感性に変わり、求めるようにひくひくと恐縮していたそこは、そのままぽっかりと穴が空いたまま閉じずいた。まるで嵐山の性器の形のまま迅の身体が作り変えられたように、尻の間から出された精液がとろとろと漏れ、塩ビのソファにぷくりと溜まった。
急に冷静になったように、迅の身体の熱が冷めた。なにか霞がかかったように鮮明でなくなった事。これは後で知ったことだが、熱に浮かされていたせいだとこの時は思ったのだ。乱れた身体はそのままに、ソファからなんとか身を起こして背もたれに深く寄りかかる。のけぞる以外ではろくに上げなかった顔を垂直方向へ向かわせると、嵐山の顔がようやくきちんと見えた。ただひたすら迅の要望に応えてくれた彼は、なんでこんなことをしでかしたのか理解出来ていない瞳の色を見せていた。そう…紛れもない後悔の顔だった。
「………すまなかった。こんなことするつもり…は」
ようやく互いが少しは落ち着いて会話できるまでになった。そうして嵐山はこちらに手を伸ばしたが、びくりと迅が震えたので、また途中で止まる。
「違う。嵐山は悪くない」
それは間違いではなかったから一番に用意した言葉でもあった。嵐山が責任を感じる気持ちもわかるが、それ以上の事情が迅にはあったから。
「そんなことは!」
「嵐山があやまることなんて一つもないよ。おれが誘ったんだ」
事実、嵐山のズボンに最初に手をかけてその性器を取り出したのも迅だった。およそ同姓など抱いたことないであろう彼の優しさに付け込んで淫乱に誘ったのだから、理性がふりきれたとしても非難されるべきではないのだ。嵐山はアルファなのだから発情期のオメガを襲うのは道理とも言える。迅をオメガだと気付いていない嵐山からすれば、しでかした事の大きさに踏み潰されるくらいなのは本当に申し訳なかったが。やはりオメガの身体はおそろしい。今後もこんなことをする可能性があると、潔癖にも近い嵐山に吐露することはとても出来なかった。絶対にオメガだとは知られたくない。それだけが今、迅の心を占める願望だった。
「あー黙ってたけど。おれ、防衛任務した後とかは少し気が立つというか…うん。興奮するというか。おれも全然処理してなくて最近ご無沙汰だったから。それに嵐山は経験ないかもしれないけどさ。男同士でもふざけて握り合いっこぐらいするの普通だって」
発情の波の飲まれた時とは違い、嘘みたいに冗談めいた呂律が勝手に回った。迅の言葉を聞いているだろうに、嵐山は押し黙ったままだった。今度は黙りこくっている嵐山にこれは遅い思春期の過ちだと直に告げる。そうだ大きな犬に噛まれた程度のことだと訴えるが、何も納得など行かないように嵐山は軽く頭を振った。迅の言う言い訳など頭に理解しようとはしていなかったのかもしれない。
「違う。違うんだ!そうじゃない……… 俺は迅のことがずっと好きだったんだ。だからこんな形を迎えたくはなかった」
なにか、なにかを嵐山が言っている。だけどそれを直ぐに理解し飲み込めというにはあまりにも重すぎる内容だった。どこかで欲しかった言葉なのに、それはズキンと痛すぎた。
「本当にすまない…」
その後に続く言葉はなかった。
嵐山は真面目だから、きちんと手順を踏んでとか、そんなことでも考えていたのかもしれない。
あ…これは駄目だと迅は思った。嵐山の告白は確かに嬉しかった。この場で泣きたいくらいにだ。でもこんな未来は存在しないことを迅は知っていた。とても自分の気持ちを伝えることなんて出来なかった。好きだからこそ違う未来を…嵐山の最善の未来はここにはない。
「この事は、お互いに忘れよう。事故か何かだと思ってさ。おれたちは友達なんだから」
明るく歯が浮くように、迅はフレンドシップを強調した。友達の定義なんてわからないけど、それはまるで自分と嵐山はただの友達だからと念押ししているようだった。
向き合う嵐山は、納得いく顔はしていなかった。それでも自分のしでかしてしまったことの大きさに嵐山自身がまだショックを受けている様子で、一先ずはそこで場が取りおさまった。

身体はだるくて仕方なかったが、落ちた衣類を拾い上げ元のように身に着けて迅は仮眠室をなんとか出た。そのままおざなりにあまり人の来ないシャワー室を選んで入り、そんな場所に指を突っ込んだことなんてなかったが、中の精液をかきだし後処理した身体を引きずって玉狛支部の自分の部屋に帰った。隠していた抑制剤を飲んでベッドに沈むと、ようやく本当の意味で落ち着いた。たった数時間の出来事が、何倍にも感じられる疲労感だった。油断をしていたのだ。自分は大丈夫だと。うまく立ち回れていると。
迅は、嵐山の空気感が何よりも好きだった。親愛を向けてくれる、あの顔がもうきっと…。このことは忘れよう。なかったことにしようと嵐山に告げたこの言葉を自分自身にも暗示かけるように。少なくともこれから迅はいつもどおりにふるまわなくてはいけない。嵐山を動揺させてはいけないのだから。





翌朝、昨日のような発情発作は嘘みたいにひいていた。やはり抑制剤の効果は抜群だと、この時の迅は思った。薬さえ飲めばあんなことにはならなかったということを身に染みるのは悲しいことだけれども。しかしさすがにどこかというか全部の調子が悪い。いくら迅がオメガとはいえ、男同士で何の準備もなく無理やり身体をつなげたら具合が悪くなるのも仕方ないというのはわかる。多少の気持ち悪さというか、断片的な吐き気がする。それにしても少しおかしい。発情期は一週間続くはずなのに、普段薬を口にしている変妙に感じる気だるさのようなものは一切訪れていなかった。そのあたりだけは、普段と変わらなかった。一度セックスをして思い切り発散してしまったから大丈夫なのだろうか。また本部に呼ばれている用事はあったが、昨日の今日で冷静に嵐山と遭遇することなんて出来ないから、大事をとって一日は休んだ。迅のスマートフォンには嵐山からの謝罪の連絡が何回も舞い込もうとだ。
玉狛支部から本部へと向かう連絡通路はいくつかあったが、迅はいつも使わない人通りの少ない道を使った。本部に着くと少し緊張しない方がおかしいだろう。迅は嵐山とセックスしてまったこと自体に嫌悪感はなかったが、彼にあんな顔させてしまったことの方がショックを受けた。しかし、今日は大丈夫な筈だ。嵐山隊のスケジュールは確認した。彼は今、本部にはおらず、警戒区域外の市民で広報活動をしている予定だ。いくら真摯な嵐山とはいえ、他の隊員も影響する隊務を迅の為だけに放り出すわけがない。そう安心して人気の少ない上層部へフロアと向かう本部通路を歩いていたのだが。
「迅、見つけた!」
突然、後ろから名前を呼ばれたので、反動的に驚いて振り向いた。
「…なんだ。太刀川さんか。どうしたの?」
ヒヤッとしたが、それが一番危惧する相手ではなかったことに絶対的な安心を手に入れた迅は、いつもの調子を振るう。軽く手を挙げてやってきたのは、小走りした太刀川だった。私服なので、太刀川も今本部に来たばかりに思えた。
「ヤバい、ヤバいんだ」
両手で浮かんだ何かを掴もうと震わすように、その言葉を太刀川は繰り返している。
「えっ、何がヤバいの?」
どうも会話が成立していない。ここの所、太刀川と会えば模擬戦やろーぜ的なノリを一番に食らうことが多かったので、余計にだ。
「俺の単位がヤバい」
ズバリと指を一本立てられて、主張される。
「えーと、それいつものことでしょ?」
瞳孔を開いたまま真顔で断言されたが、正直拍子抜けした。よく考えればその状態でヤバいヤバい連呼しているだけで太刀川の学力はお察しくださいレベルなのかもしれないが。そもそも迅でなくとも、太刀川の大学に対するやる気のなさは有名な話だった。本当に何のために大学通っているのだろう…
「今回はマジでヤバい。このままじゃ落とす。テストの山、教えて下さい」
急に丁寧語になって、両手を合わせた太刀川は拝むように切実な訴えを起こした。それは神様仏様迅様とこのまま念仏を唱えられそうな勢いだった。
一瞬身構えたが、なんだそんな用件かと本人には悪いが心のどこかで安心した。あんなことがあった後だから、アルファの太刀川と対峙したらまた困るかもと一瞬迅の頭を過ぎったが、ほらっいつもどおりだ。向こうもなんの反応もない。一応、今まで発情期には常に懐に飛び込むようなことはしていなかったとはいえ、アルファに遠巻きながらも近寄っても大丈夫だとこれで証明された。もう絶対あんなヘマはしない。
「だーめ、頼らないでよ。おれ、そんなことにサイドエフェクト使いたくないし」
別に太刀川以外だってたまに冗談でそういうことを要望されたりするが、何より本人の為にならないから、全て断っていた。特に学業は、たとえその場限りを取り繕ったとしても、何の解決にもならない。それこそ未来がもっと不安定になるだけなのだから。
「ずるいぞ。おまえは大学行ってないから、わからないんだ。このヤバさが」
責任転換された後に、頭を抱えて太刀川はこの世界の不条理さを訴えている。A級一位とは思えない大変残念な姿を晒しているが、本人はそれどころではないからリアクションが過大でも気にしていない。別にこんなことで迅は太刀川を打ち負かしたいとは思ったことはないのだが、困ったライバルだ。
「そんなこと言われてもな」
少し笑いながら答える。太刀川を利用しているようで悪かったが、普段通りの対応と言葉が発せて迅は少し安心していたのだ。太刀川相手に普段通り立ち振る舞えるのであれば、この間の事はトラウマになったりしないと自分に思い込ませることが出来るような錯覚にさえ感じた。
「じゃあせめて、今のままだとどんだけヤバいか教えてくれ」
このままの勢いだと、こちらにしがみつこうとするくらいの勢いだった。さすがにそれは不味い。
「そんなこと知る前に勉強しなよ…仕方ないなぁ」
あくまでも粘られたので一つ大きな溜息をついて、貸し一つ追加的な了承の言葉を出す。太刀川に情報を与えすぎずギリギリ本人の努力でどうにかなる程度…ああちょっとメンドクサイという気持ち。
迅にとって未来視というサイドエフェクトは意識して使うものでもあった。癖のように使う当たり前のもの。今回は頼まれたから仕方なくという気持ちはあったけれども、その能力に障害だなんて今まで存在する筈もなかった。生まれた時からもっている第六感にも近い超感覚―――
「…あれ?」
流れるような動作はいつも起こりうる筈だった。でも…
「どうしたんだ?」
「いや、ちょっと今日は調子悪いみたい」
目を泳がせて、言葉を濁す。まだ人と対峙しているから、そう簡単に冷静にはなれなかった。
「おいおいおいおい…」
迅の言いぐさを冗談だと思っているようで、太刀川は盛大に震える突っ込みをしてきた。
そんな二人のやり取りの最中を遮る声が混じる。
「慶」
短く切って名前を呼ばれた太刀川が、びくりと後ろを振り向いた。太刀川を下の名前で呼ぶ人間だなんてボーダーには限られすぎている。
「げっ、忍田さん」
突然の本部長の登場に、一番まずいものを見たという表情をありありと示している。太刀川は身長も体格もそれなりにある男だったが、急に小さく縮んだかのように肩を恐縮させたのだ。
「師匠に向かって、その言葉はなんだ?大学から連絡があったぞ。また単位の期限が迫っているようだが、こんなところで油を売っている場合か?」
両腕を組んで明らかに怒っている。普段は実直で真面目な忍田も、本当に怒ると誰よりも怖いとそれを一番身をもって知っているのは太刀川だろう。ただでさえ剣の師匠で太刀打ちできないのに、太刀川の唯一と言っていいほどのメリットが通用しないとなると、頭が一向に上がらない様子だ。
しかしそんな二人のやり取りも、今の迅の頭には微笑ましくは入ってこなかった。まさかと思い、無断で悪いとは思ったが目の前いる忍田の未来を迅は視ようとした。だが、頭はいつまでもすっきりとはせずに霞がかったままで、視えなかった。
声もかけずに直ぐに迅は言い合いをしているその場から立ち去り、人の多い模擬戦室へと駆け足で向かう。朝方だというのに模擬戦室が行われる個室へと向かうと、フロアにはたくさんの隊員がいた。みな、番号を示すパネルや既に模擬戦を行っている人の立体ビジョンに目を向けているので、迅が入ってきたとしてもそれほどの注目が集まるものではなかった。その中には、迅のよく知る顔も知らない顔たくさんいる。本部に常駐しているわけではない迅を見て駆け寄ってくる人々もいる。だが、その誰もかも未来は視えなかったのだ―――

一通り落ち着いた後、迅は先ほど太刀川と忍田が言い争っていた場所まで戻って、報告した。
『自らの未来視であるサイドエフェクトが失われたことを』
それは迅の身体の…意識の一部でもあった。未来視が消えた。視えない。何もだ…普通の人には当たり前のことが…今、迅にふりかかったのだ。
酷い騒ぎとなり、そうしてすぐに検査を受けることとなった。開発室へ連れていかれて、外部からトリオン値を測定したが、特に異常なかった。それだけではない。ボーダー隊員は定期的に検査を受けることとなっているが、その一通り数値が以前の迅と何ら変わりがなかったのだ。風刃含めてトリガーも問題なく起動できる。身体活動に異常もない。これはもしかしたらトリオンとは違う…何か内的要因が原因ではないか?と開発室は見当をつけたようだった。開発室での一通りの検査を終えた迅は、更なる詳しい検査をするために、医務室へと向かうように指示された。
当直の産業医が呼ばれるまで、迅は医務室のパイプソファで待つこととなった。医者が来ると言われてここでようやく迅は冷静になったのだ。最後にサイドエフェクトを使ったのは嵐山と身体を繋げる少し前の事だった。あの時、迅は視ようと思ってサイドエフェクトを使ったわけではなかった。ただ強制的に引きずり出された感覚と共に視えたモノ。あれは予言だった。トリオン器官の異常だとかそれがキッカケで未来視が失われたわけではないと、ようやく理解した原因は一つしかない。嵐山とセックスしたからだ。たった一度きりとはいえ、避妊具もない状態でしかもアルファと発情期にすれば…結果はおのずと視えてくる。
迅は、自分は身ごもった…という身体の変化に気が付いた。
そう…未来視のサイドエフェクトは前もそうだった。以前、未来視を持っていたのは迅の母親だったからだ。一子相伝の、種の保存。それは子供が未来視を引き継ぐのだと当時まだ幼かった自分は理解できなかったが、言われたのを覚えている。迅はなぜ自分がオメガなのかとずっと謎に思っていたのが、はっきりした。たった一人の子供へと未来へと未来視を残すために必要とされたのだった。
子供をおろしてもきっと迅に未来視は戻ってこない。産まれた時から未来視をもっている迅に今更依然と同じ生活を送るのは困難だった。いくら未来視を使わずとも並のボーダー隊員より格上とはいえ、嵐山と以前のように肩を並べることはできない。それは両の眼を失ったにも等しい。対等な立場を望んでいるのに。全てを伝えて子供とともにボーダーで生きていく。きっとそれが迅と子供にとっては一番安全なことだろう。トリオン量は遺伝しないといわれているとはいえ、産まれる前からサイドエフェクト持ちということは必然的にこの子のトリオンも高いという事になる。それは同時にネイバーに狙われることが多くなるということだ。それこそ迅の母親のように。だが、それを選んだら嵐山はどうなる?寝耳に水だ。あの様子だとオメガだとはまだ誰にもバレていない。突然、子供が出来て…この子が成長し能力をきちんと使えるようになるまで、ボーダーにとっての資産といってもいい未来視を失ったこと、きっと嵐山は自分を許さないだろう。ボーダーで今まで通りにふるまえなくなってしまうかもしれない。サイドエフェクトのなくなった迅と、広報の要である嵐山という天秤がボーダーにとってどれほど重要かは明白だった。品行方正が歩いているような嵐山はずっと輝かしい道を歩いてきた。こんなところで嵐山は何もつまずいてはいけないのだ。
「おれが嵐山の人生を狂わせちゃ駄目だ」
それだけは確信的だったからこそ、思わず漏れた言葉だった。同時にそれは迅にとって、幸せになってはいけないということだとしても。それでも、こんなことでもなければきっと嵐山との子供を授かるなんてことはなかった。これから先も。不幸なこととはいえ一度きりの好きな人との子供なのだ。目の先の未来ではない。もっと先の子供たちの世代という未来に必要なのだ、この未来視は。迅は、未来視を使ってずっと取捨選択をしてきた。救える命もあった。だから自ら捨ててはいけない。
全て自分の不注意がこんな事態を招いてしまった。自分には未来視があるからと油断して、オメガであることを誰にも言わず隠しているからこんなことになってしまったのだ。このままボーダーに残ることは到底出来なかった。ボーダーを普通にやめても記憶操作が待っている。忘れるのは嫌だ。

そうして迅悠一は、ボーダーを…そしてこの世界を去った。





◇ ◇ ◇





未来視を…そして迅悠一という人材を失ったボーダーに、簡単には安息は訪れなかった。

迅が姿を消したその日。明らかにこちらの世界から干渉されたと思われるゲートが開いた。追手が駆け付けた時、迅一人のトリガー反応だけを残して跡形もなく消え去っていた。迅悠一は無断で異世界へと渡って帰って来ない。逃走ともいえる。これがボーダーの出した結論だった。もはや生きているのか死んでいるのかもわからない。突発的なことだろうとは後で言われた。ボーダー隊員は金銭的困らないとはいえ、迅がもらっていたはずの給料や手当は使っていたとは思わないが本当にそのまま残っていたし、自室に置いてあるものもいつもどおりだった。元から身軽にしている迅は、自室にさえベッドと好物の段ボールの山くらいしかマトモなことはなかったとはいえ、あまりにも風のようだった。
ボーダー的には迅は、未来視のサイドエフェクトを失ったことが原因で失踪となっていたが、嵐山は単純にそうとは思っていなかった。消えたのがほかならぬ迅ということで、捜索隊が組まれたことも何度かあったが、手掛かりはあまりにも少なすぎた。広報を担当している嵐山は遠征に行けない。自らの手で探すことも出来ず、本当の意味で手の届かないところへ行ってしまったのだった。迅に対する気持ちを意識してから、何度が本人にこの核心を口にしようとした。でもいつも迅は嵐山の手の届かない場所に行く。飄々とした様子で、掴もうと思ってもするりと逃げられてしまったのだった。

「嵐山本部長。人事部からの書類です」
「ありがとう、そこに置いておいてくれ」
それでも、彼が喪失してからあっという間に十年以上の歳月が流れてしまった。それぞれの立場も移り変わり、嵐山は順当に本部長の地位についた。ボーダーは十年前よりはるかに巨大な組織になっていた。以前は三門市に限られていた防衛も、イレギュラーゲートが開く他の県や別の国にも派遣するようにもなり、集まる人員も国籍や人種問わず、優秀な人材が集まるようになってきた。
そう…この十年間。ネイバーによる大規模な侵攻は全て未然に防ぐことが出来ている。それは、隊員たちの尽力の成果ともちろん言えるものであったがもう一つの要因があった。
迅が消えてから、五年後だっただろうか。手紙が届くようになったのだ。初めは驚いた。本当に迅が送ってきたものなのか?とボーダー上層部は慎重な対応を求められた。少し癖のある字体は確かに迅の筆跡で、挨拶も何も記載なくただ、用件のみの簡素で断片的な内容が毎回書かれていた。それはネイバー侵攻に関する情報が主で『未来視のサイドエフェクトがそう言っている』と毎回〆られていた。それはいつもの彼の口癖だった。手紙で迅が示唆したことは確かに予知だったからこそ、手紙の言うとおりに行動すると、被害は最小限に留められた。送られてくる手紙はそう多い回数ではない。年に一度か二度程度の。送り先は巧妙隠されていたので居所は掴めなかったが、迅が生きているということはそれだけでも嵐山にとって救いだった。
滅多に届く手紙ではないとはいえ、最近…ここ数か月、迅からの新しい手紙は舞い込んでこなかった。嵐山は次の仕事を進める前に、そっと引き出しを開く。そこに並ぶ今まで届いた二桁にも満たない手紙達が、今の嵐山を本部長という立場へと駆り立てた一番の要因だったかもしれない。結局ボーダーで地位があがったとしても迅を見つけられるわけではなかった。それでもせめて手紙くらいは…と生まれて初めて卑怯にも権限を使って、手元に置き続けた。
感傷に浸れるのは、ほんのわずかな時間だ。先ほど廻されてきた書類を確認しなければいけない。立場は変われど縁あるのか、嵐山が今見ているのは新しい訓練生のデータだった。あまり書式は昔と変わらない。今は現場で訓練生を直接指導することはないが、それでも本部長として全隊員のデータは頭に入れておかなくてはいけない。本来ならば本部長である嵐山が訓練生一人ひとりを吟味しているほどの余裕はないが、それでも真面目な嵐山は、めくら判など押さず、一通り目を通していた。
最初に本部所属の訓練生のデータが大量にあったので、それを嵐山が目にすることとなったのは最後の方と言ってもおかしくなかった。珍しく玉狛支部から新規隊員の届が出されているのだ。今では木崎が支部長となり、それでも昔と雰囲気は変わらない。元林藤支部長を含め、かつての上層部は顧問役として自分たちをよく指導してくれている。今の玉狛支部は十五歳の林藤陽太郎を隊長として相変わらず少数精鋭でやっている。さて今回はどんな前途有望な隊員を組み入れるつもりかと、嵐山は期待を膨らませながら書類を読み進めた。
まず一番に目に入る名前―――それに、驚かない方が不自然だった。
「迅………」
自分以外誰もいない本部長室で思わず声を漏らす程だった。新しい隊員の名字は、目を疑わない方がおかしいくらいの…かつての迅悠一と同じ名字だったのだ。迅という名字は比較的珍しい名字だ。少なくとも嵐山はあの迅悠一以外でこの名字の人間とは出会ったことがない。書類には、その名前と男だという性別と九歳だという年齢だけしか書いていない。玉狛支部の隊員は本部が推奨するトリオン量などのデータを基本改めては提示しない。だかこそ、必要最低限なプロフィールしかわからなかった。
嵐山の本能が戦慄くようにカッと震えた。この隊員は紛れもなく迅悠一の関係者だろう。迅の母親が亡くなっていること、本人が一人っ子なこと全てを嵐山はわかっていて、それでも行動は早かった。
「はい。木崎です」
本部長室から玉狛支部へと繋がるホットラインではなく、嵐山は自分の携帯電話で直接、支部長である木崎へと電話をかけた。そして有り難いことに、直ぐに繋がった。
「嵐山です。木崎さん、あの…迅という名字の隊員のことですが」
「書類がそっちに廻ったんだな」
挨拶もそこそこに会話が始まったが、納得の重み言葉で返される。きっと木崎は嵐山からこの電話が来ることを予見していたのだろう。
「はい。彼は一体、何者ですか?」
その一言に全ての意図が込められていた。本当は支部の人間に干渉することはフェアではない。それがわかっていたとしても、嵐山は尋ねることを止めはしなかった。
「俺の口からは説明出来ない。直接本人に会った方がいいだろう。時間はあるか?」
「はい」
嵐山がそう答えると、木崎はこれから本部長室に一人で連れて行くと言ってくれた。ありがとうございますと言葉をつづけると、時間を指定される。短いやり取りだったが、電話は直ぐに終わった。ただ電話するだけなのに、無意識に椅子から立ち上がっていたのだと嵐山はここで初めて気が付いた。



そうして…約束の時間違わずに、本部長室に控えめな三回のノックが響いた。
「どうぞ」
嵐山は席から立ち上がって入室を促す言葉を出した。
そして、本部長室に彼が来た―――
「はじめまして、嵐山本部長。おれは迅悠一の息子だよ」
昔よく見た蒼の隊服に身を包んだ少年はゆっくりと中へと入り、挨拶をした。
そう…懐かしい口調でしゃべった九歳の少年の顔の造形は、嵐山と瓜二つだった。嵐山の弟妹とも違う…そうして嵐山は瞬時に悟った、迅悠一だけではなく自分もこの子供の親であるということを。
「そうか…迅はオメガだったんだな」
迅と身体をつなげたときの違和感。あの冷静な迅があんなに乱れるだなんて。他の要因をもっと考えるべきだったという後悔。あの時はすぐに気が付くことができなかった。そうだ…今まで気が付かなかったことの方がおかしかったのだ。
そして全てが合致した。理解した。理解してしまったのだ。なぜ迅がボーダーを辞めたのか。自分の側を離れたのか。全て嵐山の為だったのだ。嵐山はみんなの期待に応えてきた。それを叶えるためにも地位は必要で、努力してここまで登ってきた。それでも本当に大切なものがこの手にあったわけじゃなかったのだ。それを迅は望んでいたとしても。
「…君はどうしてここに来てくれたんだ?」
迅悠一本人ではなくその子どもが目の前に来た意味、それを嵐山は測りかねていた。自分という親に会いたかったとはきっとあまり思ってはいないだろうし、本人もピンとこないに違いない。きっと迅は一人でこの子を育てて大変だっただろう。今まで何も知らずにいた嵐山はとてもこの子の親とは言えない。許されない。
「あなたに、迅悠一を会わせるのが約束だったから」
そう言いながらゆっくりと嵐山の前にまで歩いて来て、少年は後ろ手から黒い無機物を差し出した。嵐山の目下に現れたのは、九歳の子供の手にはあふれるほど大きいトリガーだった。
それを出された瞬間、嵐山は何も考えられなかったが、それでも手を伸ばし何とか受け取った。
ああ…これは嵐山の愛した『迅悠一』だ。
黒トリガーという形で嵐山の元に帰って来てくれた。そんなことを嵐山が望んでいなくも、これが迅悠一の唯一の望みだったのだろう。どんなに硬く握りしめても、それは変わらない。迅悠一はここにいる。

「迅悠一の最期の言葉は『嵐山はおれとボーダーのヒーローなってくれたかなぁ』だったから、おれは教えてあげたよ。大丈夫、その未来は叶う。おれのサイドエフェクトがそう言っているってね」
精一杯、迅悠一の昔の口真似をした少年は少し辛そうに微笑んでいた。
そうして、嵐山は初めて自分の息子の背を抱きしめたのだった。





お れ の ヒ ー ロ ー